3.兄妹の絆と溝
「兄様、レナータでしたら今は出かけていますが」
久しぶりに見るローレンス兄様は、いつもは穏やかな笑みを浮かべている顔を厳しく引き締めていた。
「いや、今日は君に会いに来たんだよ、フローリア。今まで放っておいて、済まなかったね。僕も忙しくて、やっと仕事から抜け出せたんだ」
難しい顔をした兄様は、そう言って私の目をまっすぐに見る。兄様は若年ながら優秀で、既に文官としてかなりの出世を遂げた切れ者だ。それもあって日々多忙で、中々ここを訪ねてくる時間が作れなかったのだろう。
「……僕も噂でしか聞いていないんだけど、レナータがとんでもないことになっているみたいだね。君は真相を知っている?」
「はい。……ごめんなさい、あの子を止められなくて」
「いいよ、謝らなくて。おそらく、君は何も悪くないんだろう? ひとまず、君が知っていることを話してくれないかな。このままレナータの噂を放っておくのはまずいからね」
そう言って優しく笑いかけてくる兄様。その笑顔に、レナータとのやりとりでこわばっていた心がほぐれるように感じた。どうやら私は、自覚している以上に彼女に傷つけられていたらしい。
告げ口をするようで気が引けたけれど、結局私は兄様に全てを話すことにした。状況は悪くなるばかりだし、私にはどうしようもない。兄様なら、何かいい解決法を見つけてくれるかもしれない。
一通り聞き終わった兄様は、さらに難しい顔をして頭を抱えた。
「家にいた頃のレナータはとても引っ込み思案な子だったのに……まさか、そんなとんでもない思いを抱え込んでいたなんて。どうしてそんなことになったのか……」
「兄様も、あの子があんな考えを持つようになった理由は分かりませんか?」
「ああ、分からない。父様も母様も、そして僕たちも、レナータが側室の子だからといって邪険にするようなことはなかった。本人はそう思っていないようだけどね」
兄様はどこか寂しそうな顔をしつつも、力強く断言した。私もそんな兄様にうなずきかける。
「私もそう思います。レナータを軽んじたり、差別した覚えはありません」
「僕もだよ。僕たちの思いは、あの子に届いてはいなかったみたいだけどね」
はあ、と小さくため息をつくと、兄様は私の方に向き直り優しく笑った。私を力づけるような、そんな笑顔だった。
「……それよりも、まずは急いでこの状況を何とかしないといけないな。たぶん、一度君をレナータから引き離した方がいいだろうね。ねえ、フローリア。この件は僕に任せてくれるかな。悪いようにはしないから」
「はい、お任せします。あの子は、私が近くにいると余計にむきになってしまうようですから」
「そうみたいだね。こんなことになるのなら、君の王宮行きを反対しておけばよかった」
肩をすくめてため息をつく兄様を元気づけたくて、私は明るく答えた。
「兄様、あの時はこんなことになるなんて誰も予測できなかったんですから」
「それはどうかな? レナータが前からそんなことを考えていたのなら、きっとあの子は最初からこうするつもりで君をここに呼んだのだと思うよ」
「私がどうしたって言うのよ、ローレンス兄様」
困った顔を付き合わせてため息をつく私たちに、いきなり冷たい声が投げかけられた。
私と兄様が揃って振り向くと、いつの間に戻っていたのかレナータが部屋の入口に立っていた。もう私は見慣れてしまった、冷ややかでいらだった目がこちらをにらみつけている。
兄様があっけにとられたように目を見開いている。私から話を聞いていたとはいえ、彼女のあまりの変わりっぷりが信じられないのだろう。
「私をのけ者にしてフローリア姉様と内緒話? 私の悪い噂について、さぞかし話が盛り上がったんでしょうね。……覚えてなさい、いつか私はもっとずっと上の家に嫁いで、そしてアンシア家なんて潰してやるんだから」
「……レナータ、どうして君はそこまで僕たちに敵意を抱いてしまったのかな」
「どうしてって、小さい時からずっと、私だけのけものにされていたんだもの。私は側室の子だから、正妻の子であるあなたたちより後ろにいて、控えめにしていなければならなかった。あの家で、私一人がずっと仲間外れ」
「それは君の思い違いじゃないかな? 父様も母様も、みんな君のことを僕たちと同じように扱ってくれていたよ」
「いいえ、違うわ。兄様は可愛がられていた側の人間だからそう言えるのよ」
「……どこまで行っても平行線、か」
兄様の言葉を聞き入れる気のないレナータの態度に、兄様がぽつりとつぶやいた。今までの優しくなだめるような声とは違う、ひどく冷たい声のように聞こえた。
「……レナータ、僕はそろそろ仕事に戻らなくてはいけない。……ただ、君はもう少し行いをつつしんだほうがいい。君自身のために、ね」
「お説教なんていらないわよ。さっさと出ていって。そしてもうここに近づかないで」
静かな声で話しかける兄様と、いらいらした様子で胸を張り、足を踏み鳴らすレナータ。兄様は部屋を出る時、一瞬だけ私の方に目線を寄越した。その目は、心配しないで、と言っているように見えた。
それからしばらく経ったある日、そろそろ真夜中になろうかという頃のことだった。私が暮らしている部屋の中に、扉が静かに叩かれる音が控えめに響いた。もう眠りについていた私はその音で目を覚まし、慎重に扉を薄く開ける。王宮に不審者などいない筈だが、こんな時間に訪問してくるなんて、よほどの事情があるに違いない。
隙間から外をうかがうと、そこには必死な様子の兄様が立っていた。一本だけ立てた指を唇に添えている。静かに、ということなのだろう。
「……兄様、こんな時間にどうしたんですか」
隣の部屋で寝ているレナータに気づかれないように声を潜めると、兄様もかすかな声で返事をした。
「フローリア、君をここから逃がす算段が付いたよ。必要最小限のものだけを持って、すぐに来てくれるかな。レナータに見つかる前に、早く」
そうやって急かされるまま私は兄様と王宮を出て、そこで待っている馬車に一人で乗り込んだ。異様に豪華なその馬車には見たことのない紋が飾られていた。どこの馬車なのかは分からなかったが、間違いなく上位の貴族のもののように見えた。
「君はこれから王都を離れ、ドゥーガル公爵の屋敷で召使として働くことになった。……できるね?」
真剣な顔で問いかけてくる兄様に、私も真顔でうなずいた。私のような弱小貴族の娘が上位の貴族のもとで召使として働くということは、そう珍しいことでもない。それに、その公爵がどんな人かは知らないが、少なくともレナータの相手をしているよりはましだろう。
私が同意したのを見た兄様は、ほっとした顔になると私をしっかりと抱きしめた。子供の頃から、よくそうしていたように。
「……しばらく会えなくなりそうだけど、体には気をつけてね、愛しいフローリア」
「はい。兄様こそ、どうかお気をつけて。私がいなくなったら、あの子の憎しみが兄様に向くかもしれませんから」
「心配してくれてありがとう。うん、気をつけるよ」
そうやって手短に別れの挨拶を済ませた私は、兄様に見送られて豪華な馬車に乗り込んだ。
レナータが聖女になったことで変わってしまった生活は、さらにまた大きく変わっていくようだった。