4. 夏海の奔走
東田夏海は目が良い。単純に視力が良く
、人より遠くまで見えるというだけでなく、例えば後ろ姿や人混みにの中にいる知人を見つけることが得意だった。だから如何に周りと同じ野球のユニフォームを着ていようと、水中で似たような水着とゴーグルで泳いでいようと夏海はいつもすぐに見つけることが出来た。
それが唯一の特技だとさえ自分で思っていた。自分がいるべき応援席において最も必要な才能だとも、思っていた。
「ねえ、ナツってば」
不意に肩を叩かれた夏海は、両手に握っていた温いトランペットが指から滑りそうになっている事に気付いて、慌てて抱き直した。
「えぁっ、なっ、なに?」
「えぁって。ほんとに大丈夫? 体調悪いなら控え室で休んできな。熱中症怖いんだからね」
横に座っていた同じトランペット担当の由紀が、いつも通りの涼やかな目で夏海を真っ直ぐに見て言う。控え室というのは楽器ケースや吹奏楽の備品等を置かせてもらっている一室の事だ。
「とにかく水分取りな。ちょっとずつ飲んで」
「ありがと.......」
足元の鞄から取り出されたペットボトルは手に取るともう少しも冷たいように感じられなくて、外気との温度差でびっしょりと濡れていた。中身のスポーツドリンクはやはりぬるく汗をかいているせいかとても甘かった。
「顔色はそんなに悪くないね」
同じクラスでもある喜多見由紀は、今年の秋コンサートが終わり三年生が引退をしたら部長になることが内定している。そしたら来年の今頃はきっも否応なく指揮者役だ。
秋コンサートはもっと席が離れているだろう。こうやって野球場の応援席の横で演奏するのはこれで最後になるかもしれない。そんな時に。
いや勝つ。今日、ともちゃんは勝つんだけれども。
「本当にどうした?」
いつも騒がしい夏海が黙りこくったままでいることに、今度こそ訝しげに顔を覗き込んだ。
「あたし、最低最悪な奴なのかもって気付いてしまった」
それを聞いた由紀は珍しく目を丸くして黙った。ピッチャーマウンドでは攻守交代をして出てきた投手が肩を回している。遠い正面の応援スタンドでは相手高校の吹奏楽部が演奏を始めていた。
「今この時に?」
「うん。いま.......」
「三波ィーッ!行けーッ!!」
由紀が急に大声を上げた。三波と呼ばれたのはマウンドにいる投手だ。二年生にしてエースを任されて地区予選決勝の今日も一回から投げ込んでいる。声を出し終わった由紀は、
「演奏始まるまでなら聞いてあげる」
と、何でもないような顔だ。場違いすぎると自覚していたし口を滑らせたとさえ思っていたのに当然のことのように言った。放課後の教室の隅で暇を持て余しているように、しかし真剣に試合を見つめている。
いかに自分が場違いであるかを思い知って夏海は首を振った。
「いや.......さすがに試合終わってから話すよ。こんな大事な時に、あたしの話なんていつでも出来るし」
「今気付いちゃったんでしょ。ナツはどうせ勝っても負けても泣くんだから絶対忘れるよ。今言っといた方がいいって」
「ひどい」
「あそこで甲子園目指してる連中だけが主役じゃないわ」
夏海はこの親友をたまに姉のようだと思うことがある。睦美のように分かりやすく甘やかしてはくれないが、こうして真っ直ぐな優しさを施してくれる。
「ここは応援席だけど何処に居ようと私達の高二の夏も平等に一度しかない。だからどこにいようと『あたしの話なんて』だとか遠慮することない」
今は休憩中なんだから尚更自由よ、と本当は部活中で私語は褒められたものでは無いのを知っていて、何でもないように言う。三年生の先輩達の目も気になったが由紀が言うと妙な説得力があるし、そしてその率直な物言いが実際に貫き通される。
「漢前ユッキー大好き.......」
「ナツは好きな人が多いからいちいち周りを見渡して走り回って感情を乱されるんだと思うな」
「う.......ごめんなさい」
「別に責めてないし、そういうところが嫌いってわけでもない」
自覚はある。嫌いな人が多いはいいじゃないかと自己肯定して能天気にも信じていた。バッターボックスに入った選手の後ろに友樹が座って8回裏が始まった。
「.......お姉ちゃんが、今左斜め後ろの方に来てるんだけど」
「あら睦美先輩お元気?」
「まっ、ままままま待って!見ないで!いま振り向かないでっ!」
「いやどこにいるか見当たらないけど。相変わらずよく見つけるね」
しっかりと振り向いている由紀を羽交い締めにして向き直させたかったが、その身動きで目が合ってしまうのが怖くて夏海はマウンドの三波を睨んだ。真っ直ぐ速球、空振りストライクが決まる。大地も妙に目が良いのだ。
「今日お姉ちゃんが大地とデートしてるの」
「へー。睦美先輩とあの西野弟がねえ」
大地は由紀にとってもクラスメイトだったが、一学年上にいる野球部兄は入学時から知っていた。兄の方は睦美と仲良いのも知っている。
由紀からすれば大地と夏海が並んでいる機会の方が圧倒的に多いのに、それを指摘すると「それは幼馴染だから」と頑なに譲らなかった。そして「大地は別に好きな人いるし」とようやく口を割ったのはつい先日の事だ。
「二人もナツと同じく幼馴染なんでしょ? 普通に隣席で観戦してるだけじゃないの」
「そんなことないと思う。お姉ちゃん私が大地の話するとすっごく嬉しそうだし、今日も試合始まる時から席ひとつ取ってたし。大地も私がお姉ちゃんの話する時はいつもより相槌多くて質問とかも多いんだから」
「それはそれは随分ご立派で精密な統計データですこと」
「直感で分かるもん。女の勘だもん」
「で、それのどこが最低最悪なのよ」
ボールが2つ続いた後、ストライクが1つ入った。まだノーアウト。1-1の引き分け。この回を乗り切れば9回に希望が繋がる。延長戦もある。
「甲子園に行けたらともちゃんはお姉ちゃんと付き合えるんだって、ずっとそう信じてた。小学生だったし、青春スポーツ漫画みたいにさ、主人公が試合に勝って二人の最初の約束がそのまま果たされて、めでたしめでたしに当然なるんだって。お決まりの大好きな終わり方。でも、実際とは違うこともある。お姉ちゃんは漫画の主人公なんかじゃないし高校生になるまでに途中で別に好きな人が出来るかもしれない。あたしは誰よりもお姉ちゃんの味方でいたい。ともちゃんよりも、大地よりも、お姉ちゃんがあたしの味方でいてくれるようにあたしもお姉ちゃんの味方でいたい。お姉ちゃんが選ぶ好きな人と幸せになって欲しい。昔の約束とかそういうのに縛られず、例えばその相手が誰だろうと。でもお姉ちゃん真面目で頑固で強がりだから、あたしが好きな人と一緒になるべきだって言っても聞かないの。なのに、あたしは.......」
「うん」
「それなのに今更気づいた!あたし応援しながら、トランペット吹きながら、もし試合に勝ったら大地は睦美お姉ちゃんのことあきらめるんじゃないかって期待してた。甲子園に行ったらお姉ちゃんはともちゃんのこと好きになるかもしれない。応援してるふりして他人の失恋願ってさ。そんなの最低最悪だよ。結局自分のことしか考えてなかった!」
最後まで言い切る前にぼろりと涙が零れ落ちた。慌てて指で拭うが止まらない。泣くものかと思っていたのに。膝に置いていたタオルで堰き止めようと試みるが、それはマウスピース周りを拭くための唾拭き用なのを思い出して半袖の袖口に顔を押し当てた。由紀の手のひらが優しく背中を撫でるので、余計に情けなくなる。
「そういうの、心に隠しておけばいいのに、って私なんかは思っちゃう。わざわざ口に出して自分を正そうとするのは間違いなく東田夏海のいいところだと思うよ。だから元気だして.......と手厚く親友を慰めようと思ってたんだけど、やっぱり今はやーめた」
「へ?」
「適材適所」
「喜多見」
「本当にいたんだね」
「借りてくけど、いいよな」
「頼んだ」
勝手に会話が進んでいく。由紀のものではない、逆側から聞こえた低い声に夏海は顔を上げた。聞き覚えがある所ではない。階段通路に立っているのは、さっきまで後方に座っていたはずの大地だった。あまりの驚愕で涙がひっこんだ事にも二の腕を持ち上げられている事にも気付かないまま夏海はぽかんと見上げた。
「一応9回の演奏始まるまでに戻してね」
と、由紀は思い出したように指を3本立てた。スリーアウト分取るまでにというサインだ。
「え? なに?!」
「なにじゃない、ちょっと来い。話がある」
「あたしはない!」
「俺があるって言ってんの」
「なんで?!」
「なんでも!」
なんでここにいるの、と非難したくても珍しい大地の大声に驚いて言葉が引っ込んだ。お姉ちゃんと一緒にいなくていいの? そう聞きでもしたら話の行く先を聞くのが怖かった。夏海は何を恐れているのかと自分でも不思議だった。終わるのが怖いのだ。この先にあるのは単なる失恋ではない。関係の終わりだ。睦美お姉ちゃんが単なる好きなお姉ちゃんではなくなってしまう。
絶対に嫌いになりたくない。
「こんな狭い場所でもがくな。抵抗すんな」
「う、腕が痛いから」
応援スタンドを真っ直ぐ登っていた大地が足を止めて、掴んだままだった夏海の肘の上のあたりを離した。
「逃げるなよ」
「逃げるか」
「どうだか」
突然のことでトランペットまで持ってきてしまっていた。満員御礼のこの会場をこんな状態でどうやって逃げろというのか夏海の手のひらを拾い直す。体は大きいくせに大地の指は柔らかかった。
「そこにお姉ちゃんもいるの?」
睦美と大地が座っているのが見えた席を振り返ろうと体を捻ろうとすると、手が強く引かれた。
「ばか。ほんとうにばか!」
「ばかばか言うなぁ!」
出入口に続く下り階段に入ると、そこはコンクリート製の天井と床に囲まれていて今までいた場所から何十メートルも離れた訳でも無いのに嘘のように静かだった。試合はもう終盤に近い。この時間に階段を使おうとする人はなく、少し進んだ先の廊下にも人影はなかった。大地はようやく足を止めた。
「俺も人のこと言えないけど泣くまで我慢するなんて馬鹿で十分だ」
「泣いてなんかない」
恥ずかしさから来た嘘だったが大地には見えていなかった筈だ。
お姉ちゃんと試合見てなくていいの。ともちゃんが勝ったら二人はどうするの。勝ってしまったら、負けてしまったら、二人は気持ちを諦めてしまうの。そんなのは嫌だと思っているのに言葉が続かなかった。
「水泳の事も。ひとに勝手に諦めるなとか言っておいて自分が最初から諦めてるだろ。いつも騒がしいくせに肝心なところは確認もせずに一人で決めやがってそれで勝手に泣くなよ。俺は別に自分の才能に悲観したわけでも睦姉に惚れてるとかでもないから。あの人は完全に姉貴だと思ってるから。大学に行ったら別の面白そうなことも探したいけどまだ競泳やりたい可能性あると思ってるし睦姉は睦姉で兄貴がちゃんと好きなんだよ、俺もおまえも決勝戦の今日まで変な勘違いしてないで、そこら辺踏まえた上で最後まで試合を観ろ! その他の話は試合の後で! 以上!」
野球場の方から歓声が上がった。大地と夏海は咄嗟にそちらの方を向いたが、どちらに形勢が傾いたのかは二人のいる場所からは分からない。
「戻るぞ」
と大地が言った。いつも通りの言葉が少ない静かで優しい声だった。情報量の多さにぼんやりとしていた夏海は、手を引かれるまま元の道を戻った。色々な辻褄が合うようでいてまだ混乱している。
「でも大地」
大地は名前を呼ばれても振り返らなかった。
「好きな人いるみたいなこと前に言ってたでしょ。大地の周りでお姉ちゃん以上に可愛い人なんていなくない? 有り得なくない?」
「本当にうるさい」
試合状況は得点に変化なくツーアウトまで来ていた。ただしセカンドにランナーあり。大地はそれを確認してから今度こそ諦めたように「シスコンも大概にしてくれ」と言った。
読んでくださってありがとうございました。
週刊少年サンデーと少女漫画が好きで書きました。
書ききれなかったけど、試合に勝っても負けてもこの二組はことあと上手くいきますし、夏海は気づいてないけど三波と由紀は中学の時から付き合っています。