3. 大地の受難
東田睦美はスタンド応援席の一番後ろの出入口近くにある通路側の席にぽつんと座っていた。直射日光がコンクリート製の壁にあたり、屋根もないところに人が密集している、異様な熱気だ。大勢の人間に取り囲まれてはいたが、彼女の周りに知る顔はなく、喧騒の中ただ一人で静かにグラウンドを見下ろしていた。
一点リードされているらしいことは母親から逐一送られてきたLINEで知っていた。大地が地区予選会場に着いた時には試合は中盤を超えた七回の表で状況は変わっていないのを確認する。観客の声援や話し声、選手たちの掛け声が響く騒がしい中で何より目立つ音は、楽器の演奏音だった。初めて観戦に来たから耳馴染みがないかといえば全くそうでもない。部活中も時折校舎の四階角にある音楽室の窓から漏れ聴こえていた。隔てもなく聴くとこんなにも大きく響くものかと驚くが、その音の出処の内側ではどれだけのボリュームで聴こえるのだろう。
そこで、歓声の音が上回った。咄嗟にグラウンドを見下ろすと白球が外野に向かって放物線を描いた。打ったのは味方側だ。スタンドまでは届かない。咄嗟に落とせと願った。外野手が二人に追いかけられた球は、追いつかれる前に地面に落ちた。そのタイミングで一層歓声が割れんばかりに大きくなる。大地はそこで気づいたのだが、バットが球を打った瞬間二塁の先から駆け出し三塁を踏んで回って戻ってきたのは他でもない西野友樹だった。
一点返したのだ。
ホームを踏んだ友樹は味方ベンチに戻ろうとする途中で選手に揉みくちゃにされている。一点を返したバッターは二塁で止まった。決勝点でもなければ逆点でもないが、大地も競技こそ違うが運動部に所属する人間なので、爆発する喜びは手に取るように分かる。ベンチの中に入る手前で、友樹はこちらを見上げた。
こちらと言っても応援席全体にでもなければましてや弟にでもないことが大地には分かる。
夏海にも分かるだろう。
吹奏楽部の塊から目を背けるように睦美を見ると、睦美はただ周りの観客と同じように拍手をしていた。友樹が見えなくなると、また静かに、真っ直ぐグラウンドを見下ろす。
「睦姉」
結局大地は声をかけた。顔を上げた睦美の表情は少し緊張しているようだった。
「だいちゃん来たね。部活お疲れさま」
そう言って、いたずらをする子供のように笑う。
「じゃなくて、だいくんだったね」
「.......大して変わんないからもうどっちでもいい。おじさんたちは? 一緒じゃないの」
自分の呼び方を許したら友樹もしばらく「ともちゃん」のままなのだろうか。睦美の横の席には女物の華奢な折りたたみ傘が置かれていた。鞄に仕舞われたあとの空席に座ると、そこは特等席ではないが球場全体がよく見渡せた。
「お父さん達、前の方に座ってるの」
そう言って大音量の演奏を続けている吹奏楽部の方に細い人差し指を向ける。
「あそこなら吹奏楽の写真も撮れるし試合もよく見えるでしょう。でもあの辺りは人気で試合前から埋まっていて。空席のままには出来ないから私は後ろの方で大地くんの席も取っておきますねって説明してそれでここに」
「そりゃどうも」
午前中の部活動が終わり次第でやってくることが決まっていた大地に連絡をしてきたのは、確かに母親ではなく睦美からだった。
「ともくんから話は聞いた?」
何を、とは言わないが睦美は四人の中でも友樹以上に物怖じしない率直な人間だ。それが周りに伝播するくらいの力強さもある。知らない無関係だと誤魔化しそうになったが彼女の前では適当な嘘も通用しないので大地は諦めていた。
「聞いた。昨日の夜もうるさかった」
睦美は「目に浮かぶ」と可笑しそうに笑った。見つめるグラウンドでは相手校のピッチャーが三振を取って攻守交替になっていた。
「みんなの周りで、夏ちゃんの近くで、どんな顔をして座っていられるのか分からなくて。ずるいことしちゃった。いつも通りでいれば良かったんだろうけどそんな自信がなくて」
「自信が無いなんてことあるんだ」
決して嫌味ではなかったが、睦美はそれを聞いて心底不服そうな顔をした。
「なにそれ。ないよ。自信なんて」
キャッチャー装備を着けた選手がベンチから出てきた。顔は見えないが背格好も友樹だ。自信なんて無い、と言うのが友樹のことではないことを大地は何となく分かっていた。
「私、あの子の前ではちゃんとしてたい。嫌われたくない」
「あれは絶対嫌わないだろ」
「どうかなぁ」
「本気でそう思ってる?」
夏海が姉を嫌うことなんてこの先も有り得ないと大地は確信していた。ずっとあの調子の友樹を見つづけてそれでもお姉ちゃんお姉ちゃんと後ろをついて歩くような人間が。有り得ない、と思う。
吹奏楽部は20人近い団体で皆制服に野球帽姿だ。その一番前で夏海はトランペットを吹いていた。長く伸ばした髪をひとつに結んでいる。睦美が肩まで切れば切るし、伸ばせば同じ長さまで伸ばした。小さい頃だけではなく現在進行形だ。
いっそ姉を妬んで嫌ってしまえる奴なら自分達はなにかが違っていただろうか。姉が近くからいなくなってからの半年間も夏海はただ友樹を見ているだけだった。登校中やLINEで友樹の試合結果や睦美の近況報告を騒がしく寄越しては、ころころと笑ったりわあわあと泣いたりする。
泣くだろうか。勝っても負けても泣きそうだ。
「だいちゃんは、昔から私には手厳しいな」
そう懐かしみを込めて笑う。私には、と言うからには他の誰かに対しては優しいと言いたいのだろう。大地は聞こえないふりをした。
睦美は真剣な顔つきで友樹を見ていた。
「恋愛してる時の自分なんてどんな顔をしてるか分からないのに。みっともない所とか、取り乱してるところとか、可愛い妹にはどうしたって見られたくないの」
大学とかバイト先なら直接見られるなんてなかったのに。ともちゃんやだいちゃんならいいけど、と続けるので大地は耳を疑った。
妹を失恋させたくない、とか。妹の恋敵になりたくない、だとか。大地にとってみれば気恥しくて口から出せないような話になると思い込んでいた。拍子抜けをして思わず顔を上げる。
「気にするの、そこ?」
「そこってどういう意味?」
真っ直ぐに言い返されて、誤魔化すように大地もグラウンドを見下ろした。ワンアウト目で友樹のよく通る声が蒸し暑い球場に響く。掛け合うように吹奏楽の音楽が鳴って、二人の間を埋めた。
「お父さん達と離れた席にしたのはだいちゃんと二人で話しておきたいことがあったからでもあるの」
「俺と?」
「試合が終わったらもう機会が無いかもしれないから」
どうして自分が関係あるのか。自分は無関係なのに、と大地は思っていた。
「私が本当に好きなのは大地って」
「は?」
あまりに周りの音が騒がしいから、耳に異常があるのではないかと疑った。
「話は最後まで聞きなさい」
「.......はい」
内野にボールが転がり出た。ショートゴロで、難なくファーストでアウトになる。ツーアウトだ。
「昨日の夜、話があるって深刻そうな顔で夏ちゃんに相談されたの。そしたら思い詰めたみたいに自分なんか気にしないでお姉ちゃんの好きなようにして欲しいって。大地は優しいから身を引くかもしれないけど私が後押しするから、ともちゃんのことも私がフォローするから、いつまでも私の味方だからって。先に言っておくけど私はちゃんと勘違いだって説明したわよ。でも無理しなくていいってちゃんと聞いてくれなくて」
「待った。まったく話が飲み込めない。なんで俺の名前が出てくる? 睦姉が、兄貴じゃなくて俺のこと好きって意味?」
「端的に言えば『お姉ちゃんと大地が密かに両思い』だと思ってる」
大地は思わず吹奏楽部に目を向けた。今は守備だから演奏を休み、声をかけて応援している。相手方の応援席からは陽気な音楽が流れてきていた。大地はしばらく口が塞がらなかったが、やっとの所で、
「あいつ、ほんとうにばか.......」
と絞り出した。可愛い妹を「ばか」呼ばわりされたのが気に食わないのか睦美が「少し猪突猛進なところがあるから」と言い換えるが、そんなの少し所ではない。急いで記憶を呼び覚まそうとして頭を抱える。夏休みが始まる前、学校のある日は毎日のように会話をしていた。今年だけではなく小学校、中学校の時もだ。大地が見ていた夏海はいつも睦美と友樹の話ばかりだった。
「一応確認するけど、だいちゃんはずっと夏ちゃんだよね」
当たり前のように言うので大地は何も言い返せない。
「ごめん、質問がストレート過ぎた。これは答えないでいいの。ただ試合が終わったら話をしてあげて欲しい。過去の記憶や憶測とかではなくて、今のあの子の本心を聞いてあげて。誤解したまま遠慮をしてるとか無理をしているだとか、そんなの悲しいから」
「.......分かった」
「よろしく頼んだよ」
睦美はそう言って、なんでもないように再びグラウンドを見下ろした。この炎天下で汗ひとつかいていない。一方自分はといえば暑さ以外の汗も混じって着てきた制服のシャツがぐっしょりと濡れている。相変わらず会話をしていて歯がたつ気がしないが、全て見透かされているようで面白くなかった。
「元はと言えば睦姉が兄貴のこと満更でもないのにここまでハッキリしなかったから誤解されたんじゃないの? 途中で甲子園なんて関係ないっていえば喜んだと思うけど」
ぼそりと小声で意趣返しのように言ったが、睦美の耳にはしっかり届いていた。
「甲子園、目指してくれなくなりそうで」
「.......それはさすがに」
「無いって言える? 私は絶対見たいもの。あの場所で野球する彼を」
さすがにないとは思うが、あの兄のことなのでモチベーションになっている事は間違いない。弟目線としても否定できなかった。昔から睦美は四人の中で誰よりも甲子園が好きな女の子だった。
次でラストです。