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16.もう一つの悪意

 それから私たちは離宮で過ごしていた。時折兄様やミハイル様が訪ねてくること以外は、屋敷での暮らしとそう大きく変わりはしなかった。


 ただ一つ、レナータを除いて。


 舞踏会の夜にすっかりデジレに魅了されてしまった彼女は、どうにかして彼に近づけないかと足しげく離宮に突撃してくるようになってしまったのだ。


 彼女は少なくとも一日二回はやってきて、そのたびに門を守る衛兵と押し問答を繰り広げている。そのあまりの執念に私はぞっとしていたが、デジレは相変わらず平然としていた。


「私にのぼせ上った女性は、だいたいああなるからな。あれはまだおとなしい方だ」


 レナータはことあるごとに「私は聖女よ、私の命令が聞けないというの!」と声を張り上げていたが、デジレはあらかじめ陛下に話を通していて、「何があっても聖女を離宮に入れるな」という命令をもらっていたのだった。


 いくら聖女が強い権力を持っているといっても、陛下のそれにはかなわない。おかげで、衛兵たちも心置きなく全力で彼女を追い返せているようだった。もっとも、彼らの心労はかなりのものらしく、皆夕方には疲れ切った顔をしていた。彼らの苦労は私の妹のせいなのだし、少々申し訳ない。


「ここは塀と衛兵に守られているから、安心して過ごせる。王宮の客間など、恐ろしくて使えたものではないからな」


 そう言ってゆったりと笑うデジレ。その言葉につられるようにして、私は遠くに見える塀を窓越しに見た。頑張れば乗り越えられないこともない高さの、装飾のなされた美しい塀。その時、ある考えが頭をよぎった。彼の屋敷を取り囲む、どことなく場違いに思える高く頑丈な塀、あれはもしかして。


「……もしかして、屋敷が高い塀に囲まれていたのは」


「女性除けだ」


 私がみなまで言うのを待たずに、デジレがうんざりした顔で口を挟んだ。となると、あの塀は後から作られたものなのだろう。あの塀だけが屋敷になじんでいないように見えたのは、そのせいだったのか。


 屋敷に帰ったら、一度じっくりあの塀を見てみよう。そう考えながら、私は笑いがこみあげてくるのを感じていた。屋敷に帰る。私の家はここ王都にあるというのに、まるでデジレの屋敷こそが自分の帰る場所であるような、そんな言葉が浮かんでしまったのがおかしくてたまらなかったのだ。


 同時に、王都に戻ってきているというのに両親のもとに戻る気が起きないのが不思議だった。デジレに頼めば、半日くらいここを留守にすることもできるだろう。


 けれど私はそうしたいとは思わなかった。人間離れした美貌を誇りながら意外に寂しがり屋のこの主を置いて一人で出かけようとは、到底思えなかったのだ。


 そうしてどうにか穏やかに過ごしていると、思いもかけない訪問者がやってきた。






 舞踏会の日に見た不機嫌な少年。ミハイル様とよく似ていながら全く違う表情を浮かべたマルク様が、大勢の供を引き連れて離宮に姿を現したのだ。


「……俺はこんなところには来たくなかった。だが、婚約者の頼みとあれば仕方あるまい」


 まだ声変わりが済んでいないかすれた声で、マルク様がそう吐き捨てる。それと同時に、私とデジレにそれぞれ封筒のようなものを投げつけてきた。


 すぐに進み出て二通の封筒を拾い上げる。懐かしささえ感じる乱れきった文字は、間違いなくレナータの手によるものだった。一通には「デジレ様へ」、もう一通には「フローリア」と書かれている。


 私が苦笑をこらえながら片方をデジレに渡している間に、マルク様は窓の外を見つめながら独り言のようにつぶやいていた。それも、ひどく憎々しげな声音で。


「大体お前は、昔から女性を惑わしすぎるのだ。お前は一生あの屋敷で隠居しているのがお似合いだ」


「そうだな、私としてもこんなところまで出てきたくはなかったのだがな。お前の婚約者が私の側仕えをいたぶろうとしていたようだったから、仕方なく私が助力することにしたのだ。仕方なく、な」


 しかしマルク様の言葉はデジレには全くこたえていなかったようで、デジレは涼しい顔で言葉を返している。マルク様の眉間のしわが、さらに深くなった。


「それと、お前の婚約者にはこちらも迷惑している。責任もってちゃんと見張っておくのだな」


 さらにデジレが軽い口調でそう畳みかけると、マルク様が突然怒鳴り返してきた。


「言われずとも分かっている! お前などに聖女を渡してなるものか!」


 マルク様が精一杯威厳を見せようとしているのは分かるのだが、申し訳ないことに悠然とたたずむデジレと並ぶと、格の違いというものをひしひしと感じてしまう。


 そんな不敬な考えを見抜いたらしく、デジレがこっそりと私に流し目を寄越す。その目は明らかに笑っていた。私もマルク様に気づかれないよう注意しながら目配せする。


 私たちがこっそりとそんなことをしていることには気づかなかったらしく、マルク様は肩を怒らせたまま帰っていった。


「……やっと、静かになったな」


「そうですね」


 ため息をつきながら目線を落とすと、手にしたままのレナータからの手紙が目に入ってしまった。大変気乗りがしないが、読まない訳にはいかないだろう。


 もう一つため息をつきながら、思い切って封を切る。


『あなたがデジレ様の隣に並ぶなんて、許せない。絶対に引き離してみせるんだから』


「……相変わらずなのね……なんでそこまで、私を憎むのかしら」


 予想通りの手紙の内容に、思わずそんな独り言が漏れる。それを聞いたデジレが近づいてきて、手紙を気にかけるようなそぶりをした。疲労感を覚えながら彼に手紙を差し出すと、彼はそれを読み……鼻で笑った。


「私の感想としては……やれるものならやってみろ、といったところだな」


「デジレ様、あなたの分の手紙は読まれないのでしょうか」


 堂々としていた彼はその一言に顔をしかめ、自分宛ての手紙をこちらに差し出してきた。


「大体想像がつく。君が読んでくれ」


 まるで汚物でも扱うようなその手つきに苦笑しながら、私はもう一通の手紙に目を通した。


「……これ、マルク様に知られたら大変なことになりますね……」


「読み上げてみてくれないか」


 この内容を読み上げるのはかなりためらわれる。しかし何故か期待に満ちた目をしているデジレをがっかりさせたくもない。私は覚悟を決め、手紙を朗読した。


「デジレ様、私は一目あなたを見た時から恋に落ちてしまいました。私はマルク様の婚約者ですが、それでもあなたの近くにいたいと、そう思っています。どうか、私をお傍に置いてください」


 あまりに率直な内容に読み上げながら顔が赤くなるのを感じたが、デジレはそんな私に愉快そうに笑いかけていた。


「君の妹を悪く言いたくはないが、中々の節操なしだな。……しかし、君の口から『恋に落ちた』と聞くのも悪くはなかった」


「……それで、私に手紙を読ませたんですね」


「ああ。どうせそういった類のことが書かれているだろうと踏んだのでな」


「デジレ様は、本当に私をからかうのがお好きですね」


「何だ、ばれていたのか」


 さっきまで不穏な空気が流れていたこの部屋には、そうやって笑いあう私たちの声だけが響いていた。

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