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七章:化け物とは

七章:化け物とは


「お父様……」

 突然現れたイングヴェイを前にハルトリーゲルは困惑気味に立ち尽くす。イングヴェイは真っ直ぐにハルトリーゲルを見つめながら語りかける。

「やはり……お前がガルテンに懐柔されたという話は本当だったのだな、我が娘よ」

 表情を曇らせるイングヴェイを前に、ハルトリーゲルは首を大きく横に振る。

「それは誤解ですわ、お父様! 私はミステルのハルトリーゲル! ミステルに弓引く意志など微塵もありませんわ!」

「では何故、部屋にいるはずのお前がこのような場所にいるのだ? ヴィルヘルムが教えてくれたぞ。やはりハルトリーゲルは異心有りとな」

 声を荒げるハルトリーゲルを前に、イングヴェイが淡々と告げる。その傍らにはヴィルヘルムが立っている。その表情は顔を伏せているためハルトリーゲルからはよくわからない。

「ヴィルヘルム……貴方……」

 ハルトリーゲルが驚いた表情でヴィルヘルムを見つめる。するとヴィルヘルムがゆっくりと顔を上げていく。そして二人の視線が交差する。ヴィルヘルムの視線を受け止めたハルトリーゲルは思わず後ずさる。

「なんで……」

 その瞳には昼に見せたハルトリーゲルへの優しい光はなく、憎悪にも似た冷たい光に満ちていた。そんなヴィルヘルムを横目にイングヴェイがゆっくりと語り出す。

「魔王暗殺に失敗したお前が何故生きていられたのか。それはお前が我らミステルを裏切り、ガルテンに頭を足れ、媚を売り、その生命を繋いだからに他ならぬ! そしてお前は戻ってきた。ガルテンの走狗として、このミステルに仇なす存在として!」

 イングヴェイの言葉に一斉に騎士たちがハルトリーゲルに向かって槍を構え、ヴィルヘルムもゆっくりと剣を抜く。

 いくらハルトリーゲルが神樹の呪いで常人を超える力を発揮できようとも、その体はうら若い少女そのものである。不死に近いガデナーとは異なり、槍で突かれれば傷を負い、場合によっては死に至る。

 ハルトリーゲルは小さく体を震わせるとゆっくりと後ずさる。ハルトリーゲルの脳裏に浮かぶのはガルテンでの暖かい日々。ヴェルツで見た人々の笑顔。そして子供を襲う異形の姿。そして自分を優しく抱きしめてくれたガデナーの温かい笑顔。あらゆる感情がハルトリーゲルの中を駆け巡る。そして同時に思い出す。自分がなぜここに戻ってきたのか。

 ハルトリーゲルは引かない。引く訳にはいかない。ここで果てる訳にはいかない。あの温かい国に帰ると決めた。愛する男の下に戻ると決めた。ハルトリーゲルの瞳に覚悟が宿る。その瞬間、ハルトリーゲルは自身に宿る力をゆっくりと開放していく。

「このハルトリーゲル……」

 ハルトリーゲルの言葉と共に、その体を金色の光が包み込む。その光景にイングヴェイが怯えた表情を見せる。

「いかん! ステンペルの力だ! 陛下をお守りしろ!」

 その瞬間、誰かが叫び、騎士達とヴィルヘルムが一斉にハルトリーゲルに向かって踏み込んだ。

 ハルトリーゲルはヴィルヘルムの振り下ろした剣に自身の剣を合わせて後ろに流す。その勢いで身をひねりながら騎士の繰り出した槍をかわしていく。その光景に騎士たちが陣形を変え、ハルトリーゲルを取り囲むように散開する。

 騎士たちもハルトリーゲルの身に宿る呪いを理解しているのか、槍を構えたまま不用意に近づこうとしない。一方のハルトリーゲルは自分を取り囲む騎士を一瞥すると、真っ直ぐにヴィルヘルムに視線を移す。そして朗々と告げた。

「お父様にお伺いしたいことがございます。そのために私はミステルに戻ってまいりました」

「ほう?」

 ハルトリーゲルの言葉が意外だったのか、イングヴェイが瞳を大きく見開いた。

「私がガルテンに嫁いだのは、ミステルを脅かす忌まわしき魔族の国、ガルテンの王――魔王ガデナーを暗殺するためでした」

「然り」

 イングヴェイが答える。

「ですがっ!」

 ハルトリーゲルは真っ直ぐにヴィルヘルムを見つめながら叫ぶ。

「ガルテンは――彼らは海の外の国と交流し、国を育み、その関心はミステルにはありませんでした! それにガルテンからミステルに弓引いたことはただの一度も無いと伺っております。私にはどうしても彼らがミステルに害する存在だとは思えません! お父様は、ミステルはガルテンを見誤っておられます!」

「……」

 イングヴェイは答えない。ハルトリーゲルは続ける。

「それにあの異形はガルテンの罪なき人々を襲い、大地を腐らせております! それが! それが私達――清浄たるミステルの、神樹の意志だというのですか! お父様!」

 イングヴェイは表情一つ変えること無くただ黙ってハルトリーゲルを見つめている。そんなイングヴェイに対し、ハルトリーゲルは天井を指差して叫ぶ。

「それにっ! あの檻に入っている人たちに――ガルテンの民に何をしたのですか! あれはまるで……神樹があの人達を!」


「『神樹が人を喰らっている』ようだと。そのとおりだ、我が娘よ」


 ハルトリーゲルは一瞬何を言われたのか理解できなかった。否――理解できた。出来てしまった。ただその事実をハルトリーゲルの心が受け入れるのを拒んだ。思い出されるのはザフトリングの言葉。

(――食べれる命なら何でもいいのかしら)

 覚悟はしていたが、向き合う勇気が足りなかった。イングヴェイの言葉にハルトリーゲルの思考は止まった。そんなハルトリーゲルをよそにイングヴェイが続ける。

「……お前は長らく幽閉されていたから知らんのであったな。我がミステルに生きる者の使命を、その生命の意義を……そして神樹の意思を」

 イングヴェイの表情はハルトリーゲルの知る作り物の笑顔ではなく、かつて幼い自分に見せてくれた優しい父のものであった。ハルトリーゲルはイングヴェイの言葉に不思議そうに問いかける。

「私達の使命……?」

「左様」

 イングヴェイがゆっくりと語り出す。

「我らミステルの始祖はこの神樹ミステルであることは存じておろう?」

「はい……」

 ハルトリーゲルが小さく首肯する。

「遥か太古の時代、神樹ミステルはこのヴァッサーリンゼンの地に芽吹いて以来、神樹はあらゆる命を生み出した。それが我々ミステルの民であり、我々が口にする日々の糧でもある。我らミステルの民は神樹と一心同体、神樹の意思は我らが意志である」

 イングヴェイはゆっくりと首を横に振る。

「……神樹は多くの命を育んできた。我らミステルの民は日々の糧、水、あらゆるものを神樹ミステルから授かっている。ではハルトリーゲルよ。その神樹の溢れんばかりの命の恵みはどこから生まれるのか。お前は考えたことはあるか?」

 その言葉の意味することを即座に理解したハルトリーゲルは思わず瞳を大きく見開いた。

「それは……まさかそれは……」

「神樹はヴァッサーリンデンの、大地の命を吸い上げているのだ。その残り香が我らの日々の糧として供されておる。我々を、そしてお前をこれまで支えてきたのは他でもない、神樹が吸い上げた大地の命なのだ」

「そん……な……」

 ハルトリーゲルは蒼白な表情で絞り出すように呟いた。

「そして今、その神樹が乾いておられる」

 甘かった。ハルトリーゲルは目眩を感じていた。ハルトリーゲルはミステルがガルテンを襲撃するのは、ガルテンが神樹を脅かす悪だと勘違いしてのことだと思っていた。ならばガルテンが悪ではないことを伝えれば襲撃は止む。そう思い込んでいた。思い込みたかった。

 イングヴェイは続ける。

「故に神樹は大地の命を欲しておられる。すべてはその乾きを癒すために。我らを生きながらせるために」

「……」

 ハルトリーゲルは言葉を失い、その手にした剣を思わず床に落とす。乾いた音が静かに鳴り響いた。

 イングヴェイは真剣な表情で真っ直ぐにハルトリーゲルを見つめる。

「神樹が我らミステルの民を生み出したように、ヴァッサーリンゼンの大地もまた自らの分身となる命を生み出した」

「……それが魔族、ガルテンの民ですか」

「左様。ガルテンの民は神樹の根が広がらぬように封印を施し、ヴァッサーリンゼンに眠る大地の力を神樹から遠ざけようとした。そして神樹はゆっくと乾いていったのだ。ガルテンが――魔族が存在する限り神樹の乾きは癒やされぬ。故に神樹は乾きを癒すための『根』を作られた」

 イングヴェイはハルトリーゲルの後ろに整列している異形になりかけている兵たちに視線を送る。

「それがヌス・ミステル。大地の命を神樹へと届ける神樹の根だ」

「そんなっ! この異形が……神樹の意思と言うのですか!」

 声を荒げるハルトリーゲルに対して、イングヴェイは泉に向かって歩み寄り、ゆっくりと光り輝く水をすくってみせる。イングヴェイの指から光がこぼれ落ち、淡い燐光となって周囲を舞う。

「この水こそが神樹の意思、我らをヌス・ミステルへと目覚めさせる加護の力よ」

 その瞬間、天井に吊られていた檻の蔓が切れ、水しぶきとともに近くの池に沈む。その光景にハルトリーゲルが顔を歪める。

「……そのヌス・ミステルの持つ槍も神樹の『根』ということですか。槍の毒によって喰われた命は神樹へと向かう。そして彼らをガルテンに送り込み、大地の命を喰らい、ガルテンの民を拐かしたというのですか」

「……魔族は大地の化身。強い生命力を持っておるからな。その骸とて神樹への大切な供物なのだ」

「そんな! 大地の命を喰らい罪なき魔族を襲うことが神樹の意志だというのですか!」

 声を荒げるハルトリーゲルを前にイングヴェイがゆっくりと瞳を細める。その瞳には敵意はなく、慈しむようにハルトリーゲルを見つめている。そしてゆっくりと――ハルトリーゲルに向かって微笑みかけた。

「何を言うか、ハルトリーゲルよ。神樹の意志に最も近いお前が言う言葉ではなかろう」

 その瞬間、ハルトリーゲルは何を言われたのかわからなかった。

「私が……神樹の意志に一番近い?」

 その言葉にイングヴェイが仰々しく両手を広げながら語る。

「わしは先ほど神樹は乾いておると言った。そしてその乾きを癒すために、神樹は命を汲み上げる『根』を作ったと。その一つがヌス・ミステル。そしてもう一つが――ステンペル。お前なのだ、ハルトリーゲル」


「私が……神樹の『根?』」

 これ以上は聞いてはいけない。ハルトリーゲルの直感がそう告げていた。同時にイングヴェイの言葉を聞いて、ハルトリーゲルの中で何かが繋がっていくのを感じていた。突然自分の身に顕現した神樹の呪い。あらゆる命を喰らうおぞましき吸魂の呪い。ではその吸い取られた命はどこに行ったのか。ハルトリーゲルは自分の両手を見つめながら小さく震え出す。

「まさか……私に宿るステンペルの呪いは触れた者の命を蝕む死の呪い……。その命を蝕んでいたのは……他でもない……神樹ミステル! そして私は……神樹が張り巡らせた……根!」

 ハルトリーゲルの体が小刻みに震えだす。感じるのは恐怖でも怒りでもない、純然たる安堵。理不尽の化身である自らの存在を肯定されたかのような安らぎ。ガデナーに抱きしめられた時とは異なる安堵がハルトリーゲルを包み込む。

 同時に湧き上がる神樹への怒り。あらゆる感情がハルトリーゲルの中で暴れだす。ハルトリーゲルは苦しそうに胸に手をあててしゃがみ込み、その頬を一筋の汗が撫でる。

 苦しそうな表情を浮かべるハルトリーゲルを見つめながらイングヴェイは顔を小さく顔をしかめた。

「ステンペルの呪いはミステルとの繋がりを色濃く持つ王家の嫡流にのみ現れるとされておる。ステンペルの力に目覚めた者は神樹の力を宿し激烈なる力を持つと同時に、触れた者の命を分け隔てなく『吸い取る』のだ。そしてそのステンペルの呪いによって吸われた命は神樹ミステルへと届けられる」

 その言葉にハルトリーゲルは両手を見つめながら肩を震わせる。

「なんてこと……。命を食い尽くすミステルの魔物は……、魔物は……」

 ハルトリーゲルが絞りだすように呟いた。


「……他でも無い、この私でしたのね」



 全てを理解したハルトリーゲルの体はもはや震えていなかった。

「私がガルテンに嫁がされたのはミステルの根の成長を妨げるガルテンの排除。そして私がこの力で魔王を殺せば、魔王の持つ膨大な命の力もミステルへと提供される。なるほど……無駄がありませんわね」

 淡々と語るハルトリーゲルを前にイングヴェイが表情を曇らせる。

「……ステンペルの呪いは古文書に記されるに留まり、皇家の者に現れることはなかったと聞く。ハルトリーゲル……お前を除いては。そしてわしは理解した。それほどまでに神樹は乾いておられるのだと。お前は誰よりも神樹とつながっている。故にお前は苦しまねばならなかった。お前も王家に生まれた者の定めと受け入れ、その責務に殉じよ、とは言わん。ただ……恨むならこの父を、お前を抱きしめてやることすらできぬこの不甲斐ない父を、お前をガルテンに嫁がせたこの父を恨め」

「お父様……」

 言葉と共にイングヴェイが深々と頭を下げる。そんなイングヴェイの姿にハルトリーゲルの中で何かがこみ上げてくる。呪いが発現した日からハルトリーゲルの日常は終わりを告げた。仲の良い使用人達はハルトリーゲルを見つめて恐怖におののき、優しかった母は露骨な嫌悪の感情を向けるようになった。

 ハルトリーゲルの世界から人が消えた。そんな孤独な世界に父親が戻ってきた。まやかしかもしれない。歩み寄っている振りをしているのかもしれない。仮にイングヴェイから感じる暖かさが偽物であったとしても、この優しい嘘に溺れてしまいたい。ハルトリーゲルの世界にまた一つ、小さな灯火が宿った。

 しかしそれに呑まれるハルトリーゲルではない。ハルトリーゲルにはどうしても聞かねばならないことがある。ハルトリーゲルは絞りだすように呟いた。

「……神樹が乾いているのも分かりました。そして何が必要なのかも。ですが……ガルテンの民は、魔族の人々は、私達と同じ人なのです! そんな彼らの命を奪っていい理由にはなりません! 何か、何か方法はないのですか? 神樹の乾きを止める方法が!」

 その言葉にイングヴェイが苦しそうに首を横に振る。

「残念だがもはや他に手立ては無いのだ。神樹の命を保つにはガルテンの大地に眠る命の力を捧げる他に手はない」

「しかし……そうなったら、ガルテンは、ヴァッサーリンデンの大地はどうなるのですか!?」

 声を荒げるハルトリーゲルを前に、イングヴェイはただゆっくりと首を横に振る。

「そればかりはわしにも分からぬ。神樹がどれほど乾いているか、何事も無く大地に命が残るか、それとも地中深くの命まで吸われるか……」

「そんなっ! そんな事になったらガルテンの人々はどうなるのですか!? 大地が枯れれば、そこに生きている人達は!」

「おそらくは生きていけまい。ガルテンの民もまたヴァッサーリンデンの大地の命の分身。我らが神樹と共に生きる定めがあるように、彼らもまたその運命を大地とともにするだろう」

「なんてこと……彼らには何の罪もありませんのに」

 ハルトリーゲルは力なくその場に座り込む。そんなハルトリーゲルを見つめながらイングヴェイが瞳を伏せる。

「神樹の……そしてそこに生きる全てのミステルの同胞の命がかかっておるのだ。このまま座して死を待つわけには行かぬ。そのためには我らは悪鬼の名を甘んじて受け入れねばならぬ」

「そんな……」

 イングヴェイの言い分は理解できる。たとえそれがガルテンの民にとってどれほど理不尽なことであっても、多くのミステルの民を預かる身としては至極当然の決断である。ガルテンを知らないままのハルトリーゲルであれば納得もできた。しかし今のハルトリーゲルはガルテンを知っている。魔族の暖かさを知っている。故にそれは受け入れられない。受け入れる訳にはいかない。

 それと同時にハルトリーゲルはミステルを捨てることも出来ない。どんなに辛い思い出があろうとも、ハルトリーゲルが生まれ育まれたのはミステル皇国である。たとえ名ばかりであろうとも皇女であるハルトリーゲルに祖国を捨てるという選択肢はない。

 どちらかが生き残るためにどちらかが滅びる。残酷な現実にハルトリーゲルは顔を歪めて苦しそうにイングヴェイを見つめる。

「神樹が――我らミステルが生き残るにはなんとしても神樹の根を抑えているガルテンの封印を解かねばならぬ。それはすなわちガルテンが滅びることを意味する。ガルテンがこのままミステルを抑え続けたならば、神樹は力を失い我らミステルの民は神樹と運命を共にするであろう」

「……」

 ハルトリーゲルは黙ってイングヴェイの言葉を聞いている。

「ガルテンは本来は八人の王からなる魔族の国。それを一つにまとめあげ、神樹を押さえ込んだ恐るべき魔王ガデナー。かの王を討つことができればガルテンは自ずと崩壊し、神樹を抑えている封印も弱まるだろう」

「魔王……ガデナー様……」

 その言葉にイングヴェイが真っ直ぐにハルトリーゲルの瞳を見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「ハルトリーゲル……我が娘よ。ミステルに生きる全ての命のため、お前にはガルテンの王を、魔王ガデナーを討ちとってもらいたい」

 イングヴェイの言葉が静かに響き渡った。



 ガルテンでは降り注ぐヌス・ミステルの襲来は小康状態となり、ザフトリングが空を見上げて小さくため息をつく。

「そろそろ終わりかしら? 今回はちょっと量が尋常じゃなかったわね。撃ち漏らしも幾つかあったみたいだけど、残りはピルツに任せるとしましょうか」

 ザフトリングが窓の外を見て呟いた。その後ろではガデナーが落ち着かない様子で部屋の中で何やらつぶやきながら右往左往していた。

「ハルトリーゲルは戻ってくる……。ハルトリーゲル戻ってくる……」

「ちょっと……怖いからそれやめてよ、ガデナー」

 落ち着かない様子のガデナーを前にザフトリングは小さくため息をつき、何かを思いついたのかいたずらっぽく微笑むとガデナーの耳元に口を近づける。

「やっぱり実家のご飯って格別よね。家庭の味っていうの? ハルトリーゲルちゃん、戻ってくるかしらねぇ?」

「ハルトリーゲルはガルテンの食べ物が気に入っていた……だから戻ってくる。ハルトリーゲルはガルテンの食べ物が気に入っていた……だから絶対に戻ってくる……。食べ物が戻ってくる……」

「食べ物が戻ってきてどうするのよ!」

「ぶふぅ!」

 幽鬼の如く何かをつぶやいているガデナーを前に、ザフトリングがこらえきれずに手元にあった本を投げつける。ガデナーはそのままゆっくりと倒れこみ、大の字で床に転がった。ガデナーは瞳を大きく見開き、黙って天井を見つめていた。

 すると突然ザフトリングがガデナーと同じように天井を見上げ、口元を大きく吊り上げた。

「あはっ! これはすごいわね!」

「……来たか、ハルトリーゲル!」

 ガデナーはそう呟くとゆっくりと立ち上がる。

 その瞬間、窓の外から眩いばかりの光が飛び込んでくる。既に日は傾き、宵の空が広がる時間である。しかし窓の外はまるで昼と見まごうばかりに明るい。

「愛しのお姫様の帰還ね。じゃあお出迎えしなきゃね」

 ザフトリングが総つぶやき、ガデナーとザフトリングの姿が部屋の景色に溶けるように消えた。


「若! あれを!」

 ガデナーとザフトリングは王宮の中庭に立っていた。そこにはピルツが立っており、二人の姿を見るや焦った様子で空を指差す。

 ピルツの指差す方向には空を埋め尽くすほどの凄まじい光の玉が明滅を繰り返しながらゆっくりとガデナー達に向かって降りて来るのが見える。

 光がノイエ・パレの上空に張り巡らされた結界に触れた瞬間、結界に大きな亀裂が走った。

「あらあら、私の張った結界をこうもやすやすと貫通するなんて。穏やかじゃないわねぇ」

 その光景にザフトリングが肩を竦めてみせる。

「ザフトリング殿! あれは一体!」

「ふふっ……すぐに分かるわ」

 ピルツが慌てた様子でザフトリングに詰め寄るが、ザフトリングは小さく笑みを浮かべるばかりで答えない。一方のガデナーは腕を組んだまま黙ってその光を見つめていた。

「二人共……話はあとだ。来るぞ!」

 ガデナーの言葉に一瞬にしてピルツとザフトリングはその身に宿る力を開放する。次の瞬間、結界が砕け散る音が鳴り響き、ガデナー達の目の前に巨大な光球がゆっくりと舞い降りる。

 飛来した光球は徐々にその輝きを失い、次第にその輪郭が明らかになる。それは例えるなら巨大な実であり、繭であった。ヌス・ミステルにも似た楕円形の物体の表面には淡い光の文様が浮かび上がり、ゆっくりと明滅を繰り返している。

「ヌス・ミステル……いや、これは違う! この光から漏れる気配……まさか!」

 ピルツが繭の正体に気が付いたのか慌てて叫んだ瞬間、繭から周囲に向かって光の波が放たれた。全く力の脈動を感じさせること無く突然放たれた光の奔流は容易にピルツを吹き飛ばし、王宮の外壁を音もなく削り取っていく。

「……これ程とはな」

「あはっ! すごい力の密度。引退したとはいえピルツを――『王』をこうも簡単に退かせるなんて!」

 ガデナーは光の奔流の中を堂々と立っていた。その後ろには吹き飛ばされるのをこらえたザフトリングが地面に手をついて楽しそうに口元を吊り上げている。

 すると突然繭に亀裂が走った。亀裂はゆっくりと広がり、亀裂に沿って繭が開いていく。眩いばかりの光が溢れ出て宵の夜空を煌々と照らす。

 そして繭の中から全身に黒いドレスを身にまとった美しい少女――ハルトリーゲルが現れた。



「戻ったか、ハルトリーゲルよ」

 ガデナーの言葉に吹き飛ばされたピルツが驚いた様子で顔をあげる。

「ハルトリーゲル様……? その姿は一体……?」

 突然現れたハルトリーゲルを前にピルツが驚いた様子で問いかける。その体は金色の光を纏い、頬には光の文様が浮かんでいる。ハルトリーゲルが歩く度に光の残滓が虚空に金色の線を刻んでいく。

 その凛とした姿はまさに神樹の依代であり、神話の再来である。ガデナーは黙ってハルトリーゲルを見つめ、隣に立つザフトリングも小さく口元を綻ばせながらハルトリーゲルの歩く様を見つめている。

 自分に向かって歩いてくるハルトリーゲルに向かってガデナーもゆっくりと歩み出す。二人の距離が次第に近づき、二人はお互いの鼻が触れる距離にまで近づいて止まる。

 ガデナーは真っ直ぐにハルトリーゲルを見つめ、一方のハルトリーゲルもガデナーを見つめて視線を離さない。

「……知ってしまったのだな。ミステルを。そしてステンペルの意味する所を」

「はい……」

 ガデナーの言葉を受けて、ハルトリーゲルが短く返す。たった一言の短い返答。二人の間にはそれだけで十分であった。その意味する所を忌憚なく理解したガデナーは苦しそうに顔を歪める。一方のハルトリーゲルは少し困った表情を浮かべると、ガデナーに向かってドレスの端を持って優雅に礼をしてみせる。


「……私の名はハルトリーゲル。ミステル皇帝、イングヴェイが娘にして神樹ミステルの意思。ステンペルのハルトリーゲル。ガルテンの王、魔王ガデナー。その御首、頂戴いたしますわ」


 ハルトリーゲルが朗々と名乗った瞬間、凄まじい轟音が鳴り響き王宮の壁が倒壊した。

「なっ……なんと……!」

 ピルツとザフトリングの知覚を超えたハルトリーゲルの神速の一撃がガデナーに叩きこまれ、ガデナーの右腕が吹き飛ばされた。そして吹き飛ばされた右腕が大砲の弾丸のごとく王宮の壁を抉り取ったのである。その光景に思わずピルツが驚愕の声を漏らす。

「これがミステルの根――ステンペルの真の姿というわけね。私でも視えなかったわ」

 ザフトリングがハルトリーゲルを見つめながら小さく呟いた。ハルトリーゲルの傍らではガデナーが吹き飛ばされた腕を庇うように抱えながら膝を付いている。ハルトリーゲルはガデナーを一瞥するとガデナーの首に手をかけ、そのまま片手でガデナーの体を持ち上げる。

「ハルトリーゲル……。それが……お前の……答えか……」

 苦しそうに語るガデナーを前に、ハルトリーゲルは朗らかに笑ってみせる。その笑顔はどこまでも美しく、そして冷たかった。

「……自分勝手と罵ってもらって構いませんわ。あなた方にはなんの罪もありません。これは全て私達ミステルの咎。その咎をもってガルテンの命を頂きに参りました。どうぞお覚悟を。私の愛しい人」

 ハルトリーゲルは美しく笑うと、ガデナーの首を持つ手に力を込める。そして次の瞬間、ガデナーの首を握り潰した。

 鈍い音が鳴り響く。尋常ならざる握力で握りつぶされたガデナーの首が胴を離れ、地面に転がっている。首を失った体からは噴水のように血が溢れ、ゆっくりと地面に向かって倒れこむ。

 ハルトリーゲルの黒いドレスに付着した赤い染みが吸い込まれるように消えていく。

「あらあら、随分と派手な里帰りになっちゃったわね。ハルトリーゲルちゃん」

 ハルトリーゲルが振り返れば、いつの間にかザフトリングが床に転がっていたガデナーの首を拾い上げて微笑んでいた。そんなザフトリングを見つめながらハルトリーゲルが抑揚のない声で答える。

「私の使命はガルテンの王――魔王ガデナーを屠ることです。魔王さえいなくなれば神樹を押さえつけている結界も消え、魔王が抑えていた他の王たちが動き出す。そうなればガルテンは自ずと分裂する。貴女の言葉ですわ、ザフトリング様」

「ふふっ、そんな怖い顔しないで。せっかく綺麗な顔が台無しよ? でもそれじゃガデナーは倒せない。それはハルトリーゲルちゃんも知っているでしょ?」

 ザフトリングはガデナーの首を抱えながら妖艶に笑う。その瞬間、ガデナーの首が黒い霧となり、風に溶けるように消えていく。同時に地面に横たわっていたガデナーの骸も霧となって消失し、ザフトリングの横にゆっくりと集まっていく。霧はいつしか人の形をとり、その中から傷一つないガデナーの姿が現れた。

「くくっ……まさか戻ってくるなりいきなり抱きつかれるとは。なかなか照れるではないか……ハルトリーゲルよ」

「ガデナー……いくらショックだからって記憶を都合よく改ざんするのやめなさい。現実をちゃんと見なきゃ」

 優雅に笑ってみせるガデナーを横目にザフトリングが小さくため息をつく。そんな二人を前に、ハルトリーゲルはゆっくりと瞳を閉じる。

 その瞬間、ハルトリーゲルの体が一瞬強く輝いたかと思うと、漏れ出した光がハルトリーゲルを中心に同心円上に地を走るように迸る。

「きゃああ!」

「くっ!」

「うっ……突然……力が……」

 周囲にはいつの間にか騒ぎを聞きつけた使用人が集まっており、その光に触れた瞬間、胸を掴んで苦しそうにその場に膝をつく。その光景を見たガデナーが慌てた様子で叫ぶ。

「ピルツ!」

「御意」

 次の瞬間、使用人たちの体が黒い霧に包まれ、その場から忽然と姿を消した。

「ピルツはノイエ・パレの中にいる者全員をここから離れさせろ! ステンペルの吸魂の力だ! 弱いものは命を喰われるぞ!」

 ガデナーの言葉にピルツは小さく頷くと、その姿は闇に溶けて消えていく。ハルトリーゲルはそんなガデナー達を黙って見つめていた。ハルトリーゲルがゆっくりと踏み出す。

 ハルトリーゲルの全身からは金色の光が漏れ出ており、踏み抜いた大地は黒く染まる。その光景を前にガデナーが苦しそうに呟いた。

「それがステンペルの本当の姿か……。いや、それ以上だ。ハルトリーゲル、やはりミステルと『同化』していたか」

 その言葉にハルトリーゲルは見るもの全てが息を飲むほどの美しい笑顔で笑ってみせた。そしてガデナーは直感的に理解した。ハルトリーゲルは泣いている。その笑顔の裏で泣いている。故にガデナーはハルトリーゲルの前に立つ。

「私はステンペル。ミステルの意思にして命を刈り取る神樹の根。ガデナー様がいかに不死に近い命を持っていたとしても、神樹の乾きに触れて生きていられる命はおりませんわ」

 ハルトリーゲルがそう言い切った瞬間、再びその体が強い光を放ち、光はゆっくりと周囲を覆っていく。その光景に今まで笑みを浮かべていたザフトリングが突然顔をしかめる。

「……まさかハルトリーゲルちゃん。ガルテンの命を全部吸い尽くすつもりなの? このままだとヴェルツまで光が届くわよ?」

「……そのつもりですわ」

「つまり無関係な人たちも殺すってこと? さすがにそれは看過しかねるわ。お遊びはガデナーとだけにしておきなさいな」

 ザフトリングがやんわりと抗議の声を上げる。そして次の瞬間、ザフトリングの眼前からハルトリーゲルの姿が消えた。

「えっ?」

 いつの間にかザフトリングの目の前にはハルトリーゲルが立っており、ハルトリーゲルの手刀がザフトリングの首めがけて振るわれた。それはハルトリーゲルの決意。自分達の身勝手でガルテンの民を殺める覚悟、そして一人でも殺してしまえば後戻りはできなくなる不退転の覚悟の表れである。ハルトリーゲルはガルテンの民の死をもって、自身の悪を完遂しようとしていた。

 強大な力を持つザフトリングをもってしても知覚できないその速度にザフトリングは内心で驚嘆の声をあげる。

「いかん! ザフト!」

 ハルトリーゲルの手刀がザフトリングの首を跳ねる直前、いつの間にかザフトリングの横に移動したガデナーがハルトリーゲルの腕を止め、同時に空いた手でザフトリングの体を放り投げる。放り投げられたザフトリングは空中で体をひねると優雅に着地する。

「ありがとう、助かったわ!」

「構わん。お前は下がっていろ。神樹と繋がったハルトリーゲルが相手ではいくらお前でも荷が重い」

 ガデナーが叫んだ瞬間、ハルトリーゲルの腕を握りしめたガデナーの腕から金色の煙が立ち上る。それを見たガデナーはためらうこと無く腕を切断した。切り落とされた腕が淡い光に包まれ、光はハルトリーゲルに吸い込まれるように消えていく。そして光に呑まれた腕は最初からそこには何もなかったかのように忽然と消滅していた。

「……さすがステンペル。こと『喰らう』ことにおいてはガデナーをも凌ぐわね」

 ザフトリングが呟くと、ハルトリーゲルの体から再び金色の光が放たれる。光は大地を疾走し、一瞬にして王宮を包み込んだ。

 光は止まらない。王宮を包み込むと、真っ直ぐにヴェルツの街に向かって広がっていく。その光に包まれたザフトリングが顔をしかめながらガデナーに語りかける。

「ガデナー……ちょっとこれは良くないわ。私達はともかく、力のない民はこのミステルの吸魂の力に抗えない。ヴェルツにいる人達が、特に人がこの光に触れたら――死ぬわ」

 ザフトリングはそういうと手を大きく振りあげる。その瞬間、巨大な炎の壁がヴェルツの街を包み込むように出現した。光は炎の壁に触れると音もなく霧散した。

「仕方ないからもうちょっとだけ付き合ってあげる。でもあまり長くは持たないわよ」

「ああ、十分だ。礼を言うぞ、ザフト。ハルトリーゲルには誰も殺させん」

 ガデナーの言葉にハルトリーゲルがゆっくりと腰に帯刀した剣を構える。

「……いざ、参ります」

「ああ……待たせたな。お前の気持ちを受け止められるのは俺をおいて他にあるまい。存分に来るがいい」

 ガデナーが言い切った瞬間、突然ハルトリーゲルの姿がその場から忽然と消えた。

「甘い!」

 残像すら残さぬ神速の踏み込みでガデナーの懐まで一気に潜り込んだハルトリーゲルが剣を大きく横に薙ぐ。ハルトリーゲルの剣がガデナーの胴を薙ぐまさにその瞬間、ガデナーがそのまま剣を握りしめた。

「なっ!」

 自身が全力で振り切った剣が受け止められたという事実に、思わずハルトリーゲルが驚愕の声をあげる。しかし振りぬかれた剣は――そのまま剣を握ったガデナーの手ごと胴体を薙いだ。

 ガデナーの上半身がそのまま崩れ落ちる。その光景にハルトリーゲルが驚いた表情で呆然と立ち尽くしており、後ろではザフトリングが腹を抱えて笑っていた。

「あーはっはっは! 『甘い』とかかっこ良く決めたのに結局斬られちゃうなんて!」

 笑っているザフトリングをよそに、ガデナーの体が黒い霧になり、瞬く間に再生していく。

「……その体、どうなっているのかは知りませんが不死という訳ではないのでしょう?」

 ハルトリーゲルは瞬時にガデナーの懐に潜り込むと、貫手でガデナーの胸を貫いた。ガデナーの口から血が溢れる。ハルトリーゲルはそのままガデナーの体を抱きしめた。

「くっ……」

「どういう仕組みかは知りませんがあなたは致命傷を受けると霧になって再生するのでしょう? ならばその生命が尽きるまで奪うまで!」

 ガデナーはハルトリーゲルに向き合うように抱きしめられており、ややもすれば仲睦まじい二人の抱擁にも見える。

 ガデナーに抱きついた瞬間、ハルトリーゲルはどこか懐かしい感覚に包まれていた。それは二度と自分には感じることの出来なかったはずの人の温もりであり、優しさである。

 思えば自分が今まさに殺そうとしている魔王は不思議な男だった。初対面のはずなのに、真っ直ぐな愛を向け、そして自分が触れても死ななかった男。首を刎ねても毒を食らわせても笑顔で微笑みかけてきた男。そしてハルトリーゲルに人の温もりを思い出させてくれた男。自分に愛を語った男。ハルトリーゲルに温かい世界をくれた男。

 自分は眼前の男を愛している。

 そんな男が今まさに自分の腕の中で死んでいく。否、自分が殺している。ミステルと同化したハルトリーゲルの吸魂の呪いは今までの比ではない。こうして直接触れればあらゆる命は瞬時にミステルに喰らい尽くされる。ハルトリーゲルの瞳から一粒の涙が零れ落ちる。

「ごめんなさい……ガデナー様。貴方は……ガルテンは何も悪く無いのです……」

「くっ……ハルトリーゲル……」

 ハルトリーゲルに抱きしめられたままガデナーが苦しそうに声を上げる。

「貴方は……ガルテンは……こんな私に人としての暖かさを教えてくれた! 何もなかった私の世界に温もりを与えてくれた! ガルテンは……決して悪などではなかった!」

 ハルトリーゲルはまるで自分に言い聞かせるように叫ぶ。

「ガデナー様……貴方の優しい心は確かにこの私に届きました。それでも……私はミステルの民なのです。ミステルの同胞全ての命を守るためならば、例え外道と言われようとも甘んじて受け入れましょう。だから……どうか、どうか私を恨んでくださいませ!」

「ぐぅ……!」

 ガデナーの体からゆっくりと青い光が立ち上る。光はハルトリーゲルに吸い込まれるように消えていき、ガデナーが苦しそうに顔をしかめる。しかしそれでもガデナーはハルトリーゲルを見つめて笑ってみせる。その光景にハルトリーゲルが吠えた。

「どうして貴方は笑っていられるのですか!? 私は貴方の、ガルテンの怨敵。理不尽を届ける厄災でしかないのに! 見ないで! 私をそんな瞳で見ないで!」

 ハルトリーゲルが苦しそうに叫ぶ。しかしガデナーは優しくハルトリーゲルに向かって微笑むと、かろうじて動く手をハルトリーゲルの背中に回す。

「あっ……」

 背中に回された手からガデナーの温もりがハルトリーゲルに伝わる。ガデナーがその気になれば、今すぐ自分を引き剥がし殺すことなど造作も無いだろう。ガデナーとは違い、ハルトリーゲルの体は脆弱な人間そのものであり、首を刎ねられればそのまま死ぬ。しかしガデナーは決してそれをしない。抵抗すらしようとしない。

 小さな灯火は冷えきっていたハルトリーゲルの心に大きな光明となって暗闇を照らす。それでもハルトリーゲルは揺らぐことはない。理不尽にガルテンを殺す、そう決心した。

 ガデナーの命を奪わねばミステルが滅びる。もはや最善も次善もない。そういう運命だったのだ。だからハルトリーゲルが生まれた。自分の存在こそが運命の象徴なのだ。故にハルトリーゲルは泣きながらも貫き通す。通さねばならない。

「貴方は……どこまで……」

「惚れた女が泣いているのだ。手を差し伸べない道理はあるまい?」

 ガデナーは優しく微笑みながらハルトリーゲルの髪を撫でる。一方のハルトリーゲルはゆっくりと瞳を閉じると小さく首を横に振る。

 深く繋がった相手を殺さねばならない。ハルトリーゲルの瞳から大粒の涙が溢れてくる。

「私は貴方の腕に抱かれていたかった! 貴方と共に温かい世界で笑っていたかった! でも! それでは神樹が! ミステルの民が死ぬのです! 私の温もりはミステルの民の死。祖国の民の屍の上で笑うことなど……私にはできない……」

 ガデナーは黙ってハルトリーゲルを見つめている。

「……ままならないものですね。私は……ただ普通に生きたかった。それでも私は……ミステルの存続のためにガルテンの命を奪わねばなりません。それが私の生きている理由。でも……私にはガルテンの人々を、あの笑顔を、あなた方の国を殺す事はできない」

 ハルトリーゲルはゆっくりと顔をあげ、真っ直ぐにガデナーを見つめる。

「……どうか、どうかここで私と共に果ててくださいませ。愛しい人」

「ハルトリーゲル……」

「貴方を殺した後……私も後を追います。それが私ができるミステルの民としての責務。そしてそれが妻として、貴方を愛した女としての責務。どうか……どうか私のわがままをお許し下さい」

 ガデナーは優しくハルトリーゲルを見つめている。ガデナーはゆっくりとハルトリーゲルの涙を拭うと笑みを浮かべてみせる。

「苦しかったのだな……ハルトリーゲル。よかろう。お前がそれを臨むのであれば俺はそれに応えよう」

「宜しいのですか……?」

 二人は抱き合ったまま見つめている。ガデナーが無言でハルトリーゲルの頬に手を当て、ゆっくりと顔を近づける。そんなガデナーを見つめてハルトリーゲルはゆっくりと瞳を閉じる。

「ん……」

 二人の唇が触れ合い、ハルトリーゲルの瞳から再び涙がこぼれ落ちる。ハルトリーゲルとて一人の少女である。ステンペルの呪いが発現するまでは英雄譚に憧れ、素敵な王子との恋愛に想いを馳せた普通の少女である。そしてステンペルの呪いが発現して以来、それが二度と叶わぬ夢となった事を知った。

 ガデナーは自分に全てをくれた。そして自分はその全てを奪って無に還す化物である。ハルトリーゲルはゆっくりとガデナーの背中に回した手に力を入れる。それに呼応するかのようにガデナーも空いた手で優しくハルトリーゲルの頭を撫でる。

 ハルトリーゲルは幸せに包まれていた。ならばせめてこの幸せの中で果てようと決めた。その瞬間、ハルトリーゲルの体が一瞬強く輝き、凄まじい力の奔流が生まれた。

 ハルトリーゲルを中心に光が溢れ、光はゆっくりと渦を巻く。渦は風を巻き込みながらその勢いを増し、いつしかハルトリーゲルを中心に暴風が吹き荒れる。

「……凄まじいですな……あれが神樹ミステルの乾きという訳ですか。老体には堪えますな」

「あら、ピルツ。戻ってきたのね。ご苦労様。でもこれ以上近づいちゃ駄目よ。あれに呑まれればさすがの私達でも無事では済まないわ」

 いつの間にか現れたピルツとザフトリングは黙ってハルトリーゲルとガデナーを見つめていた。

「ガデナー様……これで終わりですわ。次に生まれ変わるならば、叶うならば貴方の傍らで……」

 ハルトリーゲルはガデナーに体を預けてゆっくりと瞳を閉じる。

 ステンペルの力を十全に開放したハルトリーゲルは神樹ミステルの乾きそのものである。あらゆる命がハルトリーゲルに向かって流れ込んでくる。強靭な生命力を誇るガルテンの民とて今のハルトリーゲルに触れれば瞬時に命を喰われて絶命する。

 それはザフトリングの言葉にあるように、ガルテンの中でも抜きん出た力を持つザフトリングとピルツとて同様である。光の奔流の中心で、ガデナーの体を金色の光が包み込み、ゆっくりと明滅を繰り返している。あらゆる命を喰らう神樹の乾きに包み込まれて尚、ガデナーは微笑んでいた。

「……ずっと一人だったのだな、ハルトリーゲル。だがお前の孤独もここで終わりだ。お前には俺がいる。このガデナーがお前の隣にいる。仮に運命が俺達を引き離そうとも、星影を切り裂き、那由多の果てまで俺はお前を追い続けるぞ! ハルトリーゲル!」

 ガデナーはそう叫ぶとハルトリーゲルを抱きしめる手に力を込める。その言葉にハルトリーゲルは小さく呟いた。

「ありがとう……優しい私の魔王さま……」

 そしてハルトリーゲルの体が一際強く明滅する。光は次第に輝きを増し、宵の空に巨大な光の柱が立ち上る。ハルトリーゲルを中心に光柱は徐々にその大きさを増していく。そして周囲一体の全てが光に包まれた。

 光は収まり、周囲を静寂が包み込む。その中心には抱き合ったままのハルトリーゲルとガデナーの姿がある。二人の体には粉雪のように光の残滓がまとわりついており、時折吹く風に乗って光がこぼれていく。

 神樹の乾きに直接呑まれて生きている命はない。ガデナーの命がとうに失われていることを理解したハルトリーゲルは、動かないガデナーの胸に顔を埋めたまま大粒の涙を浮かべて嗚咽を繰り返す。

「ガデナー様……ハルトリーゲルも……すぐに貴方の元に参ります」

 ハルトリーゲルはガデナーから離れると動かないガデナーに向かって小さく笑みを浮かべる。そして次の瞬間、腰に挿した短剣を手に取ると自らの首元にあてる。

「愛しておりますわ……ガデナー様……。私も今から参ります」

 ハルトリーゲルが手に力を込めようとしたその瞬間、ザフトリングが口を開いた。


「もういいんじゃない?」


 突然のザフトリングの声にハルトリーゲルが顔をあげる。そんなハルトリーゲルに向かってザフトリングが微笑みながら告げる。

「ガデナーの想いは確かにハルトリーゲルちゃんに届き、ハルトリーゲルちゃんの想いもまたガデナーに届いたわ。あなた達は今この瞬間、確かに繋がった。神樹である貴女とガデナーが繋がった。だから大丈夫。もう貴女が抱える問題は無くなったの。だからもう、ハルトリーゲルちゃんが苦しむ必要はないわ」

 嬉しそうに語るザフトリングを前に、ハルトリーゲルは理解が追いつかないといった様子で訝しげに瞳を細めた。

 ――何かがおかしい。何故彼らはこうも平常心を保っていられるのか。余波とはいえ神樹の乾きに呑まれた彼らが何故こうも平気な姿でいられるのか。ハルトリーゲルの意識はゆっくりと混乱に呑まれていく。そんなハルトリーゲルの胸中をつゆ知らず、ザフトリングが続ける。

「不思議なんでしょ? 何故私達がこうして平気なのか。いくら元八大竜王だからといって、神樹の乾きに触れた私達が生きているか。だから教えてあげる。私達のことを、ガデナーの事を」

 ザフトリングが両手を広げて笑ってみせる。ザフトリングはピルツに視線を送り、それを受けてピルツが小さくうなずいた。そして次の瞬間――ピルツがザフトリングの肘から先を手刀で切り落とした。

「なっ! 何を……」

 突然の事にハルトリーゲルが思わず声をあげる。しかしハルトリーゲルは目の前の光景に再び驚嘆の声を漏らす。

「うふふ、大丈夫よ。これくらいならね」

 ザフトリングは腕を切り落とされても全く気にしない様子で笑ってみせる。その瞬間、ザフトリングの肘が青白い炎に包まれたかと思うと、まるで最初から何事もなかったかのように切り落とされたはずの肘から先に腕が生えていた。言葉を失って呆然と立ち尽くしているハルトリーゲルをよそに、ザフトリングが笑みを浮かべながら語りかける。

「ハルトリーゲルちゃんが神樹ミステルの魂から生まれた存在ならば、私達ガルテンの民はこのヴァッサーリンデンの大地深くに流れる命が地上に滲み出て生まれた存在。だから私たちは貴方たちミステルの民に比べて強靭な生命力を持っているの」

 ザフトリングは子供のように笑ってみせる。

「ハルトリーゲルちゃんたちミステルの民が神樹ミステルが大地から吸い上げた命を受け取っているのに対し、私達は直接この大地の命とつながっているのだから。この意味が分かる?」

 ハルトリーゲルは黙ってザフトリングを見つめている。ザフトリングはそんなハルトリーゲルに向かってゆっくりと歩き出す。

「その中でも特に大地と深いつながりを持った者は強大な力を宿し、いつしか王と呼ばれる存在になった。それがガルテンの八王――八大竜王と呼ばれる存在。私やピルツもかつてはそこにいたわ。ガデナーがガルテンを平定するなんて言い出すまでは」

 ザフトリングはゆっくりと手を空に向かって掲げる。それに呼応するかのように夜空に突然青白い炎が迸る。炎は空中で渦を巻き、渦はいつしか龍となる。次の瞬間、炎の竜が顎を開いてザフトリングを飲み込んだ。その光景にハルトリーゲルが小さく悲鳴を上げる。

「私はザフトリング。大地をめぐる命の煌きを司る者。青のザフトリング」

 ザフトリングを飲み込んだ炎の竜は空中で静止すると、次の瞬間、青いドレスを身に纏った美しい女性――ザフトリングの姿へと転じる。ザフトリングの体がゆっくりと地上に降りてくる。

 ハルトリーゲルが驚いた表情でザフトリングを見つめていると、夜空から降り注ぐ星影が唐突に消え去った。何事かと周囲を見渡せば、ハルトリーゲル達を包み込むように周囲に漆黒の霧が充満していた。次の瞬間、霧はゆっくりと渦を描きながらザフトリングの横に向かって収束していく。黒い霧はいつしか影となり、人の形を取る。

「私はピルツ。大地の命の循環を司る者。宵闇のピルツ」

 影の中から全身を純白の鎧に身を纏った老騎士――ピルツが現れる。驚くハルトリーゲルに向かってザフトリングが朗々と語る。

「私達は強大な力を持てど、いわば大地深くを流れる命の河が地上に漏れでた滲みにすぎないわ。しかし彼は違う。彼こそは我らが母なるヴァッサーリンデンの大地深くを流れる命の奔流そのもの。彼こそは涌泉、まさに尽きることのない命の泉そのものよ」

「それは……まさか……」

「そう。貴方の考えているとおりよ、ハルトリーゲルちゃん」

 ザフトリングが小さく指を鳴らす。その瞬間、ハルトリーゲル達を取り囲むようにその四方に青い炎が出現した。次の瞬間、炎柱から青い炎がその中央に立つガデナーの骸に向かって地をはうように迸る。四方から放たれた炎が合流し、巨大な火柱となる。火柱は周囲の風を巻き込みながら徐々にその大きさを増していく。

 不思議と熱は感じない。予感にも似た確信がハルトリーゲルの中に高まっていく。ザフトリングの声が響く。

「ガデナーこそが大地の意思、ガデナーこそが大地の命。大地の命は星の生命。だから『神樹がちょっと喰べた』ところで、その生命が尽きることなどありえないわ。故に不死。無限の命を持つ王。それこそがガデナー、私達の王なのよ」

「不死……まさかそんなことが……」

 炎はガデナーの体を包み込み、夜空を穿つ。次第に火勢は弱まり、ゆっくりと一箇所に集まっていく。ハルトリーゲルはそれが何を意味しているのか理解した。ハルトリーゲルの頬を燃え盛る炎が煌々と照らしている。そんなハルトリーゲルを見つめながらザフトリングが楽しそうに語る。

「神樹の『根』であるハルトリーゲルちゃんは神樹の為に命を喰らわなければいけない。そしてガデナーは無限に等しい命と繋がっている。そして貴方たち二人は愛し合っている。そんな二人が一緒にいるのは至極当然のことよね。この意味が分かるわね?」

 ザフトリングの言葉にハルトリーゲルの瞳がゆっくりと開かれていく。

「あああ……」

 気がつけばハルトリーゲルは嗚咽を漏らしていた。それは怒りでも悲しみでも喜びでもない、魂の昂ぶり。固く閉ざされたハルトリーゲルの心の扉が軋みながら開いていく。ガデナーを屠ると決意した時に固く閉じた心の扉。扉から溢れるのは眩いばかりの温かい世界。ハルトリーゲルがいつか夢見た遥か昔に諦めた未来。今この瞬間、ハルトリーゲルの世界が開かれていく。

 ハルトリーゲルの瞳から大粒の涙が溢れてくる。そんなハルトリーゲルを見つめながらザフトリングは美しい笑みを浮かべてはっきりと告げた。

「ハルトリーゲルちゃんはガデナーと一緒にいることで神樹を、ミステルを救える。だからハルトリーゲルちゃんはもう何も背負わなくていいの」

「あああああああ!」

 ハルトリーゲルが叫ぶ。神樹と同じく乾ききったハルトリーゲルの心が満たされていく。この瞬間、ハルトリーゲルはようやく産声を上げた。ハルトリーゲルの世界が広がっていく。

「さっ、行ってらっしゃいな」

 ザフトリングの言葉にハルトリーゲルが慌ててガデナーの方に振り返る。そして目の前の光景に思わず瞳を見開いた。

 そこには炎の中で髪をたなびかせながら不敵に笑うガルテンの王――ガデナーが立っていた。ガデナーのその美しい瞳はハルトリーゲルを真っ直ぐに見据え、優しい笑みを浮かべている。そんなガデナーの姿を前に、ハルトリーゲルの瞳から再び大粒の涙が溢れる。

 自分が殺したはずの優しい王が笑っている。


 それはハルトリーゲルのただ一つの温もり。

 それはハルトリーゲルが夢見て諦めた優しい未来。

 ハルトリーゲルは真っ直ぐにガデナーに向かって駆け出した。

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