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1. 睦美の帰省

 西野大地が長らく貯めていた小遣いでイヤホンよりもわざわざ高額なヘッドホンを買ったのは、あらかじめ音楽を聴いていることを人から察してもらう為だった。

「それってつまり人から話しかけられたくないってこと?」

 と単刀直入且つ無遠慮に聞かれるまではそんなつもりは無かったのに、いざ使い始めるとそれが思った以上に快適で認めざるを得なかった。

 イヤホンを使っていた頃、気付かず話しかけてきた人の多くは「邪魔してごめん」と謝っては時折「そんなに急ぎではないから」などと言って用件も話さず去る人もいた。それならば最初から察してもらえばいい。あちらが謝る手間もこちらが「いや別に今大丈夫だけど」等と弁解する不毛な時間も必要ない。そういう自分なりの優しい配慮のつもりだったというのに、大地は高校二年にして、人と極力話さない静かな生活というのが自分にとって快適なものだと知ってしまったのだった。

 通学路はそのヘッドホンの有難みが分かる主な活躍の場だったのに、その日の帰り道は最寄り駅から出るなり知っている人の姿が視界に入った。真夏の太陽でジワジワと熱された空気が揺れる空気の中で、見覚えのある長い黒髪と姿勢のいい立ち姿に大地は数秒考えた。自宅まで徒歩十分はある上、自宅に着くほぼ直前まで同じ道を辿ることになる。しかも歩く速度を考えたら間違いなく確実にすぐ追い抜いてしまう。少し面倒くさくはあるが、苦手でも気まずい相手でもない。大地は諦めて、間もなく追いついた。

 その人は横に並んだ大地にすぐ気付いた。目が合いヘッドホンを首にかけて会釈すると、

「それが噂のヘッドホン?」

 と言い、そして「だいちゃん久しぶり」と微笑んだ。西野家の向かいに住んでいる家の二人姉妹で、姉の睦美だった。彼女が向かいに住んでいたのは今年の春先頃までの事で、現在は大学進学の為に一人暮らしをしている。夏休みで実家に帰って来ているのだろう。彼女の帰省で喜ぶ人間たちの顔が浮かぶ。しばらく騒がしくなりそうだと大地は溜息を着いた。

「前にも言ったけど、だいちゃんはやめてください」

「えー? だいちゃん良いと思うけどなあ。別に学校で声かける訳でもないし、こんなに小さかった頃から知ってるんだから今更じゃないかな」

 睦美は手で腰の高さくらいの身長を示した。確かに、西野家が東田家の向かいに引っ越してきたのは大地が小学校に上がる前の年だった。

「さすがに高校生でちゃんは痒いんで」

「そしたら交換条件で私が呼び方を改める代わりに、だいちゃんが敬語を改めるというのはどう? 高校上がるくらいまでずっと普通だったじゃない。身近な人に使われるの、思った以上にくすぐったいものなんだから」

「年上でしょ」

「一応年上でも。親戚みたいなものでしょ」

 一応も何も、睦美は大地より二学年上で、中学高校では一年ずつ同じ学校に通っていた先輩でもある。いわゆる学業優秀な生徒で教師からの信頼も厚くどちらの時も生徒会長を務めていた。年齢差のせいか頭の作りのせいなのか、口で負かされるということの程でもないが、やんわりとその指示に従ってしまうところがある。相変わらず姿勢の良い背筋も伸びていた。

「ともちゃんの方はずっと相変わらずタメ口だよ?」

 ともちゃんの方、というのは大地の一歳違いの兄、友樹の事だった。友樹からしても睦美は年上だ。

「まあ、でもそうだね。向こうからも「ちゃん付け辞めろ」って言われてたし、そろそろ辞め時なのかな。今後は気をつけます。あんまりしつこいと可愛い弟分達に嫌われちゃう」

「それは」

「それは?」

「.......別になにも」

 それは有り得ないだろ、と余計な口を滑らすところだった。

 兄の友樹は、弟の大地よりもずっも社交的で、根が明るく、人懐こく、人間関係もずっと上手くやっている。だから高校三年にして「ともちゃん」と呼ばれるのも弟目線で吝かでもなさそうだが、昔から睦美の事を恋愛対象として見ているので、以前から彼女に子供扱いされるのを嫌っていた。彼女に対しては他人行儀な敬語も使わないし、逆に呼び名程度の事で嫌うはずもなかった。そんな気も知らず悠長に「友くん、大くん」などと大して変わらない呼び名を口に慣らそうとしている睦美は、ふと顔を上げた。

「水泳を辞めるって本当なの?」

 大地はそう言われて、無表情のまま数歩を歩いた。誰から聞いたのか聞くまでもなかった。まだ一人にしか言っていない。まだ兄にも部活の顧問にも友人にも話していない。不意に溜め息が口をついて出た。

「あいつ、本当に口が軽い」

 睦美には、友樹と同じくらい彼女を慕う妹がいる。大地と同じ学年でもう高校生だというのに姉が引越す日にはわあわあと大声で泣いていた。住む場所が離れてからも連絡をよく取っている様子なので

「噂のヘッドホン」もそこから伝わったに違いなかった。

「ごめんね。突っつかれたくない話だった?」

 首は横に振った。あえて触れてきて欲しい話ではなかったが、身構える程の話でもない。

「大したことじゃないし、今すぐ辞めないし、本当にそういうのじゃない。大袈裟なんだよ」

 卒業後の進路について聞かれたので、考えている事をそのまま話した。つい一昨日の事だ。その時に見た泣き出しそうな幼馴染の顔を思い出すと、少し決意が揺らぎそうにはなる。

「.......来年のインハイで行けるところまでやる。自動的に部活を引退する。受験勉強をする。大学ではやらない。クラブにも行かない。以上終わり、が世間一般的な進路だろ」

 日本高等学校選手権水泳競技大会、いわゆるインターハイ競泳は予選が春先から始まる。決勝まで残っていれば試合は来年もちょうど今頃の時期だ。来年のはまだ泳いでいたい。そう思う程度には自負も思い入れもあった。

「水泳取ったら何も残らないほど大層な実力でも無いし」

 自嘲ではない。水泳は他のスポーツ競技に比べて結果の出る年齢が早い。一流の選手は高校生ながらにして世界大会に出場する事が稀ではない。そうすると何が起きるかというと、全国規模の大会に行けば嫌でもトップとの差が目に見える。

「それは分からないよ」

 と睦美は言った。

「もちろん良い意味でね。水泳以外の色んなことをやって見るのはすごくいいと思う。でもここから一年で何が起きるか分からないし、今年よりずっといいタイムが出て、まだやりたい気持ちになってるかもしれない。だからまだ決めなくていいんじゃないかな」

「.......とにかくそんな深刻な話じゃない。引き続き頑張りますということでこの話は終わり」

「あ。あと次から試合見に行かなきゃって言ってたよ」

「来なくていい」

 言うと、睦美は少し驚いたような顔をしてから、ふふ、と笑った。

「言うと思った」

 それから大学生活の話を聞きながら家まで歩いて帰った。新しい友達が増えただとか、一人暮らしの家事で何が大変だとか、そういう他愛のない話だった。大地は適当な相槌を打ちながら「こちらの応援なんてほとんど来たことないくせに」と、ここにいないもう一人の幼馴染を思い出していた。

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