1.鳥たちの森
ルークはそこに踏み込んだ時から、場の異質さを肌で感じとっていた。
冬の樹々に紛れやすい、灰褐色の狩装束。その上にあえて目をひく濃赤色の帽子と襟巻を身に着けていた。灰色の外套を頭から被ってしまえば目立たないが、遭難して助けを求める場合には役に立つ。森に踏み込む狩人の知恵からくる習慣だった。
だがルークは今、そういった工夫が意味を為さないほど、不自然に賑やかな狩り場にたどり着いていた。
セーヴェルの地のうちでも南よりの森。本格的な冬に入る前に色づいた落葉樹の葉が舞い散るなか、さまざまな種の鳥たちが飛びかい、あるいは梢に留まり、あるいは鳴き声を響かせている。
力強い羽ばたきと堂々たる姿で他を圧倒する鷲や鷹。美しい歌を紡ぐ小夜鳴鳥や金孔雀。黒い不吉さを漂わせる鴉に、陽のあるうちは眠たげな様を見せる梟。本来は一堂に会しえない、これらの鳥たちの集う宴を目の当たりにして、ルークは困惑しつつも樹木の陰からその様子を伺った。
曇り気味であった頭上の空が、不意にほの明るく照らされる。見上げたルークの瞳には、金色の風が舞い降りたかにも映った。
それは黄金に輝く羽根を持つ鳥だった。鷲や鷹より華奢にみえたが、体毛や尾羽の長さはそれらを上回っていた。場の中央にそびえる大樹の頂に降り立ち、時おり小夜鳴鳥や金孔雀の鳴き声に呼応するかのように、金色の両翼をひるがえし、樹下の光景を眺めるかのようにその身をめぐらす。
こちらを見ていない時を見はからい、ルークはそっと弓に矢をつがえた。比較的大きな的だから、仕留められる自信はある。だが、できれば翼を射通すのみに留めて生け捕りにしたかった。金の鳥の動きを読みながら呼吸を整える。定期的に身体の角度を変えるリズムを把握した、両翼の中央を狙える絶好のタイミングを捉え、そして――
「待って」
軽く平淡な一声。それだけでルークの心と指先はほんの僅かに乱され、放たれた矢は金の翼をかすめ空を切った。一転して宴のようであった場の空気に緊張が走り、金の鳥はもとより他の鳥たちも一斉に飛び立つ。姿形の違う様々な鳥たちが急ぎ飛び交うなか、ルークはゆっくりと背後の声の出どころへと身体を向けた。
栗毛の馬上からルークを見下ろしていた。銀狐の毛皮の外套の下から、紫紺の長衣が覗いている。頭を覆う毛皮からこぼれる髪は、月の光のように柔らかな白金の輝きを放っていた。
ルークは眉根を寄せる。相手はどう見ても庶民の出で立ちではない。
「今日の収穫はなしだ。あんたのせいで」
「それは、申し訳ないとは思いましたが。そうなさらないほうがいいような気がしたの」
相手はゆっくりと頭上の毛皮を滑り落とし、菫色の瞳でルークを見つめかえした。若い女性、で間違いないだろうとルークはこの時ようやく確信を持てた。声がどことなく感情の起伏に乏しく、最初の一声だけでは判別しづらかったのだ。
「弁償してもらおうか、お嬢さんの家にでも」
正当な権利である――たとえその損失が、人が狩ることに躊躇いをおぼえる未知の神秘的な生き物でも。ルークとて薄々そういった畏怖を感じていなくはなかった。内心は逃したことに安堵していたが、それをおくびにも出さず強気の交渉で搾り取ろう、と腹づもる。
女は無言で馬を下り、腰帯に下げた袋から取り出したものを手に近づいてきた。差し出されたのは銀の指輪。中央の蜜色の石は、おそらく琥珀か。
「これで足りるでしょうか」
充分すぎるが、それ以上値を釣り上げるべきかルークはしばし逡巡した――というよりは、彼女とのやりとりをこれで終わらせていいものか、なぜか迷ってしまった。
先ほどの金の鳥も神秘的ではあったが、この女性――どちらかといえば少女と呼ぶべきかもしれない、間近で見て思ったよりも若く感じた――も充分に、浮世離れした雰囲気を持ちあわせていた。話を終えたら消えてしまいそうな、その心もとなさに気持ちを引き摺られ、ルークは指輪を受け取ったのちに言葉を続けた。
「いちおう、どこの家のお嬢さんか、聞いておきたいんだが」
「……先にあなたのお名前を、伺えたら」
至極もっともなやりとりであるが、少女の淡々とした声音に調子を狂わされる思いがした。
「ルークだ。”赤土の”ルーク、と呼ばれる」
「……そう。すごく、わかりやすい」
そうだろうよ、とルークは胸のうちで呟いた。濃褐色の髪と瞳はともかく、自分のような赤土色の肌の者をここセーヴェルで見かけることは、皆無に等しい。南方からの移民であった、両親より受け継いだ容姿――彼らに先立たれた今となっては、尚更だ。
「わたしは、ミローディア」
少女はふわりと微笑んだ。雪白色の肌にわずかに朱がさしていて、ほのかな温かみがこもった笑顔。どこかで聞いた気がする、そうは思うものの、ルークは彼女を前にしてそれ以上の言葉が出せなくなってしまった。
「見て。戻ってきた」
飛び立った幾羽かが、ふたたび近くの梢に降り立とうとしている。その中にはあの、黄金の鳥もいた――ただし中央の大樹の上を旋回するのみで、ルークと彼女の様子を伺っているようにも思えたが。
「きっと何か、あなたにとっていいことがありますよ」
金の鳥を見上げながら告げるミローディアに、何を根拠に、と言い返したくなったが、それも馬鹿馬鹿しく思えてルークは知らず溜息をついた。琥珀の指輪を懐にしまい込み、灰色の外套をひるがえして森の出口へと踵を返す。
去り際に、ルークは後ろを振り返る。離れていたミローディアの菫色の瞳と目が合った。
「きっと、です」
やはりふわりとした笑みを浮かべていた。かすかにそよぐ風に、白金の髪が揺れている。ルークは何故だか妙に気まずくなり、向き直って今度こそまっすぐに、森の外へと駆け出した。
*
「おまえも帰るの?」
再び大樹の頂に降り立った金の鳥に、ミローディアは呼びかけたが、返事はかえってこない。毛皮の外套を被りなおそうとしたミローディアは、その時、強く冷たい一陣の風にあてられ、思わず頭を押さえて膝を屈みかけた。
その所作を終えるまでもなく、ミローディアの目の前を黒い風のような衣がひるがえる。幾重もの黒い衣に絡めとられ、その冷たさに身を竦ませる間もなく、ミローディアは頭の芯を冷やされるような感覚とともに、意識を奪われていった。
最後にミローディアが見たものは、騒がしく羽音を立てて飛び立つ鳥の、長い金色の尾羽だった。