32.元の日常へ
悲しい真実が明かされたあの日から一か月が経った。私は正式に聖女として認められ、その旨を伝える知らせが国中に広められた。神託の解釈にちょっとした間違いがあった、という一言を添えて。
レナータとマルク様は、もう辺境に送り出されている。あくまでも一人であることを選ぼうとしているレナータは、それでもマルク様に黙って付き従っていった。
聖女にまつわる騒動は全て終わりを告げ、王宮には平穏な日々が戻ってきていた。
あの日に気を張り詰めていた反動からかしばらく呆けていた私も、ようやく元の調子を取り戻していた。そして以前と同じように、穏やかな毎日の繰り返しに戻っていった。
今日もいつもと同じように、私ははたきを片手にそこらじゅうを掃除していた。私が掃除しなければならない範囲はそう広くはないけれど、うっかりさぼってしまったらあっという間に埃が積もってしまう。
張り切りながら掃除を続けていると、後ろから声がかけられた。
「フローリアさん、こちらの掃除はもう十分ですので、そろそろデジレ様の話し相手をお願いできませんか」
そこには執事長のジョゼフが、にこやかに微笑みながら立っていた。
私は結局、今もデジレの屋敷で働いている。離宮で互いの思いを確かめ合ったこともあって、どうにも離れがたかったのだ。それに、私が改めて聖女となったとはいえ、唯一の義務である聖女の儀式はもう終わっている。私を縛るものはもう何もなかった。
別に働かなくとも、ただ傍にいてくれればいいとデジレは言っているが、彼の身の回りの世話をする者は必要だし、じっとしているのは性に合わない。それに、私以外の者が彼の世話をするのは嫌だ。そう主張したところ、デジレはやけに嬉しそうに笑って私の主張を受け入れてくれた。「独占されるというのも、悪くないものだな」と言って。
「つい先ほどまでデジレ様と話していたところなのですが、またうかがうべきなのでしょうか」
そう疑問を口にすると、ジョゼフはしわの寄った目元をほころばせながらゆっくりとうなずいた。
「デジレ様は、あなたがすぐに傍を離れてしまうのだとおっしゃって、少々すねておられます」
ジョゼフの顔には、思い出し笑いのような表情が浮かんでいた。デジレはあれで駄々っ子のようなところがある。ことさらに不機嫌な顔をしてみせながらふてくされている彼の様子がありありと思い浮かんで、私もつられて微笑んだ。
と、そこに家政婦長のマーサが、色々なものを乗せた小さなワゴンを押しながらやってきた。彼女は相変わらずおっとりとした口調で声をかけてくる。
「あら、だったらちょうどいいわ、お茶の支度が整ったところなの。今日のお茶菓子は、コックの自信作なんですって。……それにしても、ねえ」
「ええ、そうですな」
二人は何やら意味ありげにうなずきあいながら目配せをしている。同時にこちらを向いた二人は、とても楽しそうに笑っていた。
「フローリアさんはさらに雰囲気が変わったわね。とっても幸せそう。恋って、ここまで人を変えるのね。きっとそのうち、もっと変わる筈だわ。ああ、その時が楽しみ」
「私もそう思います。こうなると、一刻も早く『フローリア様』とお呼びできる日が来ることを願ってやみません」
さすがの私も、二人が何を言おうとしているのかははっきりと分かった。けれどうまい答え方が見つからない。少し考えた後、黙って頭を下げた。耳が熱い。きっと赤くなっているのだろう。
「あらあら、初々しいのね。可愛いこと」
「私も同意です。さあ、そろそろデジレ様が待ちくたびれておられるでしょう。フローリアさん、どうぞごゆっくり」
返事をする間もなくワゴンを私に押しつけると、二人は驚くほどの速さで立ち去っていった。気を取り直すと、そのまますぐ近くの部屋に向かう。
「やっと来てくれたのだな、フローリア」
「つい先ほどまでここにいましたが」
「そうだったか? 君と離れている時間は異様に長く感じられるな。できることなら、一瞬たりとも離れていたくない」
部屋の中で待ち構えていたデジレは、私の顔を見るなり満面の笑みを浮かべた。北の果てにあるという氷河ですらとろかしてしまいそうな魅力的な笑顔が、惜しみなく私に注がれる。
そんな彼に私がいつも通りの笑顔を返してお茶の支度を始めると、とたんにデジレは不満そうな顔になった。
「……つまらんな」
「何がですか?」
「もう少し、うろたえてくれるかと思っていた。この私の、渾身の笑顔だぞ」
どうやら彼はいたずら心を起こして、久々に私をからかおうとしていたらしい。それが不発に終わったのが納得いかなかったようだ。
「とても素敵な笑顔でしたけど、今さらそんなことでうろたえはしませんよ」
「ああ、私は不幸だ。たった一人の大切な恋人が冷たい」
デジレはわずかに頬を膨らませて横を向いた。これではまるで子供だ。しかしそんな表情をしていても相変わらず息を呑むほど美しい。そして、そんな彼を見ていると愛おしさがこみあげてくる。
私はお茶の支度をしていた手を止め、彼の傍に歩み寄るとそっと手を取った。私のものよりずっと大きく、そして意外にがっしりとした手を握り、指を絡める。
「デジレ様、さっきの笑顔を見て私が思ったことを教えてさしあげます。……こんなに素敵な恋人がいて、幸せだなって思ってたんですよ。うろたえるよりも先に、嬉しさが勝ってしまって……」
素直な気持ちを口にすると、そっぽを向いていたデジレがゆっくりとこちらを見た。最高級の宝石のような赤い瞳が、かすかに揺れながらこちらをうかがっている。その瞳にうながされるように、私は不慣れな愛の言葉をつむいだ。
「……愛しています、デジレ様」
きっと私はこわばった顔をしていただろう。彼はいつも甘い言葉をささやいてくれるけれど、私はいつもあいまいに言葉をぼかしていた。ここまでまっすぐに思いを伝えたのは、これが初めてかもしれない。
しかし、彼の反応は全く予想外のものだった。彼は滑らかな白い頬を真っ赤に染め、手で口元を押さえるとわずかに潤んだ瞳をそらしたのだ。その反応に私が驚いていると、彼はくぐもった声で小さくつぶやいた。
「あ、ああ。……君にそう言われると、どうしていいか分からないな。胸が高鳴ってどうしようもない」
信じられないことに、彼は照れていた。初めて見るその表情に、私の鼓動も一気に速くなる。私は彼の前にかがみこみ、すぐ近くで見つめあった。彼の表情が照れから戸惑いに、そして喜びに変わる。
そっと腕を伸ばし、彼の首の後ろに回した。彼も腕を伸ばして私を抱きとめる。彼の顔は、さっき見た飛び切りの笑顔に勝るとも劣らない晴れやかな笑みを浮かべていた。
「愛しています、あなただけを、いつまでも」
恐ろしいほど美しく、そしてどこか子供っぽいところのある彼の全てを愛おしいと思えた。彼の様々な表情を独り占めできることが震えるほど嬉しかった。
「私も愛している。ただ君だけを、ずっと見ている」
私たちはこれからも、こうやって互いを独占し続けるのだろう。そうしている限り、ずっとこの幸せは続くのだろう。
そう思いながら、私はそっと彼に顔を寄せた。深く優しい彼の香りが、柔らかく私を包んでいた。




