1.迷惑な神託
「次の聖女は、アンシアの末娘である」
私たちの平凡な暮らしをひっくり返してしまったのは、こんな神託の一言だった。
それはある朝のことだった、豪華な馬車が我が家の前に止まり、中から正装に身を包んだ神官たちが現れたのは。彼らは戸惑っている私たち家族全員を呼び集めると、その前で朗々と神託を読み上げたのだ。
一瞬の沈黙が流れた後、父様が困惑しながら私たち兄妹を見た。正確には、一番後ろに引っ込んでいるレナータを。
「うちの末娘と言えば、今年十四になるレナータになりますが……」
その言葉に導かれるように、その場の全員がレナータを見る。彼女は暗い紫色の瞳を大きく見張ると、うつむきながらもじもじと後ずさりした。淡い亜麻色の髪が頼りなさげにふわふわと揺れている。
「えっ……私が聖女なの? そんな、どうしよう。聖女って、王宮で暮らすのよね? 私、王宮のことなんて何も分からないのに」
彼女は眉間にしわを寄せて困った顔をしながら、両手を強く組み合わせている。私たち兄妹の中でも一番引っ込み思案で気が弱い彼女には、降って湧いたこの話は衝撃的だったのだろう。
そんな彼女に、ローレンス兄様がそっと声をかけた。私と同じ緑がかった青い瞳を優しく微笑ませながら、兄様は落ち着いた口調でレナータをなだめている。
「大丈夫だよ、レナータ。聖女にはちゃんと侍女がつけられることになっているから。それに父様や僕は仕事で毎日王宮に出仕しているんだし、困った時はいつでも力になるよ」
「そうよ。あなたは一人ではないのだから、安心していってらっしゃい」
兄様に続き、母様も彼女を励まそうと口を開いた。その言葉を受けて、レナータもようやく少し落ち着きを取り戻したようだった。その表情が、戸惑いから喜びにゆっくりと変わっていく。そしてその目には、今まで見たこともない輝きが宿り始めていた。
私たちはアンシア男爵家の一族だ。と言っても、代々王宮で文官として働いていることだけが取り柄の、領地すらない木っ端貴族でしかない。父様と兄様が王宮で働いて得られる俸給だけが、うちの唯一の収入だ。
その癖うちはやたらと子沢山で、私たちは既によそに嫁いだ二人の姉様、ローレンス兄様、私、レナータの五人兄弟なのだ。十八の私ともうすぐ十四になるレナータ以外の三人はもう成人している。
つつましく暮らしていくには問題ないけれど、ぜいたくをするなんてとても無理だ。ほかの貴族のような優雅な暮らしなど、夢のまた夢でしかない。もっとも、私は今の暮らしに満足しているし、そんな夢を見たことはない。
「……ねえ、フローリア姉様、ちゃんと聞いてる?」
「ああ、ごめんなさい、少しぼうっとしていたわ。どうしたの、レナータ?」
どうやら、考え事をしている間にレナータが私に話しかけていたらしい。彼女は顎を引いて上目遣いになりながら、可愛らしく話し始めた。口元には大きな笑みが浮かんでいる。
「もう、ちゃんと聞いててよ。私一人で王宮に行くのは怖いから、姉様にもついてきて欲しいの。ね、いいでしょう?」
気のせいか、彼女は先ほどまでよりも随分と積極的になっているように思えた。聖女に選ばれたという事実が、彼女の心持ちを変えたのだろうか。それにしても、ずいぶんな変わりようだ。
「聖女に選ばれたのはあなただし、無関係の私まで王宮に上がる訳にはいかないでしょう」
「私のお付きってことにしてしまえばいいじゃない。とにかく、一人は嫌なの」
レナータはいつになく熱心に食い下がってくる。普段は強く自己主張することのない彼女にしては珍しい振る舞いだった。私は彼女のその態度にさらに戸惑いながら、考えを巡らせる。
聖女、それは五十年に一度神託により選ばれる特別な存在だ。詳しいことは知らないが、この国を守るために必要な、とある儀式を行える唯一の存在だと聞いたことがある。
そして聖女は生涯の生活を保障されるし、周囲からも崇められる。聖女が未婚の女性であった場合などは、王族や上位の貴族に嫁ぐことも珍しくはない。レナータが舞い上がってしまうのも無理はないだろう。
しかし彼女は礼儀作法の類はからきしだし、そもそも勉強が大嫌いだ。聖女として王宮に上がってちゃんとやっていけるのか、かなり不安が残る。
過去には庶民の娘が聖女になった例もあるというし、必ずしも聖女がしかるべき礼儀作法を身に付けていなければならないというものでもない。しかし我がアンシア家は最下層とはいえ一応貴族なのだ。庶民と同じくくりにはできない。
そしてレナータは、貴族としての最低限の礼儀作法すら身に付けていなかった。本人にやる気がない訳ではなかったのだが、どうにも素質がないようだったし、それ以上に彼女にはこらえ性がなかった。
それにそもそも日々の生活に追われている暮らしということもあって、私たちは礼儀作法の勉強にあまり長く時間を割くことができなかったのだ。私や姉様たちはそれでも一通りの礼儀を身に付けることができたが、レナータはそうもいかなかったのだ。
「……フローリア、レナータに付いてやってくれるか? お前がいてくれた方が、私としても安心だ」
私たちの会話を黙って聞いていた父様が、まだ困惑したままの顔で口を開く。どうやら父様も、私と同じようなことを考えているらしい。
けれど、そう言われてもすぐにうなずけるものでもない。私は今の質素で穏やかな暮らしが気に入っているのだ。聖女のお付きとして王宮に上がるなんて、考えただけでも恐ろしい。
返事に困った私が言葉を濁していると、見かねたらしい兄様が割って入った。
「僕からも頼むよ、フローリア。君が気乗りがしないのも分かるけど、レナータを一人にするのも心配だからね。大丈夫、僕も父様もいるし、気楽に王宮見学をするくらいの気持ちで来ればいいから」
「ほら、姉様! 父様も兄様もこう言ってるんだし、ねっ?」
「……分かりました。私も、レナータについていきます」
ぱっと顔を輝かせてはしゃぎまわるレナータ。その今まで見たことのないような喜びようとは対照的に、私の心はなぜか晴れなかった。何故なのかは分からなかったが、とても嫌な予感がしていたのだ。
けれどそんな気持ちを誰かに打ち明ける訳にはいかなかった。きっと、聖女に選ばれた妹への嫉妬だと思われてしまうから。
しかし私の嫌な予感は、とんでもない形で的中してしまっていた。
聖女として王宮に上がったレナータは、王宮の一室を与えられそこで生活することになった。例の儀式を行うまで、聖女はずっと王宮で暮らすのがこの国のしきたりだ。そしてそのお付きとなった私も、彼女の続きの部屋を与えられることになった。
私たちに与えられた部屋は、今まで暮らしていたアンシア家の屋敷とは比べ物にならないほど豪華で上品だった。思わず座ることをためらわれるような上等な布が椅子には張られているし、じゅうたんも毛足が長くつややかだ。これは本当に、靴のまま踏んでもいいのだろうか。
私がそんなことを考えている間にも、レナータは目を輝かせながら部屋中をうろうろと歩き回っていた。やがてくるりと身をひるがえし、入口で立ちすくんでいる私のところに戻ってくる。
彼女はそのまま身をかがめると妙にゆがんだ笑みを顔いっぱいに張りつけ、私の顔をのぞきこんだ。
「フローリア姉様、私はこれからずっと、こんな風に贅沢に生きていけるの。どう、うらやましい?」
「え?」
彼女の突然の変化についていけずに私がぽかんとしていると、レナータは不満そうに口をとがらせてさらに言いたてた。
「なによ、その気の抜けた返事は。私は聖女なの。姉様が一生手に入れられないような素晴らしい人生が保証されてるの。うらやましくないの?」
「レナータ、どうしてそんなことを言うの。聖女に選ばれてから、あなたはどこか変よ」
重ねて尋ねてくるレナータに、しどろもどろになりながら言葉を返す。彼女は鼻で笑うと、見下すような目でこちらを見ながら一気にまくしたてた。
「変もなにも、これが本当の私よ。貧乏で薄汚れたアンシアの家で、ずっと肩身を狭くしながらちぢこまっていた今までの私の方が間違いだったのよ」
あまりに予想外の言葉に、私はただ呆然と立ち尽くすしかできなかった。