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ある事務所の記録

オカダの記録

作者: りんごまん


オカダは朝六時に起床する。スマートフォンのアラームはかけているが、アラームが鳴る三十秒前に目を覚ますので、アラームの音を聞くことは滅多にない。

身嗜みを整えて、ダイニングに降り、家人の朝食を用意する。自身の朝食は、キッチンに立ったまま、カフェオレを一杯飲んで済ませる。

新聞をポストから取り出し、ダイニングテーブルに置いておく。

八時ごろに、どやどやと家人がダイニングに集い始めるので、朝食を食べさせる。


朝食後、食器を食洗機に入れ、ダイニングに掃除機をかける。

そのまま昼食の用意をする。12時30分になると再び、家人がどやどやとダイニングに集まってくる。


午後は、食材や日用品の買い出しに出かける。

食材とドリンク類、嵩張る日用品は基本的にインターネットで注文し、住処に届けてもらうが、散歩も兼ねて商店街を歩くようにしている。


以前仕事の依頼をくれた、専門商社の女社長が、ワインや珍しいチーズやベーコンなど加工食品を送ってくれることもある。

最近も、老舗洋菓子店とコラボしたというパンケーキの粉を送ってくれ、ライには大変好評だった。最近は、CSR活動の一環もかね、医療施設の食の充実にも取り組んでいるらしい。アイデア豊富な経営者で尊敬に値する女性だ。


今日は花屋で、スイートピーを購入した。花屋の奥さんはいつもおまけをしてくれるのでありがたい。今日はかすみ草をつけてくれた。

時々、商店街の喫茶店でコーヒーを飲むこともある。この喫茶店の奥さんも、おまけだと言って、いつも一口サイズのお菓子をつけてくれる。

鯛焼き屋の店主も必ず一つ余分に、鯛焼きをおまけにつけてくれる。もはやおまけとは言えないのではないか。

いずれにせよ、おまけという言葉は無条件に人を幸せにする魔力があるとオカダは信じている。


そして、夕飯の支度だ。

18時のディナーの後は、20時ごろには各々部屋に戻っていく。時々、管理人室で皆で映画を見ることもある。シャワーを浴びて、雑務をこなし、ベッドに入る。

洗濯は、オカダを除く四人でのローテーションになっている。洗濯機のスイッチを入れ、乾燥機に入れ、乾いた衣服を五つのカゴにより分ける。カゴは各々で回収するのがルールだ。

まぁ、靴下に関してはもはや、どれが誰の物かよくわからないが。


これがオカダのルーチーンである。だが、家人の仕事の都合でルーチーンが崩れる事は往々にしてあるし、タスクがどっと増えることもある。

何があってもいいように、冷凍庫にはジップロックに下処理した食材が入っているし、アイスクリームも欠かさない。冷蔵庫にはタッパーに作り置きを常に用意している。


最近の悩みは、戦闘担当のレンだ。

「レンさん‥‥また服がダメになりましたね」

レンは素手で戦うことが好きだ。あるいは、バールやバットなどの道具を使うこともある。要はそこらへんに転がっているものだ。

そうすると必然的に、多量の返り血を浴びてしまう。血液は衛生的とはいえないし、シミが落ちない。

なのにレンはいつも、泥だらけになりましたと尻尾をふるサモエド犬のようになって帰ってくる。

また衣服を調達せねばならない。


トモヤは家事をよく手伝ってくれる。手際もよく、食器の後片付けや掃除洗濯では大いに戦力なのだが、こと料理は苦手のようだ。トモヤはサラダが好きなのだが、一度自分でグリーンサラダを作ろうとして、汚物のような料理が出来上がったので、料理は頼まないようにしている。トモヤは賢い人間だが、グリーンサラダの定義は理解できないらしい。


ライは童顔で、いつも甘いものを食べている。

本人曰く、脳みそを常にフル回転しているから、らしいが、寿命が心配である。砂糖を控えめにして、素材本来の甘みを活かすようにすることが、オカダのできる精一杯だ。ライは自分より背が低いのでいつも自分を上目遣いで見てくるのだが、小動物のようでヨシヨシとしたくなる。ヨシヨシした暁にはコッパミジンにされると予想されるので、我慢している。


そして、オーナー代行のタシロだ。青白く目つきがいいとはいえない。偏食ではないが、主に米が好きなようだ。食事の仕方と礼儀は見ていて気持ちが良い。箸の持ち方もきれいだ。タシロの影響か、他の家人も近頃、いただきますとごちそうさまを言うようになった。これは彼の、オーナー代行としての最大の功績ではないかとオカダは思っている。


オカダにはもう一つルーチーンがあった。

夕飯の前に、マンション裏の小庭で、野良猫に餌をやる事である。

本来であれば、野良猫に餌をやる事は褒められた事ではない。代わりと言ってはなんだが、時々、新入りを去勢手術に連れていったり、古株をワクチン注射に連れていったりしている。

小庭へ行くには、一度雑居ビルを出て、マンションの横道を通り、マンションの裏に回る必要がある。


今日も餌皿を持って、小庭に出たところ、今日は猫と、少女がいた。

少女の餌は持っていないなとオカダは思った。

「猫、好き?」とオカダが声をかける。

少女はこくんと頷いた。小学校低学年くらいか。

「おじさんも好きだよ。お嬢さんのお名前を聞いてもいいですか?」

「ユリエ」

「ユリエさんですか。きれいな名前だ」

パッと見たところ、特段痩せているわけでも、身なりがボロいということもない。卵形の子ども携帯を首から下げている。

近所の小学生が、猫目当てに敷地に入ってきたのだろう。ここは、個人の敷地だとわかりづらいし、仕方ない。

猫を10分ほど眺めると、ユリエという少女は去っていった。


翌日もユリエは、同じ時間に雑居ビルへやってきた。

オカダが「どうぞ」と、餌の入った皿をユリエに渡してやる。

ユリエはおずおずと受け取り、地面に置いた。

三毛猫が、そろりとやってきて、餌を食べだした。

また、猫を10分ほど眺めると、ユリエという少女は去っていった。


さらにその翌日も、ユリエはやってきた。

どこかで注意せねばならないかな、とオカダは考えていたが、餌を食べる猫を二人で眺めていると、ユリエの方から話しかけてきた。

「‥‥あのね、ここに来ると、お願いを聞いてもらえるって聞いたの」とユリエが小さい声で言った。

依頼のことだろうか?まぁ、表向きは探偵事務所とか、何でも屋とか言っているから、間違いではないのかとオカダは思った。

「何か、お願いがありますか?」とオカダは聞いた。

「ユリエね、ママに会いたいなぁって思うの」ユリエが答える。

「パパではだめですか?」とオカダが尋ねる。

そのまま、ユリエは黙ってしまった。どうやら、この質問は間違っていたらしい。恋愛シミュレーションゲームであれば、キャラクターの女の子はへそを曲げて怒ったであろう。女心も子供心も、自分には難しいなと、思った。

そして、猫を10分ほど眺めると、ユリエという少女は去っていった。

まるで、少女が猫のようだと思った。


数日後、オカダは、ユリエと父親らしき人物が商店街を歩いているのを見かけた。福引券が十枚たまったので、ガラガラを回す列に並んでいる時だった。

目当ては一等の旅行券ではなく、二等のティッシュ一年分だった。

父親らしき人物は、ネイビーのニットにベージュのチノパンを履いていた。

40歳前後だろう。眼鏡をかけている。どこにでもいるサラリーマンのように見えた。オカダはどこかで見かけた気もするが、と思ったが思い出せなかった。福引では、二等は当たらず、四等のウサギのぬいぐるみが当たった。鮮やかなショッキングピンクのウサギだった。

ウサギを抱えて帰宅したオカダを見て、家人は大爆笑していた。


オカダが、いつも通り、夕方に餌皿を持って、雑居ビルの外に出ると、ユリエと父親が立っていた。

オカダは驚いたが、軽く会釈をする。クレームだろうか?

「こんにちは、突然すみません。ユリエがこちらに忍び込んでいたみたいで。辞めさせますので。本当にすみませんでした。ほら、ユリエも」と父親がユリエの背中を軽く押す。ユリエは、ごめんなさいと呟いた。

オカダは気にする必要はないと伝えた。

ユリエは、父親に手を引かれて帰って行ったが、何度も振り返ってオカダの顔を見つめた。

その目が、なんとなくオカダの心に引っかかった。

そうだ、出会った頃の、レンもライもトモヤもあんな目をしていた気がする。絶望して、諦めるも諦めきれなくて、目の奥では助けを求めているような目だ。

ユリエを帰してよかったのだろうかと、オカダは少し後悔した。


一週間後の昼間、オカダは雑居ビルの入り口前をほうきで掃除をしていた。近所の方に挨拶を返す。

「こんにちは」と、オカダが会釈をすると、「こんにちは」と、女性は挨拶を返した。オカダは女性に年齢を聞くことはしないため、正確な年齢は不明だが、60歳前後だろう。夫婦で小さな内科クリニックを経営しており、商店街では評判のクリニックだ。

「いいお天気ですね」とオカダが言う。

「そうですねぇ」と女性が返す。

「そういえば、クリニックの方は‥‥」と、オカダが言う。

「えぇ、甥っ子がそろそろこちらに引っ越してくるのよ。だからね、そろそろ私たちも引退ねぇ」

夫人とは、時々、商店街の喫茶店で会い、日常会話をする間柄だ。そろそろ経営は甥にまかせて、自分たち夫婦は隠居しようと考えているという話をオカダは聞いていた。軽井沢に別荘があるらしい。

「そうですか、軽井沢はいい所でしょうね。また改めてご挨拶させてください」とオカダは伝えた。

一礼をして、夫人は商店街の方へ歩いていった。夫人の手には仏花が下げられていた。


オカダが夫人の背中を見送っていると、ふと、学校帰りのユリエが前を通りかかった。赤いランドセルを背負っている。

「ユリエさん」オカダは思わず声をかけ、ユリエを引き留めた。少し、ここで待っててもらえますかというと、オカダは雑居ビルへ、ある物をとりに行った。


「ユリエさん、あの、このウサギのぬいぐるみ、もらってもらえませんか?商店街の福引でいただいたんですが、僕がぬいぐるみを持っているのは、少し怪しいでしょう。捨てるのも忍びないですし、もらってもらえると助かります」

オカダはぬいぐるみを手渡す。

ユリエはショッキングピンクのぬいぐるみを受けとると、ありがとうと呟いて、帰っていった。


その晩、四階ダイニングでのディナーを終え、オカダは片付けも終えた。家人はそれぞれ自室で思うように過ごしているようだ。

今日のディナーも賑やかだった。

タシロの席にオーナーが座っていた頃も賑やかであったが、タシロが座るようになってからはさらに賑やかになった気がする。


今日は、ラーメンの話題で盛り上がっていた。

「レンさん、中野にうまいラーメン屋があるんですって。テレビで見たんすよ。今度行きましょうよ」とタシロが言う。

「あぁ?でも、俺はファストフード命だからな。俺は一途なんだ。浮気はできねーな。それによ、並んで食っても、案外こんなもんかぁってなるのがオチだと思うぜぇ」とレン。

「わかるー。並んで気合い入れて食べるラーメンよりも、お腹すいたぁってなってふらっと食べる天一のコッテリの方が美味しいんだよねぇ」とトモヤ。

「えっ、お前、天一のコッテリ食うのかよ?」とレンが尋ねる。

「大学時代はねぇ。お金もないし、天一、日高屋、王将にはよく行ったよぉ」とトモヤ。

毎日、ラクダのように草を食べているトモヤの口からコッテリという単語が出てくるとは驚きだ。

「最近はさ、あごだしとか言って、細麺のスープが透き通った系のラーメンが流行ってるじゃない?やっぱりラーメンはコッテリ食べてなんぼだろうとは思うよぉ〜あの食べてる時の背徳感がたまらないんだよね〜」とトモヤがさらに続ける。

「レンさん、俺ラーメン食いたいっすよ〜背脂の浮いたスープをすすりてぇす。ラーメンだってファストフードみたいなもんじゃないすか。完全食にして、ファストフードっすよ〜」タシロがさらにレンにからむ。

「ライさんも一緒に来てくれるなら、回転寿司に行くでもいいっす。回転寿司屋のラーメンとスイーツも今はすげぇクオリティ高いんすから!あつあつの大学芋に、バニラアイスのったやつ、ライさんに食わせたいっすよ〜」とタシロが今度はライにからむ。ライが「バニラアイスと、大学芋‥‥」とつぶやく。


ああ、もう。明日は洋梨のタルトにするつもりだったのに。明日サツマイモを買いに行かなくてはならないだろう、とオカダは思った。まぁいい、どちらかというと大学芋の方が手間は少ない。トモヤには根菜のサラダにして、レンチンしたサツマイモを和えてやろう。

とにかく、この調子で、毎日それはそれは賑やかなディナーとなっている。


「さて、と」オカダはピカピカのシンクを見て満足した。

今日はこれで閉店ガラガラだと、一服用にアイスティーを持って自室に戻った。

オカダの部屋は、窓がなくレン、ライ、トモヤの部屋より少し広い。

部屋に入ると、簡素なパイプベッドとソファ、少し奥には大きなデスクがある。デスクの上には三枚のモニターと、デスクトップパソコンの本体が二台。ノートパソコンが一台。スマートフォンは五台ある。ケーブルの整理をこまめにするのだが、気づくとスパゲティになっている。

さらに奥には背丈ほどのサーバーラックが鎮座している。湿気が機器に影響を与えるといけないので、オカダは自室のシャワーは使わず、空き部屋である隣室のシャワーを使っている。


隣室でシャワーを浴び、自室でペットボトルの水を口にすると、モニターの電源を入れた。少しやらねばならない事がある。

しばらくオカダはモニターを眺めていたが、ブツリと、モニターの電源を切り、フーッと大きくため息をついた。疲労感が襲ってくる。先程までのタシロらのくだらない会話が吹き飛んでしまった。まったく、よい気分だったのに。


それから数日が過ぎ、オカダはレン、ライ、タシロ、トモヤにある提案をした。


◾︎◾︎◾︎

「本当にオカダさんは留守番でいいんですか」とタシロは聞いた。レン、ライ、トモヤ、タシロの四人は各々ボストンバッグやバックパックを持っている。レンは手ぶらだ。

「はい、どうぞ、皆さんで楽しんでください」

オーナーが所持している会員制ホテルがあるのだが、オーナーは長らく泊まることができていない。

せっかくだから、皆さんでどうぞと提案したのだ。

「僕、別に行きたくないけど」とライは小さくつぶやいた。オカダは、そんなライにウインクをする。

ライは口を尖らせて、目を逸らした。

「まぁ、たまにはオカダを休ましてやらねぇとな。男四人で箱根ってのもなんか変だけどな。まあ、オカダはゆっくりしろよな。なんかあったら電話しろよ!」とレンが言う。

「大きいお風呂楽しみぃ。お土産買ってくるねぇ」とトモヤ。

「噂でしか聞いたことのない、あの、超超超高級ホテルに泊まれるなんて。しかもスイートルームって!俺は感無量っす。ありがとうございます」とタシロ。

そうして家人たちは、出発の直前まで、ガヤガヤと賑やかにしながら、箱根に向かってバンを出発させた。

車の中でつまむように、フルーツを持たせた。


オカダはバンを見送り、くるりと振り返った。今日はいい天気になりそうだ。シーツを洗濯して、屋上に干そう。


オカダは、その晩、ポトフを作り、白ワインをグラス一杯飲んだ。ポトフは、煮込む前に野菜に焼き色をつけると、野菜の旨みと甘味がいっそう引き出されて美味しい。

さて、今晩は少し忙しいですね、とオカダは思った。


食事を終え、簡単に洗い物をすませたオカダはマンションの入り口に立って、空を見上げた。月も星も出ていない。風も強くない。

静かで暗い夜だと思った。オカダは、革手袋を手になじませると、闇に向かって静かに駆け出した。


今夜は忙しい。明日の晩も忙しくなりそうだ。

きっと、明日は来客が来るだろうから、おもてなしの用意が必要だとオカダは思った。


◾︎◾︎◾︎

二日目の夜は、予想通り来客があった。

その男は、気配を消して、雑居ビルの入り口の鍵をピッキングして、ビルに入ってきた。


「こんばんは」オカダは男に挨拶をした。

オカダが出迎えるのは予想外であったのだろう。階段前に立つオカダを見て、男は動揺していた。


「今日は来客がくる気がしていたんです。時々来客が、こうやっていらっしゃるんですよね。先週から、下見してらっしゃいましたよね。気にせず声をかけてくださればよかったのに。さあさあどうぞ。ダイニングは四階です。おもてなしの用意をしてあります。あぁ、物騒なものはしまってください。僕はただの雑用係ですから、始末してもあまりうまみはないですよ。それよりも、ほらいい匂いがしますよね。さぁ、あがってください。知りたいことはなんでも教えますから」

オカダは男を階段へ促す。


「エレベーターがないので、階段で申し訳ありません。運動不足だと息がきれますよね、やですねぇ。歳を取るのはせつないです。

昨日から家人が不在でしてね。少しは休めるかなと思ったんですが、やはり静かなのは寂しくて。来客があって嬉しいです」

オカダは息を乱すことなく、喋りながらトントンと階段をあがる。


「さぁどうぞ。普段、このダイニングは賑やかなんです。私の他に四人ほど座っていましてね。今日はみんな出払ってまして。このダイニング、夜は少し不気味ですよね。オーナーが四階はアンティーク家具でまとめたいっていったもので。その絨毯もオーナーが、買い付けた物なんですよ。特注サイズだそうです。

あ、みんなが出払っているのはご存知ですよね。昨日、家人が出発する所もご覧になってましたもんね。すみません、ご存知のことを何度も。昨日はいい天気でしたね。

家人はみんな食べるものが違うので、時々、いや、毎日なかなかに大変なんですが、彼らが美味しい美味しいって私の料理を食べてくれるのは、見ていてとても嬉しいです」

オカダは喋りながら、席にフルートグラスを置く。


「ささ、席に座ってください。美味しいハンバーグがあるんですよ。まぁ、ハンバーグを食べるには少し時間が遅いですが。自信作なので一口だけでも。残り物ですが、シャンパンもどうぞ。よく冷えていますよ」


冷蔵庫からシャンパンを取り出し、フルートグラスに注ぐ。宝石のような泡がグラスの中を真っ直ぐ泳ぐ。

そして、金縁に縁取られた丸皿に、ハンバーグを盛り付けて男の前にだした。人参のグラッセとクレソンが添えられている。

男は訝しがりながらも、一口目のハンバーグを口に運んだ。肉汁が口内に広がり、とろけた。肉の旨味が、舌の上に残っている。あっという間にとろけてなくなってしまったので、もう一口食べたい、と男はさらにナイフとフォークを動かした。


「あぁ、美味しいですか?よかったです。お代わりもありますから、遠慮なく。このお皿は特別な日用で、お客様にしかお出ししないんです。家人はガサツで乱暴なので、割れては大変ですから‥‥このお皿を使うのは半年に一度あるかないかなんですよ」タシロはニコリと笑った。

男は引き続きハンバーグを口に運ぶ。シャンパンも飲んだ。


「シャンパン美味しいでしょう。僕は良く冷えたシャンパンが好きです。貴方はいかがですか?そうですよね。まぁ、ぬるいシャンパンが好きな人はいないですよね。ハンバーグも美味しいですか。お気に召してよかったです。黒胡椒とコンソメが隠し味です。まぁでも、やっぱり素材そのもののクオリティも大切ですけどね」

オカダが、冷蔵庫のほうに体を向ける。


「実は昨日、新鮮なお肉が手に入りましてね。塊肉なので、数日分はありそうで、どう料理しようか悩ましいんですよ。YouTubeでお料理動画を何本かみちゃいました。あ、そうなんです。自分でミンチにしました。塊肉をミンチにするのは、機械を使うんですよ。随分前に買った機械だったので動くか心配でしたが、スイッチを入れたらどうにか動いてくれました。とはいえ、まぁ、なかなか骨の折れる作業ですね。ほら、見てください」


オカダが冷蔵庫の中を男に見せると、男は手を震わせ、フォークを落とした。カラーンという音がダイニングに響く。


「ほら、新鮮なピンク色で、立派なお肉でしょう。熟成肉っていうのも最近流行っていますけど、まだ僕は食べたことがないんですよ。もつ鍋というのも考えたんですが、にんにくは好みがわかれますからねぇ。あぁ、フォークお取り替えしますね」


オカダは冷蔵庫のドアを開けたまま、男に近づく。

「このお肉にはね、女の子の子どもがいたんですよ。ユリエという、可愛らしい名前のお嬢さんです。目が大きくてとても可愛いらしいんです。物静かで、利発な子だとすぐわかりました。ユリエさんにはお母さんがいません。いわゆる父子家庭というやつです」

オカダは落ちたフォークを取り上げ、シンクに置いた。新しいフォークを探す。


「私はユリエさんに、プレゼントを渡したんです。ウサギのぬいぐるみです。ショッキングピンクのウサギのぬいぐるみが、福引であたってしまいましてね。家人には笑われましたよ。失礼な話です。でね、ちょっとだけ仕掛けをして、ユリエさんにあげたんです。というのも、ユリエさんは、何か悩み事がある様子でしたから、悩みがあるなら助けてあげたいなと思ったんです。いや、助けたいは余計かな。なんか、嫌な予感がしたんですよね。第六感というんでしょうか。男の勘というんでしょうか」

さぁ、どうぞと、男の手にフォークを握らせる。


「それで、三日だけ、ユリエさんを監視しました。ウサギのぬいぐるみを通して。ぬいぐるみにカメラを仕込んで、ユリエさんに渡したんですよ。まぁ、犯罪ですよね。良くないことだとはわかっています。でも、ユリエさんが私に助けを求めている気がして、どうにかしてあげたいって思ったんです」

オカダは男の向かいの席に座った。

手には白ワインの入ったグラスを持っている。


「そうしたら、なんともおぞましい映像を見せられる結果になりましてね。最初にその映像を見たときはおぞましすぎて、さすがに食欲が失せました。夜もよく眠れませんでした。その日は賑やかで楽しいディナーだったんですが、会話の内容が吹き飛びましたよ。たわいもない会話ですが、それこそが幸せな会話ですよね。でも吹き飛びました。あぁ、何を見たのかって?」

オカダはワインを一口、口に含む。

「‥‥ユリエさんの父親がね、三日の間、毎晩ユリエさんの部屋に来て、ユリエさんの服を脱がすんですよ。その先は‥‥彼女のためにも伏せておきます。いや、彼女のためじゃないな。僕が口にするのが嫌なんです。

それで、父親が満足して部屋を出ていくまで、ユリエさんは、じっとこちらを見ているんです。つまりショッキングピンクのウサギのぬいぐるみを見ているんですよ。じぃっとね。辛くて何度も映像を停止しました。

ユリエさんの気持ちを考えると、胸がどうしようもなく痛みました。ユリエさんはまだ幼い。生きていくためには、父親を頼るしかない。なのに、その父親は、ある意味、暴力的に欲望をぶつけてくる。殴ったりはしていませんでしたけどね。それは不幸中の幸いだったかもしれませんが、アザの一つでもあれば、僕以外の人間も気づけたかもしれません。

あぁ、お伝えしていませんでしたね。ユリエさんは小学校二年生です。このビルから徒歩7分ほどの小学校に通ってましてね。小学校がありますよね、歩道橋の向こう」

男は首をぶんぶんと縦に振った。

オカダは手を組む。


「一度ユリエさんと父親が、僕を訪ねてきたんです。あれは、ユリエさんが余計なことを喋っていないか確認しにきたんでしょうね。でも、いきなりどうこうしようとは思わなかったんですよ。仮にもユリエさんの父親ですし。ただ、私にはもう一つ引っかかる事があったんですよ。父親の顔をどこかで見たことがあったなと思いましてね。ユリエさんの小学校の情報を辿って、苗字をまず調べました。そして、特殊な性癖を持っているでしょう。いくらか検索ワードを変えて試したら、案外あっさり見つかりました。昔の新聞記事です。猥褻罪で、前科があったんですよ。まぁ、前科のある人間なんてのも最近は珍しくありませんから。それだけで手にかけるというのもねぇ。でもそれだけじゃなかったんですよ。なんだと思います‥‥?おや、わからないですかぁ」

オカダは男の目を見ていた。男がハンバーグを食べる手は残念ながら止まってしまった。まあ、食事に相応しい話題ではないだろう。


「男の妻、つまりユリエさんの母は、二年前に何者かによって殺されているんです。一週間の捜索の後、雑木林の中で遺体が見つかったそうです。雨が数日降ったせいもあって、それはそれは腐敗が酷かったそうです。妻が殺されたと思われる日に、父親のアリバイはなく、第一容疑者としてあがっていたらしいんですが、残念ながら証拠不十分で無罪放免になったようです。結局犯人は今も捕まっていません。腹だたしいとしか言えないですよね。警察の方も無念でしょうね」


オカダはパンと手を叩いた。

「まぁ、そんなことがありましてね、色々考えてね、処分することにしました。昨晩、ユリエさんのお宅に少しお邪魔してね。こぎれいな一軒家でした。父親の部屋は一階、ユリエさんの部屋は二階です。まぁ、仕留めるのは簡単でしたが、スーツケースに収めるのが大変でしてね。情けないんですが、筋肉があまりないので、持ち上げるのに少し手間取りました。筋トレをサボったツケなんでしょうねぇ。忙しいを言い訳にしないで、また始めないといけませんね。昼間のうちに、近くの駐車場に車を留めておいてね、スーツケースをここまで運んだんですよ。あ、どうぞ遠慮なく召し上がって下さい。シャンパンのお代わりもどうぞ、と言ってもこの話題ではすすみませんね。申し訳ありません。不愉快な話を聞かせてしまって」

窓の外で、不気味な鳴き声が聞こえた。男は体をビクッと震わせる。

「ああ、あれは猫ですね。発情期なんでしょう。驚きましたか?不愉快なら黙らせましょうか?」とオカダは尋ねる。男は首を必死で横に振る。

オカダは男の背後に回り、男の肩に手を置いた。


「そうですか。不愉快ならいつでも仰ってください。そうだ、客人さん、もしお食事がお済みなら、地下に行ってみませんか?このビルは五階建てなんですが、実は地下があるんです。めったに行くことはないんですが、せっかくですし、地下一階に行ってみませんか?面白い物がたくさんありますよ。きっとお気に召すと思います。さぁさぁ遠慮なさらず」

オカダは男の手を引っ張ると、男は椅子を倒し、引きずられるようにして階段を降りていった。

そうして、オカダと客人の夜は、賑やかに更けていった。


翌朝早く、オカダはユリエの自宅を訪ねた。まだ空は薄い紫色だ。一昨日のうちに、二階のユリエの部屋の窓を開けておいたのだ。夜の睡眠時間が少ないせいか、眠いなとオカダは思った。

ユリエはパジャマ姿でまだ寝ていたが、そっと声をかけ、起こした。

「ユリエさん、突然ごめんね。良く聞いてね。おじさんには死んだ人を生き返らせる事はできないんだ。本当にごめんね。でね、おじさん考えたんだ。ユリエさんのために何ができるかなって。それでね、おじさんの知り合いで、娘さんを亡くしたご夫婦がいるんだ。ユリエさんさえよければ、そのご夫婦にユリエさんを紹介したいんだ。どうだろう?大きなお庭があるお家でね。きっとユリエさんを大事にしてくれると思う。お父さんとはサヨナラする事になるし、お母さんにも会えないけど‥‥でも、そのご夫婦はね、ユリエさんの好きなご飯はなんでも作ってあげたいって言ってたよ。猫もお家にいるって」

ユリエはオカダの話を最後まで黙って聞いていた。


少しの間の後、ユリエはこくんと頷いて、ランドセルとウサギのぬいぐるみを持ってきた。

そして、玄関のドアを開けると、迎えに来たハイヤーに乗って、朝靄の中を去っていった。空は先ほどより明るくなっていた。

オカダは朝ごはんにどうぞとツナサンドと紙パックのオレンジジュースをユリエにもたせた。気に入ってくれるといいが。


オカダは、住処に帰ると、ゴミ袋に燃えるゴミを詰めて、ビル前のゴミ収集場に置いた。

「ふわぁぁ」あくびが出てしまった。残りのツナサンドを食べたら、賑やかになる前にもう一眠りしよう。


その日の午後、二泊三日の箱根旅を終えて、タシロらは帰ってきた。

お土産の紙袋をたくさん下げている。

「オカダー!ほら、まんじゅうに、日本酒に、干物と蒲鉾!俺はジャンクフード一本だけどよ、お前は酒のアテにちょうどいいだろ?」とレンが言う。

「広いお風呂気持ちよかったよぉ。露天風呂もジャグジーもあったよ。サウナなんて久々に入ったよ」とトモヤ。

「オカダさん、もう、さいっっこうでした。竜宮城なんじゃねぇかって思いました。極楽ってのがあるとしたら、あんな感じなんすかね?とにかくもう、風呂から食事から最高でした!」とタシロ。

「デザート美味しかったよ。あと星が綺麗だった」とライ。


「おかえりなさい。ドリンクを用意していますよ」とオカダは笑顔で言った。

各々は、ドヤドヤとダイニングへ上がっていく。

トモヤが、炭酸水にレモンを入れようと、冷蔵庫を開ける。「あれ?オカダ、冷蔵庫の掃除した?なんか、スカッとしてる」とトモヤが尋ねた。

「はい、ちょうどいい機会だったので、色々とお片付けしました。レモンは野菜室の方ですよ」とオカダが答えた。

「オカダぁ、休めたかぁ?静かで寂しかっただろ?」とレンが尋ねた。

「そうですねぇ、なんだかんだで忙しくしてしまいました。ゴロゴロするチャンスだったのに、ついつい忙しくしてしまって。休むのもコツがいるんでしょうねぇ。静かで寂しかったのは間違いないですね」とオカダが答えた。

「あ、シャンパンの瓶が空いてるっすね。ワインもだ。なんだ、オカダさんてば、俺らがいない間にちゃっかり楽しんでるじゃないすか〜」と、タシロ。

「はい、ちゃっかり楽しんでしまいました」と、オカダは答えた。


ライはオカダの顔をじっと見ていた。 

「‥‥一階に爪が落ちてたけど」と、ライがオカダにだけ聞こえる声で呟いた。

「おっと、それは失礼しました。昨日、夜遅くに来客があったので、地下にご案内したのですよ。でも、行きたくないと仰られたので‥‥」とオカダが説明した。

「‥‥さいあくぅ」とライが口を尖らせた。

オカダは、ライの頭を撫で回したい衝動を、静かに沈めた。


「そうだ、シーツを洗ったんですよ。今日はピカピカのシーツで、寝れますよ」とオカダは声をかけた。

今夜のディナーもきっと賑やかだろう。

お風呂で誰が暴れたとか、食事はどうだったとか、部屋でこんな遊びをしたとか。

「さて、夕飯の支度しますか!」とオカダは服の袖をまくった。





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