19.危機を越えて
目が覚めた時、真っ先に感じたのはひんやりとした石の感触だった。まだぼやける目をまたたいて意識を集中する。
私がいたのはどこかの部屋のようだった。床も壁もしっかりとした石造りで、高いところに細い切れ込みのような小さな窓がいくつか開けられている。そこの床に、私は一人で倒れていたのだった。
その窓から差し込むわずかな日の光だけが、部屋の中を頼りなく照らしている。私がほんの少し身じろぎすると、山のように積もった埃が舞い上がりきらめいた。
ぼんやりとした頭を叱咤しながら、私はこれまでのことを必死に思い出していた。確か、私は兵士たちと一緒に王宮に向かおうとしていたのだった。その途中で何者かに拘束され、意識を失っている間にここに連れ込まれたのだろう。
そう推測はついたものの、まだ分からないことだらけだった。私がさらわれている間、兵士たちはどうしていたのだろうか。そしてここはどこで、どうして私はこんな目にあったのだろうか。
まだ頭がふわふわとしている。おそらく眠り薬でもかがされたのだろう。けれどそれ以外に特に不調は感じなかったし、怪我をしているようにも思えなかった。それに、特になくなっているものもない。さすがに花束は落としてしまったようだったが。
どうやら本当に、私はたださらわれて押し込められただけのようだった。とにかく、今はここから出なくては。
ようやく目が慣れてきたので、そろそろと身を起こして辺りを見渡す。薄暗いこの部屋には粗末な木の扉が一つだけあったが、押しても引いてもびくともしなかった。
扉からは出られそうになかった。そして高いところにある窓は私が通り抜けられるほど大きくない。完全に閉じ込められてしまったことを今さらながらに理解して、背中を冷や汗が流れ落ちた。
そう言えば、先ほどの兵士たちは今どこにいるのだろうか。彼らの存在を再び思い出したその時、ある可能性に気づいてしまった。
あの兵士たちは、最初から私をさらうために動いていたのではないか。そう考えるとつじつまが合う。手練れであるはずの兵士たちがいたのに私がこうやってさらわれてしまっていること、あれから時間が経っている筈なのに彼らが私を探しに来ないこと。
きっとレナータの差し金だろう。もしかしたら、彼女の婚約者であるマルク様も一枚噛んでいるかもしれない。彼ははっきりと、私に悪意を向けてきていた。レナータには兵を動かせないが、マルク様であれば。
しかし今は誰が黒幕かということよりも、ここから出る方法を考えることの方が先だった。早く戻らないと、デジレが心配する。
けれど扉はどうやっても開かない。体当たりをしても、全体重をかけて引いても駄目だった。
「誰か、誰かいませんか!」
助けを求めて叫ぶ。間隔を空けて何度も叫んだけれど、外は絶望的に静まりかえったままだった。
外に出ようとあがいている内にどんどん時間は過ぎていき、もう外は真っ暗になっていた。今日は月が出ている筈なのに、窓が小さすぎて月明りはかけらほども差し込んでこない。
真っ暗で埃臭い部屋の中、私は壁に背をつけて膝を抱え、小さくうずくまっていた。一人きりで冷たい部屋にいると、心まで冷たくなって泣きたくなってくる。
私はいつまでここに閉じ込められるのだろう。助けは来るのだろうか。それとも誰にも見つかることなく、このまま終わってしまうのだろうか。もう二度と、デジレに会うことはできないのだろうか。
どんどん暗くなる考えに、じわりと涙がにじむ。唇を噛んでそれをこらえ続けた。
どれだけの間そうしていたのか感覚が麻痺してきた頃、遠くから足音のようなものが聞こえてきた。誰かが一人で、こちらに向かって駆けてくる。
「フローリア、そこにいるのか!?」
そうして聞こえてきたのは、こんなところにいる筈のない、そして今一番会いたかった人の声だった。
急に力が湧いてくるのを感じながら、私は全力で叫び返した。
「デジレ様、私はここにいます!」
足音はどんどん近づき、扉の外で止まる。すぐにがたがたという音がして、重い扉がゆっくりと開かれた。
そしてそこに立っていたのは、ずっと走っていたのか息を弾ませたデジレだった。彼は今にも泣きだしそうな、そんな顔をしていた。
「ああ、やっと見つけた……無事か、フローリア」
彼はよろよろと私のところに歩み寄ると膝をつき、床にへたり込んだままの私を力いっぱい抱きしめてきた。その体は震えているし、扉を開ける時にこすれたのか陶器のようなしなやかな手には擦り傷ができている。けれど彼はそんなことは気にもしていないようで、私をさらに強く抱きしめ続けていた。
「はい。見つけてくださって、ありがとうございます」
叫びすぎてかすれてしまった声で、どうにかそれだけを答える。デジレがはっとしたのが体越しに伝わってきた。
「声がかすれるほど、ずっと叫んでいたのか。体もすっかり冷えてしまっている……見つけるのが遅くなって、済まなかった」
「いえ、見つけてもらえただけで十分です」
そう言葉を返しながらも、私はあふれる涙をこらえることができなかった。ずっと押し殺してきた不安と恐怖、そしてデジレにまた会えたという安堵の思い、それらが一度に押し寄せてきたのだ。
子供のように泣きじゃくる私を、デジレはずっと抱きしめていた。まるで、手を離したら私がまたどこかに行ってしまうのではないかと思っているようだった。
ようやく私が泣き止んだ後も、デジレは私を放そうとしなかった。私をすっぽりとくるむようにして胸に抱え込んだまま、彼はぽつりぽつりと話し始めた。
「君がいなくなったと気づいた時、私は目の前が暗くなるのを感じた。君は私にとって、とても大きな存在になっていたのだ。そのことに、やっと気がついた」
私は彼の胸に甘えるように寄りかかり、体全体で彼の言葉を聞いていた。
「君を失いたくなかった。君を失うことだけは、どうしても耐えられそうになかった。……君に『恋に落ちるな』などと言っておきながら、恋に落ちていたのは私の方だった」
背筋をぞくぞくさせるほど甘い声が、優しく愛の言葉を紡いでいく。それが自分に向けられていることが嬉しくて、私は彼の腕にそっと片手をかけた。
「フローリア、前の命令は撤回する。そして改めて、君に願いがある。どうか、私に恋をしてくれないだろうか。私の思いに、応えてはくれないだろうか。今すぐでなくてもいい。ただ、私は……もう君を手放したくない」
必死で懇願するデジレの声に熱がこもっていく。私は胸がじわりと温かくなるのを感じながら、彼の鼓動に耳を澄ませた。驚くほど大きく速いその音に促されるように、そろそろと言葉を紡ぐ。
「デジレ様、私は……一生ずっとあなたの傍にいたいと、そう思っています。あなたと共に過ごし、あなたと共に笑いあっていたいのです。この気持ちは、きっと恋と呼ぶのが正しいのでしょう」
その返事を聞いたデジレは腕の力をゆるめ、私の顔を真正面からのぞきこんだ。その赤い目は、今までで一番あでやかに輝きながらも、どこか不安そうに揺れていた。
そして彼の顔がゆっくりと近づいてくる。私が思わず目を閉じると、彼の滑らかな手が頬にかかる感触があった。そして甘い吐息が顔にかかる。
「愛している、フローリア」
軽く甘い感触が唇をかすめた後も、デジレはまた私をしっかりと抱きしめていた。




