虹になれない少女
「…」
久々にみたちゃんとした人間。あまりにも突然のことで全く言葉が出てこない。頭もうまく回っていないようだった。ただ、虹色の中に存在感を放つ一人の少女を見て固まる26歳のおっさんという構図が出来上がっていた。
「…?」
少女はやや困ったような笑顔で、僕を見返していた。
「あの…?」
「…、あ、あぁ。すみません。」
やっと出た言葉が謝罪とは情けない。もっといろいろ聞きたいことはあるはずだろう。
「ピアノの調律って終わりましたか?少し、弾いておきたいのですが。」
「ごめんなさい、もう少しで終わります。すぐ終わらせられるので、そこでお待ちいただけますか?」
どうやら本日の出演者のようだった。思えば僕は今日がどんなコンサートなのかすら知らない。
…いやいや、そんなことを考えている場合じゃない。この娘と少しでも話さないと…。思いがけずに飛び込んできた僕の人生にかかわる重要なヒントだ。なんでもいい、変に思われないように何かを聞かないと。
「…さっきは固まってしまってすみませんでした。」
また謝罪…つくづく情けない。
「いえいえ、ちょっとびっくりしましたけど。どこかでお会いしてましたか?」
特に気にも留めないような様子で受け答えをしっかりしてくれる。
これは…変な警戒さえされなければ、いろいろ聞き出せるかもしれない…。
「普段、機材室でこの時間だと一人なものですから、少し驚いてしまっただけですよ。今日の出演者の方ですよね?すみません、時間がかかってしまっていて。」
「ふふ。調律師さん、謝ってばかりですね。あまり気を遣わないでください。私もそんなに恐縮されると困っちゃいます。それに、調律師さん、何か焦っているようですね。私がいると邪魔になってしまうのであればまた出直しますよ。」
それはまずい。もう調律なんてホントは終わってる。時間稼ぎだ。出演者ならこの後も話せないだろうし、こんなホールで演奏する人間、どう考えてもかなりの有名人だ。次仕事で一緒になるのも、いつになることかわかったものではない。
「いや、それは待ってほしいです!」
この少女がこの場からいなくなる最悪の展開を阻止するための一言をひねり出した。
「わ!びっくりした!どうしちゃったんですか…?」
心底驚いたような表情でそう言った少女。少し警戒してしまっているようだった。
「いや、ごめんなさい。でももう…ごめんなさい、僕の話を少し聞いてもらって、心当たりがあれば教えてほしいだけなんです。結論から言わせてもらうと、『あなたが人間に見えるんです』」
はたから聞いていると何を言っているかわからないし、とらえ方によっては失礼極まりないのだが、間髪入れず話を続ける。
「実は僕の視界は虹色で…もしかしたらあなたも知っているかもしれませんが…このピアノも、床も壁も、空も、そして人間も…全部虹色なんです。でもその中で、あなただけは、あなただけは正常な人間として認識できているんです。久しぶりに、人を見たんです。」
「…」
「おかしなことを言っていると思われているかもしれない。でも、もうこの視界についてあきらめていた中で、いきなりあなたが現れたんだ。だから…だから…!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください、調律師さん!」
いつの間にか僕は彼女の肩をつかんで、泣いていたようだった。