五章:真実への階段
五章:真実への階段
「あの……先程の異形たちは一体何者なのですか? 街の人々の反応からすると別に珍しいことでもない、といった感じでしたが。このようなことは頻繁にあると?」
「あれは……」
ハルトリーゲルの言葉に一瞬ガデナーが言いよどむ。その瞬間、ザフトリングが割って入る。
「ちょっと待って。まだ終わってないみたいよ。どうやらいくつかのヌス・ミステルは街の外れに落ちたみたい」
「撃ち漏らしましたか。申し訳ない」
「いや、お前は十分やってくれた、ピルツ。ハルトリーゲルはここで待っていてくれ。残りは俺が片付けよう」
ガデナーがハルトリーゲルに向かって口早に告げるが、ハルトリーゲルは首を横に振る。
「私も連れて行って下さい」
「……駄目だ。危険だ」
しかしハルトリーゲルは譲らない。
「……私はガルテンの王、ガデナー様の妻、ハルトリーゲルですわ。自国に起きていることを知らずして王妃は名乗れませんわ。それともガデナー様は私に国も知らぬ形だけの暗愚な王妃を振る舞えとおっしゃるおつもりですか?」
「……それでも駄目だ」
「危険というのであれば、私は『ステンペル』ですわ。神樹の力をこの身に宿す私でもまだ不足と?」
二人は無言で視線を交わすと、そのまま動かない。そんな二人の様子にザフトリングが諦めたようにため息をつく。
「……ガデナー。いずれ分かることよ。いつまでも隠せるものではないわ。それにハルトリーゲルちゃんには知る権利がある」
「しかし……っ!」
「時間がないわ。ここで睨み合って民を危険に合わせる訳には行かないの」
「待て! ザフト!」
ガデナーが叫んだ瞬間、ザフトリングがゆっくりと手を空に向かって掲げた。すると突然周囲の景色が突然大きく歪み、輪郭が溶けていく。まるで水の中にいるように光は揺れ、周囲から音が消える。程なくして景色がゆっくりと輪郭を取り戻し、ハルトリーゲル達の目の前に草原が広がっていく。
*
「……なっ、なんですの! これは!?」
ハルトリーゲルは目の前の光景に思わず叫んでいた。草原の中には集落があり、いくつかの家々が点在している。本来であれば牧歌的で美しいと称される景色であるが、ハルトリーゲル達の目の間に広がる景色は少し違っていた。
「大地が……大地が黒く染まっている?」
まるで塗りつぶしたかのように、集落を含む周囲の草原が黒く染まっていた。黒く染まった大地からは煙が立ち上り、その煙に触れた草花はゆっくりと溶けていく。
その光景にハルトリーゲルが絶句していると、突然子供の悲鳴が響き渡る。
「いやあああぁぁ!」
「なっ! なにが!?」
慌ててハルトリーゲル達が振り返ると、黒く染まった家屋の影に先程見た異形たちが槍を構えて一人の少女を取り囲んでいた。異形たちは何やら聞きなれない言葉を発すると、手にした槍を少女に向かってゆっくりと構える。迫り来る異形達に向かって少女が蒼白な表情で叫ぶ。
「やだ……。いや……来ないで! 来ないでええぇ!」
その光景にザフトリングが瞳を細め、小さく指をならす。
「私達の――ガルテンの子供に何をしようとしているのかしら?」
ザフトリングがそう言うや、異形たちの周囲に幾つもの光の玉が浮かび上がる。そして次の瞬間、光は雷光となって異形たちに向かって迸る。
周囲が一瞬金色に染まり、少女達を襲おうとしていた異形たちの上半身が音もなく消し飛んた。
「こんな小さな子供を襲うなんて……相変わらず見境ないわね。食べれる命なら何でもいいのかしら」
ザフトリングの言葉と共に、異形たちの体が崩れ落ちる。
「あぁ……」
どうやら助かったと理解した少女は膝から崩れ落ち、それをガデナーが優しく抱きかかえる。ピルツが笑みをこぼし、ザフトリングも安堵の溜息をつく。
「すまんな……。どうやら撃ち漏らしがあったみたいでな、怖い思いをさせてしまった」
「まっ……まさかガデナー様? どっ、どうしてこのような所に……」
少女はガデナーに気がついたのか、恐怖と安堵と驚愕が入り混じった不思議な表情をしていた。ガデナーはそんな少女の頭を優しく撫でると、微笑みかける。
「ガルテンの民は俺の子も同じだ。子を放っておく親はいるまい?」
突然のガデナーの登場に張り詰めていた緊張から解き放たれたのか、少女は瞳に涙を浮かべ大きな声で泣き出した。ガデナーは少女を撫でながら優しく微笑んでみせる。
優しく少女を撫でるガデナーを見つめながらハルトリーゲルは小さく口元をほころばせた。あの魔王は心優しい。そして同時にそんなガデナーを魔族の王という理由だけで真っ直ぐに受け止めようとしなかった自分を恥じた。
脳裏の浮かぶのはザフトリングの言葉。自分は何も知らない。ガルテンのこと、ガデナーのこと、そして今目の前で起きていることを。ハルトリーゲルの脳裏に確信にも似た決意が刻まれる。これは自分が見極めねばならないことなのだと。
ハルトリーゲルは目の前の光景にゆっくりと瞳を細める。大地が黒く溶けている。草花は枯れ果て、黒く染まった大地はおおよそ命という命が全て腐り落ちたかのような禍々しさすら感じさせる。ハルトリーゲルはそのような所業をする存在を知らない。ミステルではない、では一体ガルテンは何と戦っているのか。故にハルトリーゲルは問いかける。否、問わねばならない。
「先程の事といい、これは……いえ、あの異形は一体何者なのですか? あなた方は一体何と戦っているのですか?」
その言葉にザフトリングが珍しく困惑の表情を浮かべる。
「えっと……困ったわね。さっきはああ言ったけど、私から言うのもちょっと……ねえ、ピルツ?」
「私から述べるのは僭越というものでございますれば、どうぞご勘弁を。それにそれを語るにはふさわしい方がおりましょう、ガデナー様?」
ハルトリーゲルが困惑した表情でピルツに向かって視線を送るが、ピルツも困った表情でガデナーに視線を送る。その態度に引っかかるものを感じたハルトリーゲルはガデナーを真っ直ぐに見つめて再び問いかける。
「ガデナー様。どうかお答え下さい。あれは一体……」
ハルトリーゲルが問いかけた瞬間、どこかに潜んでいたのか突然草むらから一体の異形がハルトリーゲルに向かって跳びかかった。
「きゃあっ!」
その異形は他のそれとは異なり、全身を青く染め、その手には光り輝く槍を持っていた。咄嗟の事にハルトリーゲルは動けない。隣では完全に虚を疲れたのか、ザフトリングとピルツが慌てた表情で何やら叫んでいるが、その声はハルトリーゲルには届かない。迫り来る槍を前にハルトリーゲルの脳裏に浮かんだのは僅かばかりの恐怖と大いなる安堵。
多くの命を散らしてきたハルトリーゲルにとって、自身の死とは安寧であり救いである。この暗く冷たい世界からハルトリーゲルが解き放たれる唯一の道でもある。ガデナーの想いを受け止めて尚、心の何処かでハルトリーゲルは終わりを求めていた。それは積み重なる罪悪感からくるものか、いつかまた自分が誰かの命を奪ってしまうかもしれないという恐怖からくるものか、それはハルトリーゲルにも分からない。
迫る槍を前にハルトリーゲルは小さく笑みを浮かべる。ピルツが必死に手を伸ばすが届かない。ハルトリーゲルはその時一瞬だけ頭の片隅で、何故ガデナーが自分に触れても平気なのか気になったが、こうなっては詮無きことと小さく口元をつり上げる。この瞬間、ハルトリーゲルは確かに死を受け入れた。
(ようやく、ようやく私は開放されるのですね……。この死に満ちた世界から……。何もない暗く冷たい世界から……。やっと……。さようならガデナー様……。私の光……)
その瞬間、ハルトリーゲルの知覚が己の限界を超えて稼働する。脳裏に浮かぶのはガデナーの笑顔。ガデナーと過ごした優しい日々。そして理解する。暗く冷たかったハルトリーゲルの世界は既になく、ガデナーと過ごした温かい世界がハルトリーゲルを満たしていた。ガデナーが自分を愛してくれている。ならば自分は死ぬ訳には行かない。ハルトリーゲルの瞳に火が灯る。
「ああああああ!」
「待て! ハルトリーゲル!」
ハルトリーゲルが無我夢中で自身に宿る神樹の力を開放しようとしたまさにその瞬間、異形の持つ槍が突然黒い霧となって消えた。一見すれば槍が煙となって消えたように見える。しかしハルトリーゲルの瞳には、自分に向かって繰り出された槍が気の遠くなるほど細かく切り刻まれて消える光景がしっかりと映っていた。
「なに……が……?」
ハルトリーゲルが驚きに瞳を見開いていると、異形の首が音もなく宙を舞った。
一瞬のことにハルトリーゲルは思わず言葉を失って呆然と立ち尽くす。
「……怪我はないか?」
いつの間にかガデナーがハルトリーゲルを守るようにその前に立っており、緊張の糸が切れたのかハルトリーゲルはそのまま膝から崩れ落ちる。
「おっと。怪我は……無いようだな。安心したぞ」
「ガデナー様……」
崩れ落ちるハルトリーゲルをガデナーが優しく抱きしめ、真っ直ぐにハルトリーゲルを見つめて微笑んで見せる。
「怖い思いをさせたな。許してくれ」
「駄目です! 私に触れては……ガデナー様が……」
「大丈夫だと毎回言っているのだが……この俺を心配してくれるのか? ハルトリーゲルは優しいのだな。お前の様なやさしい女を妻に娶れて俺は果報者だな」
ガデナーがいたずらっぽく笑い、一方のハルトリーゲルは照れているのか慌てて視線を外し小さな声で呟いた。
「助けて頂いて……その……ありがとうございます」
そんなハルトリーゲルの言葉にガデナー満足そうに破顔する。そして一変、真剣な表情で小さく頭を下げた。
「それよりもハルトリーゲルを危ない目に遭わせてしまった。申し訳ない」
「いえ……そんな……」
そんなガデナーの言葉にハルトリーゲルが慌てて首を横に振る。二人の視線が交差する。その瞬間、ザフトリングが手を叩きながら二人の間に割って入る。
「はいはい。二人共そこまでよ。ともあれヌス・ミステルの気配は無くなったわ。私達はとりあえずノイエ・パレに戻りましょう。そこのお嬢ちゃんの壊されちゃったお家は私達が責任をもって直してあげるから心配しなくていいわ」
周囲を見渡していたザフトリングが不安そうに佇んでいる少女に告げ、一方の少女は困惑した表情でガデナーを見つめている。
「大丈夫だ。お前たちは俺が必ず守ってみせる。それがガルテンの王たる俺の責務だからな」
少女の気持ちを察したようにガデナーは少女の頭を撫でながら優しく語りかけ、一方の少女は頬を染めながら小さく頷いていた。そんな二人を見ているうちに、ハルトリーゲルは不思議と口元がほころんでいくのが分かった。
そして何気なく横を向いた瞬間、ハルトリーゲルの顔から血の気が引いていく。
「まさか……ラーゼン……?」
そこには先程ガデナーによって刎ねられた異形の首ではなく、ハルトリーゲルのよく知るミステルの騎士の首が転がっていた。
*
その日の夜、夕食を終えたハルトリーゲルは一人中庭で空を見上げていた。思い出されるのは突然空から降ってきた異形たちのこと。そしてハルトリーゲルの婚儀に同行した騎士――ラーゼン。自らと共にガデナー暗殺の後に死ぬ予定だった殉国の騎士。そしてハルトリーゲルが人質となってミステルへと帰された侍従たちの一人。
ガデナーに問いかけても曖昧な返事を返すばかりで答えてもらえない。その態度にハルトリーゲルは一つの確信を得る。彼らは何かを知っており、自分はそれを知らないということを。
「空から降ってきた異形……彼らはヌス・ミステルと呼んでいましたわ。彼らが何者で、何故ガルテンを襲撃しているのか。そしてラーゼン……」
脳裏に浮かぶのはヴェルツの街に降り注いだおびただしい数の異形。それぞれが漆黒の槍を持ち、大地を腐らせる景色。まるで神樹ミステルから落ちてきたかのような異形の襲来。そして切り落とした異形の首がラーゼンに変わったというその事実。その意味を理解できぬほどハルトリーゲルは暗愚ではない。
ハルトリーゲルは自分の中に浮かび上がった一つの結論を否定するかのように大きく首を横に振る。それを認めてはいけない。それ以上考えてはいけない。ハルトリーゲルは頭の中に生まれた確信にも似た疑問を必死に振り払う。
ハルトリーゲルは逃げるように窓の外に見えるヴェルツの夜景に視線を落とす。
「……ガルテンは豊かな国。魔族と呼ばれる人々は皆優しく気の良い方ばかりですわ。彼らは決してミステルが思っているような害悪ではない……」
魔王を屠らねば多くのミステルの同胞が戦火に見舞われる。ハルトリーゲルがガデナー暗殺を受け入れたのは、それがミステルのためになると思えばこその決断であった。
しかしガルテンの王は、魔王ガデナーはハルトリーゲルの聞いているような男ではなかった。多くの民に慕われ、民を想い、そして自分を心の底から愛してくれている。何故ガデナーがハルトリーゲルがステンペルと知りつつも婚姻を承諾したのかは分からないが、ガデナーから感じる温かい気持ちは本物だと感じた。
「ミステルは……ガルテンを……ガデナー様を見誤っています……。……見誤って?」
そう呟いた瞬間、ハルトリーゲルは気がついてしまった。
ハルトリーゲルの体が小さく震えだす。何故今まで気が付かなかったのか。否、考えようともしなかったのか。唐突に思い出されるガデナーの言葉。
――ガルテンはミステルに比べて土の力が強い
ガルテンの大地は広大でミステルよりも遥かに豊かである。それが本当ならばガルテンがミステルの国を手に入れる理由がない。かといってミステルで言われていたようなガルテンが神樹を蝕んでいるという話も聞かない。つまりガルテンがミステルに刃を向ける理由がない。
その瞬間、ハルトリーゲルの中で何かが繋がった。ハルトリーゲルはそのまま部屋を抜けて、駆け足で城の外に出る。
見上げれば星影の中に浮かぶ神樹の影が見える。ハルトリーゲルは夜空を見上げて小さな声を漏らす。
「まさか……まさかそんなことが……」
ハルトリーゲルの体が震え出す。そもそもの前提が間違えていたとしたら。長らく幽閉されていたハルトリーゲルは父親の言葉でしかミステルを知らない。そして自らの目と耳でガルテンを知った。そして両者の間に生まれる齟齬。互いに交じり合わぬ現実が指し示す結論は一つ。
鼓動が大きく波打つ。呼吸は体を満たさず、思考は鉛のように重くなる。ハルトリーゲルは額に汗を浮かべながら苦しそうのその場にうずくまった。
「ハルトリーゲル……」
突然後ろから声がかけられた。ハルトリーゲルはその声の主を知っている。振り向けば優しい魔王はハルトリーゲルを抱きしめ、全ては悪い夢だったのだと耳元で囁いてくれるだろう。ハルトリーゲルはその優しい嘘に逃げたかった。しかしハルトリーゲルは向き合わねばならない。受け止めねばならない。
ハルトリーゲルは振り返らずに小さな声で呟いた。
「ガデナー様……どうかお答え下さい……」
「……」
ガデナーは答えない。ハルトリーゲルはガデナーに背を向けたまま続ける。
「ガルテンは……ミステルに対して……剣を向けたことはございますか?」
その言葉の意味する所を理解したガデナーは一瞬瞳を見開き、苦しそうに顔をしかめつつもはっきりと答えた。
「我々ガルテンが……ミステルに攻め込んだことは……ただの一度もない」
「そう……ですか……」
その言葉にハルトリーゲルは幽鬼のように立ちあがり、小さな笑い声を漏らす。
「ふふっ……ふふふ」
「ハルトリーゲル……」
ガデナーが声をかけるがハルトリーゲルは止まらない。
ハルトリーゲルは空を見上げ、大きな声で叫んだ。
「ガルテンはミステルと戦ってなどいなかった! ガルテンはミステルなど見ていなかった!」
ハルトリーゲルの瞳から止めどなく涙が溢れる。
「化物はっ! 大地を腐らせ、子供を襲い、ガルテンを脅かしている化物はっ! ……簒奪者は……私達……だった」
ハルトリーゲルはそのまま力なくしゃがみこむ。
「私は……私は一体何のために……」
ハルトリーゲルは中庭にある椅子にもたれかかるように泣き崩れた。自分は何の罪もないガルテンを、ガデナーを屠ろうとしていた。それが正義だと信じて。自分を愛してくれている人を殺そうとした。自分に微笑みかけてくれる人を殺そうとした。
「私は! 貴方を! 私を愛してくれた貴方を! 何の罪もない貴方を殺そうとした! 何も知らずにただそれが正義だと信じて! 私は……私は!」
夜の静寂にハルトリーゲルの嗚咽が響く。ハルトリーゲルは臥せったまま小さく呟いた。
「全て……全てご存知だったのでしょう? 私が何を知り、何を知らないかも、全て!」
ハルトリーゲルが泣きながら振り返る。星影が暗闇に立つガデナーを照らす。ガデナーは真っ直ぐにハルトリーゲルを見つめ、ハルトリーゲルもガデナーを見つめて視線を外さない。
ハルトリーゲルは苦しそうに顔を歪めるとガデナーに縋り付いた。
「どうしてっ! どうしておっしゃって下さらなかったのですか!」
「ハルトリーゲル……」
ガデナーは泣きじゃくるハルトリーゲルを抱きしめてゆっくりと瞳を閉じる。ハルトリーゲルは止まらない。
「ミステルは! 不浄を嫌う高潔な民ですわ! あのような大地を腐らせ、子供を狙うような化物では……決して……ないはず……ですわ。罪もない人々を襲うような……化物では……決して……」
ハルトリーゲルはガデナーの襟首を掴み嗚咽を繰り返す。ガデナーはただ黙ってハルトリーゲルを抱きしめていた。
*
ガデナーに連れられて部屋に戻ったハルトリーゲルは椅子に座ったまま黙っていた。その表情は憔悴しきっており、瞳は焦点を失って虚空を見つめている。どれくらい経っただろうか、ハルトリーゲルが突然立ち上がった。
「……父は……ミステルはガルテンを見誤っているのです。ガルテンは決して神樹に仇なす害悪などではなかった。あの異形がミステルの兵だというのであれば、私はそれを止めねばなりません。それができるのはこの私だけ。私はミステル第一皇女、ハルトリーゲル・ミステル。そしてガルテンの王妃、ハルトリーゲルでもあるのですから」
輝きを失ったハルトリーゲルの瞳に淡い光が宿る。ハルトリーゲルは壁に視線を移す。そこにはハルトリーゲルが嫁ぎ、暗殺を失敗した日にガデナーから渡された剣がかけられていた。ハルトリーゲルはゆっくりと剣を手に取ると、そっと抱きしめる。
「ガデナー様……。ハルトリーゲルのわがままをどうぞお許し下さい……。必ず……必ず戻ってまいります」
ハルトリーゲルは剣を腰に挿すと、そのまま部屋から飛び出した。ガデナーに会いたい。会って抱きしめて欲しい。抱きしめて、全ては嘘だったと言って欲しい。何も考えずにガデナーの暖かさに包まれていたかった。
あらゆる感情を振りきって、ハルトリーゲルは誰も居ない廊下を走り抜ける。ミステルに戻りガルテンへの襲撃をやめさせる。それこそがハルトリーゲルの何もなかった世界に刻める小さな証。
長い回廊に差し掛かった瞬間、目の前の暗闇が一層そお濃さを増した。その光景にハルトリーゲルは足を止め小さく息を吐く。
「……ピルツ様」
ハルトリーゲルが呟くと目の前に黒い霧が集まり、ゆっくりとピルツの姿が顕現する。ピルツはハルトリーゲルを見つめると、何かを察したかのようにゆっくりと瞳を細める。
「……行かれるのですな」
「はい……」
「このことはガデナー様には?」
ピルツの言葉にハルトリーゲルは瞳を伏せて小さく首を横に振る。それだけでハルトリーゲルの胸中を察したのかピルツが優しく微笑みかける。
「我らガルテンはハルトリーゲル様のお戻りをお待ちしております。くれぐれも無茶はなさいますな」
「ふふっ……心配して下さいますのね。大丈夫ですわ。私はガデナー様の妻。私が戻るのはあの方の元だけですわ」
ハルトリーゲルが小さく微笑めば、ピルツも笑みを返す。
「これは独り言ですが、ミステル隔壁はノイエ・パレを出て、神樹の影を前に真っ直ぐ進めばよろしいかと。デスマーターには結界が張ってありますが、ハルトリーゲル様のお力なら破ることは造作も無いでしょう。おっと、年を取ると独り言が増えていけませんな」
わざとらしく咳払いするピルツにハルトリーゲルは深々と頭を下げる。
「ピルツ様……それでは……行ってまいります……」
ハルトリーゲルが頭を下げた瞬間、突然夜空がまるで日中であるかと錯覚するほどに煌々と輝いた。
「なっ!」
ピルツとハルトリーゲルはお互い顔を見合わせると慌てて回廊を飛び出した。
「これは……」
中庭に飛び出たハルトリーゲル達は空を見上げ、目の前の光景に思わず言葉を失った。そこには夜空をうめつくさんばかりの光が尾を引きながらガルテンの大地に降り注いでいた。
「綺麗……」
幻想的な光景を前にハルトリーゲルが呆然と立ち尽くすが、それが何かを理解したのか慌ててピルツを振り返る。
「まさかあれはっ!」
「ヌス・ミステルだ。まさかあれほどの数で来るとは、今までなかったことだがな」
突然二人の後ろから声が響く。その聞き慣れた声に慌ててハルトリーゲルが振り返る。
「ガデナー……様……」
そこにはいつの間にかガデナーとザフトリングが立っており、突然の二人の登場にハルトリーゲルは動揺した表情を浮かべる。しかしハルトリーゲルは受け止めねばならない。受け止めて、それでも先に行くと決めたのだ。
「あれらは全て昼間の異形――ミステルの兵なのですね?」
「……そうだ」
ガデナーの瞳は真っ直ぐにハルトリーゲルを見つめ、ハルトリーゲルもまたその視線を受け止める。ハルトリーゲルは小さく頷くとガデナー達に背を向ける。
「行くのか? ハルトリーゲルよ」
「……ガデナー様は、私をお止めしますか?」
背を向けるハルトリーゲルに対し、ガデナーは小さく首を横に振る。
「お前にはお前の戦いがある……。お前の信じた道を行くがいい」
その言葉に、ハルトリーゲルはゆっくりと振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「はい……。私はガルテンのハルトリーゲル。私の戻る場所は貴方の――ガデナー様の腕の中と決めていますの。ですから、私が戻るその時まで、ガデナー様はどうかガルテンの人々をお守り下さい。私は私のやるべきことを果たして参ります。見事やり遂げたら……その時はまた優しく抱きしめてくださいませ」
ハルトリーゲルはそう言うや全身に金色の光を纏い、忽然とその場から消えた。
ハルトリーゲルが金色の光となって夜の闇を駆け抜ける。その姿を見つめていたザフトリングが小さく息を吐く。
「……やっぱりこうなっちゃったわね。それじゃ、ハルトリーゲルちゃんが戻ってくるまで私達も頑張りましょうか。どうやらあちらも今回は本気みたいだし」
「そのようですな。あの光から察するにおそらく今までのヌス・ミステルではないでしょう。今回に限っては数も桁違いですし、これは骨が折れそうですな」
ザフトリングとピルツが空を見上げてゆっくりと瞳を細めていく。
「……ザフトリング、ピルツ」
ガデナーが小さく呟いた。その瞬間、ガデナーの纏う気配が変わる。そこには今までのガデナーの顔は無く、射抜くような赤い瞳を輝かせた凛々しい青年の姿があった。その体から発せられる気配は周囲全てを押す潰すほどに重く、研ぎ澄まされた剣呑な空気がゆっくりと充満していく。
空気が変わったことを感じ取ったザフトリングは驚いた表情で振り返り、ガデナーを見つめて嬉しそうに口元を綻ばせる。
「あら? 貴方の本気になった姿を見るのは久しぶりね。やっとやる気になった?」
「若……」
嬉しそうな笑みを浮かべる二人を前に、ガデナーは瞳を細めてはっきりと告げた。
「『青』のザフトリング、『宵』のピルツ。お前たちはヴェルツの外の民を守れ。俺はヴェルツに来る奴らを相手にする。ハルトリーゲルが戻るまで、ガルテンの草木一本に至るまで、その全てを守れ。できるな?」
「了解したわ……我が主」
「委細承知」
ガデナーの言葉にピルツとザフトリングが跪き、二人の姿が夜の闇に溶けて消えていく。ガデナーは赤く輝く瞳で夜空を見上げ、神樹ミステルの影を睨みながら告げた。
「神樹ミステルよ……貴様にハルトリーゲルを縛らせはせんぞ」