33.(不器用な彼へ)
その日、ミハイルはデジレの屋敷をお忍びで訪ねていた。いずれ公式の場で彼らと会うことになるだろうが、その前に個人的に話しておきたかったのだ。
「ようこそいらっしゃいました、ミハイル様。主がお待ちです」
屋敷の玄関で、顔見知りの老人が彼を出迎える。この屋敷の執事長であるこの老人は、馬車からたった一人で降りてきたミハイルに顔色を変えることなく、うやうやしく彼を屋敷の中にいざなった。
勝手知ったるこの屋敷を、それでもミハイルは客人としての節度を保ち、執事長の案内に従い歩いていた。前を行く執事長の足が向いた方を見て、ミハイルは思わず口を開いていた。
「おや、もしかして彼は中庭なのだろうか。彼が昼間から外にいるのは珍しいな」
「はい。ちょうど午後のお茶にされているところです」
「……召使たちは大丈夫なのだろうか」
ミハイルはまだ幼い頃から、デジレがどれだけ若い女性を魅了するのかを目にし続けてきた。だからこんなことを尋ねたのだが、返ってきた答えは意外なものだった。
「お気遣いいただきありがとうございます。最近では召使たちも少々おとなしくなったようなのです。……これも、フローリア様のおかげでしょうか。いずれにせよ、とても喜ばしいことです」
そう語る執事長の目元には、優しいしわが刻まれていた。まるで我が子を見守る父のようだと、ミハイルはそう思った。
「そうか。これをきっかけに、彼ももっと表に出られるようになればいいのだがな」
彼の言葉に、執事長はさらに優しい笑みで答えていた。
ミハイルが案内された中庭では、相変わらず冗談のように並外れた美しさを誇るデジレが、優雅に椅子に腰かけて薔薇を愛でていた。その隣には、いつものように召使のお仕着せをまとったフローリアが静かに控えている。彼らの距離は、ただの主従ではありえないほど近かった。
二人の変わりない親密さに、ミハイルの口元にかすかな笑みが浮かぶ。しかし彼の頭には、一つの疑問も浮かんでいた。勧められるまま空いた椅子に腰かけると、ためらいがちに口を開く。
「確か、君たちは……正式に婚約したところだったと思うのだが、彼女のその姿は」
ミハイルはそれだけしか言わなかったが、彼の言いたいことはしっかりと二人に伝わったようだった。デジレが小さくため息をつき、目線を落としながら答える。
「私は、もう傍仕えとしてではなく恋人として傍にいて欲しいといったのだがな」
「デジレ様はこうおっしゃっていますが、嫁入り前の女性が、婚約者とはいえ男性の屋敷に住み込んでいるのはどうかと思ったのです。ですから、私は一度実家に戻ろうとしたのです。……もう、逃げる必要はありませんし」
「しかし私は結婚までのわずかな間とはいえ、彼女と離れているなど考えられない。だから仕方なく、こうやって傍仕えのままこの屋敷に滞在してもらっているのだ」
二人の息の合った説明に、ミハイルは笑みを漏らす。フローリアのことしか見えていないデジレとは対照的に、フローリアはあくまでも冷静で、節度を保っていた。
うっとりと傍らの婚約者を見つめているデジレに、ミハイルは優しいまなざしを向ける。
デジレは子供の頃からやたらと美しく、十歳になる頃には既に、異様なほど女性たちに思いを寄せられるようになっていた。もっと小さな頃から彼と親しくしていたミハイルの目から見ても、それは異常に思えるほどだった。
それから十年以上女性たちに追い回され続けたことで、デジレはすっかり女性が苦手になってしまっていた。若い女性の姿を見ることすらうんざりだと、彼はミハイルに幾度となくそうぼやいていたものだ。
だから彼は、まともに恋愛などしたことはなかった。普通の令息であれば親しくしている令嬢の一人や二人いるものだし、そういった相手と恋に落ちることもある。けれどデジレは、そんな関係とはずっと無縁だった。
そんな彼が、ここまで夢中になれる相手を見つけた。デジレの行く末を少しばかり心配していたミハイルは、そのことがとても嬉しかった。
それと同時に、ミハイルは彼の変わりようがおかしくもあった。文字通り初めて恋を知った身なのだから仕方がないといえば仕方がないのだが、ああやってフローリアを見つめているデジレは、まるで十四、五の少年のようにも見えたのだ。少なくとも、とっくに成人した男性としての分別など、どこにも見当たらない。
かつてミハイルが彼女と親しく話していた時など、デジレはそれは分かりやすく嫉妬していたものだ。そのことを思い出しながら、ミハイルは口を開く。
「二人とも、婚約おめでとう。どうしてもそれを言いたくて、こうしてここまで来てしまったのだ。二人とも幸せそうで何よりだ」
ミハイルの祝福の言葉に、二人は揃って微笑んだ。フローリアは礼儀正しく、デジレは思わずミハイルですら見とれてしまいそうなほど甘く。
「フローリア、かつて私は君に、デジレをよろしく頼むと言ったものだが……こうして無事に婚約と相成ってくれて、心から嬉しく思う」
「ありがとうございます、ミハイル様。あのお言葉は、今もこの胸にございます」
嬉しそうに微笑みあう二人に、とたんに不機嫌な顔でデジレが口を挟む。
「ミハイル、彼女は私の婚約者だぞ。軽々しく声をかけるな」
「デジレ、束縛が過ぎて嫌われても知らないぞ」
ミハイルが王子とは思えないほど軽やかに、しかし親しみを込めて言葉を返す。フローリアがきょとんと眼を見張り、デジレの眉間のしわがさらに深くなった。
「束縛などと、人聞きの悪いことを言うな」
「そうだろうか? フローリア、君はどう思う。彼は少々、独占欲が強すぎるように見えるのだが」
「あの、それは」
さらに愉快そうに笑うミハイルに、フローリアが戸惑いながら目線を泳がせた。彼女がすぐに否定してくれなかったことに衝撃を受けたのか、デジレが目を見開いた。その形のいい眉が、すっと下がる。
「……フローリア、もしかして私は君の重荷になっているのだろうか」
「いえ、そんなことはありません。ミハイル様の質問に、少し驚いただけで」
予想外に落ち込んだ様子のデジレをなだめながらも、彼女の目は笑っていた。それを見たデジレが、ためらいつつも彼女に手を差し伸べた。まるで、幼子がすがっているような姿だった。
「私は器用なたちではない。きっとこれからも、君に迷惑をかける。ただ、私は君を愛している、その思いだけは決して変わらない。それだけは、信じてくれ」
「はい、もちろん分かっています。……あなたは不器用で、でも純粋な方なのだと」
あっという間に二人は手を取り合い、見つめあってしまった。すっかり忘れられた形になったミハイルが苦笑し、ゆっくりと立ち上がる。
「どうやら、私は二人の邪魔になってしまいそうだな。相変わらず仲のいいところを見ることもできたし、そろそろ失礼させてもらうとしよう」
「何だ、来たばかりだというのにもう行くのか」
「実は、公務がまだ山ほど残っているんだ。無理に半日だけ時間を空けて、駆け付けたのだよ。早く戻らないと、代わりを務めている大臣に迷惑をかけてしまう」
いたずらっぽく笑うミハイルに、フローリアは恐縮したように頭を下げた。その横で、デジレが静かに、穏やかに笑いかけてきていた。ミハイルとデジレは一瞬目線を合わせ、そしてうなずきあう。
「……二人とも、どうか末永く幸せに」
良かったな、デジレ。いい人に巡り合えて。決して、彼女の手を離すなよ。お前のような面倒な男の素顔を知った上で、全てを受け入れてくれる人はそういないだろうから。
そんな言葉にしない声援を送りながら、ミハイルは二人に背を向けた。
本編はここで完結です。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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かなり大がかりな加筆修正をしていますので、読みごたえは保証できるかと…。




