一章:暗殺者の姫
一章:暗殺者の姫
大陸の遥か東方の海に浮かぶ閉ざされた大地、ヴァサーリンデン。何人をも寄せ付けぬ霧に覆われたその大地は多くの神秘を抱えていると伝えられている。
その中心には神樹ミステルと呼ばれる樹と呼ぶには巨大過ぎる一本の神木が存在する。雲まで届くその幹には浄域とされ、地上との関わりを絶った国――ミステル皇国が広がっている。神樹ミステルの足元に広がる大地にはその身に魔を宿す者達がひしめく混沌の国――ガルテンが存在する。
ミステルとガルテン、この二国の間で繰り返される戦いの歴史は、戦乱が始まる前の平穏な日々を伝承の彼方へと追いやって久しい。気の遠くなるほどの時間を経て尚、お互いは戦い続けた。しかしその天秤はガルテンに突如現れた魔王――ガデナーの存在によって傾こうとしていた。
魔王ガデナーは今までまとまっていなかった各地の魔族の王たちを瞬く間にまとめあげ、強大な一つの国家としてまとめあげた。ただでさえ強大な力を持つ魔族がより大きな力を持った。
その事実はミステルの未来を奪ったかに見えた。そんな中、生き残りをかけたミステルの手はミステルの皇女、ハルトリーゲルをガルテンに差し出すことであった。そしていよいよハルトリーゲルがガルテンに嫁ぐ日が訪れた。
ガルテンの王都、ヴェルツにある王宮ノイエ・パレの一室で一人の美しい青年が大きな椅子に座りながら窓の外を眺めていた。部屋の中には豪華な意匠が施され、差し込む陽光が壁に埋め込まれた宝石に反射して幻想的な輝きを放っている。尖った耳が青年が人とは違う魔族であることを雄弁に物語っていた。青年の長い黒髪は光を受けて淡い輝きを宿し、鳶色の瞳は大きく見開かれる。
「ようやく来たか……」
青年は満足そうに頷くと窓の外に視線を送る。外から絶え間なく聞こえてくる歓声が室内に小さく響き、青年はゆっくりと立ち上がる。青年は興奮していた。長い間、ずっと欲しかった物がついに手に入る。
青年は子供のように笑う。
「ついに……ついに手に入れたぞ! ミステルの姫、ハルトリーゲルよ! この日を、この瞬間をどれだけ待ちわびたことか! ははっ……ははは! ははははっ!」
青年は窓の外を見つめながら大きく笑う。
「あらあら、ガデナーったらはしゃいじゃって。とても魔族を統べる王には見えないわね。あの子との結婚がそんなに待ちきれなかったの?」
いつの間にか燃えるような赤い髪の女性が部屋の隅にあった椅子に腰掛けており、口元を吊り上げながら楽しそうに青年に語りかける。一方のガデナーと呼ばれた青年は突然の女性の登場に驚く様子はなく、窓の外を見つめながら嬉しそうに語る。
「ザフトリングか……。なに、たまたま気に入った女が敵国の姫だっただけのことだ。利用できるものは何でも利用させてもらう。それが我々魔族の在り方だろう? 違うか?」
「ふふっ……私にまで照れ隠しをしなくてもいいのに。こうまで婚姻を急いだということは、それだけはやくあの子に会いたかったんでしょ? 急がなくてもミステルがハルトリーゲル姫を休戦協定のために差し出すって言ってたのに」
ザフトリングと呼ばれた女性はガデナーの言葉に楽しそうに口元を釣り上げる。
「俺は堪え性が無くてな、欲しいものは何でも手に入れる。俺はそれまでもそうしてきたし、これからもそれは変わらん。俺の前に道はなく、俺の後にこそ道がある。それこそが俺の、魔王の在り方だ」
「……素直じゃないわね。まあいいわ、そういうことにしておいてあげる。でもここまで来たんだからしっかりやりなさいよ? この婚姻はガルテンとミステル両国の未来がかかっているんだから。うまく行けばミステルとの戦いは終わり、このヴァッサーリンデンの地にようやく平和が訪れるんだから」
「ふん……だといいがな」
ガデナーが小さく呟いた瞬間、重厚な扉が軋みながらゆっくりと開き、純白の甲冑に身を包んだ初老の騎士が入ってくる。
「ガデナー様……と、これは宰相殿もおいででしたか。式典がまもなく始まりますれば、どうぞ準備の程を……」
「ピルツか……分かった。ここで姫を待つのも一興だが、どうにも待ちきれなくてな」
ピルツと呼ばれた男の言葉にガデナーは小さく微笑むと、部屋の外にあるテラスに向かう。
「ガデナー様万歳! ガルデン王国万歳!」
テラスに近づくに連れて、外から聞こえてくる歓声が大きくなる。そしてガデナーがテラスに出た瞬間、更に割れんばかりの歓声が沸き起こった。その声にガデナーは口元をほころばせ、観衆に向かって優雅に手をふる。
観衆に埋め尽くされた広場には一本の道が敷かれており、その先から多くの兵士が列をなして近づいてくるのが見える。その隊列の中心には一際豪華な馬車が見え、飾り付けられた鎧を身にまとった騎士たちがその横に並んでいる。
テラスからその光景を眺めていたガデナーは待ちきれない様子で観衆に気が付かれないよう忙しなく足を揺らし、組んだ腕の指先は忙しなく拍子を刻み出す。
「どうやら到着したようですな。しかしガデナー様……本当に人間を、しかも敵国であるミステルの姫を娶る(めと)るとは。この日を迎えたこと、このピルツ万感の思いでございます」
ガデナーの後ろに控えていたピルツが小声で呟き、それに対してガデナーは小さく笑いながら答える。
「知らなかったのか? 俺は欲しいものは必ず手に入れる。それにこの婚姻は俺だけのためのものではない。これを機にあのミステルを黙らせることができれば我らガルテンの利も大きい。違うか?」
「ガデナー様の仰りたいことは承知しております。ならばこのピルツ、もはや何も申しませぬ。どうぞ本懐をお遂げになってください」
突然歓声が一際大きくなった。ガデナーが視線を落とせば、一大の馬車がちょうど広場に差し掛かっている所であった。
「……ようやく来たか。この日を待ちわびたぞ、麗しの姫よ。ああ……長かった。俺の夢、そして俺の願い。その全てが、今ここに……叶う!」
ガデナーは口元に笑みをたたえたままテラスの柵に手をかけると、そのまま眼下の広場に向かって飛び降りた。
「はっはー!!」
ガデナーの立っている王宮のテラスから広場まではゆうに民家数軒分の高さはある。全身で風を受けたガデナーは子供の様に笑いながらそのまま落下する。あわや地面に衝突する直前、ガデナーの体はまるで自重を失ったかの様にその落下の速度を緩めていく。
ガデナーの長い黒髪が風になびき、まるで鳥の羽のようにゆっくりと馬車目の前に舞い降りた。突然空から降ってきたガデナーを前に観衆は思わず言葉を失い、次の瞬間、割れる様な歓声が響き渡る。
「見たか、今の? 流石ガデナー様だ」
「ああ……ガデナー様、素敵」
「鳥族でもないのにあんなに優雅に空を舞われるとは……さすが当代随一と呼ばれたガルデンの王じゃ」
観衆から思わず漏れる感嘆の声にガデナーは笑顔で手を振り、それを見た観衆は熱を帯びて一層沸き上がる。馬車の従者達は、突然空から降りて来たガデナーを警戒している様子で剣を構える。一方のガデナーはそんな馬車の一行に向かって笑みをこぼす。
「待ちわびたぞ、姫。そなたが王宮にあがるのを待ちきれなかった」
突然のガデナーの来訪に馬車の護衛と思しき騎士達が怪訝な表情を浮かべるが、どうやらそれがガデナーと気がついたらしく慌てて剣を収め、困惑した表情でお互い見つめ合う。そのとき、馬車の中から凛とした声が響いた。
「どうかなさいましたか?」
騎士達が言いよどみながら答える。
「そ……それが。突然ガデナー様がお越しになりまして……」
その言葉に馬車の中から漂って来る気配が瞬時に変わる。それを察知したのか騎士達の間に小さな緊張が走る。緊張は瞬く間に広がり、周囲で騒いでいた観衆たちも無言で馬車とガデナーを見つめている。周囲に静寂が広がっていく。
馬車の扉がゆっくりと開かれる。その光景に思わずガデナーが感嘆の声を漏らす。
「ほう……」
開かれた馬車の扉からゆっくりと一人の少女が姿を表した。
美しい――その少女を見た者すべてが同じ感想を抱いた。
まず最初に目につくのは陽光を纏って金色に輝いている美しい髪である。少女が身につけている蒼穹を髣髴とさせる青いドレスが少女の腰まで伸ばされた髪を一層際立たせていた。細く引き締まった四肢は成熟した女性のそれであるが、その面影にはどこか子供らしさを感じる。
凛と立つその姿はまさに王家の息女に相応しい風格を備えており、その瞳はどこまでも真っ直ぐにガデナーを見つめていた。観衆たちはその一挙手一投足に瞳を奪われ、ただ呆然とその少女――ミステル皇国が王女、ハルトリーゲルを見つめていた。
ハルトリーゲルは馬車の前に立つガデナーを一瞥すると優雅に微笑み、ドレスの袖を持って小さく礼をする。
「まさかガデナー様直々にお越しとは。噂に違わぬ情熱的な方のようですね」
「突然の無礼を許せ。そなたの乗った馬車を目の当たりにしたらいても立ってもいられなくてな」
「まぁ、嬉しい事を言ってくださいますのね。それではエスコートをお願いしても?」
「ああ! 無論だ」
ガデナーとハルトリーゲルは一瞬視線を交えるとお互い小さく笑みをこぼし、ゆっくりとハルトリーゲルが手を伸ばす。その手には美しい刺繍が施された青い手袋がはめられている。一方のガデナーには黄土色の手袋がはめられ、散りばめられた宝石が陽光を浴びてきらきらと反射していた。
二人は手を取り合いながら馬車を置き去りにして王宮へと歩き出す。その後ろを騎士達が緊張した面持ちで追いかけ、周囲の観衆達はそんな二人の姿を前に割れんばかりの歓声を送る。
「おい、見たかよ、今の! あれが例のお姫様か、すげえな!」
「さすがガデナー様が見初めた姫。気品があるわね。ちょっと妬けちゃうわ」
「あら? どうせ政略結婚なんだし、愛人の座でも狙えばいいじゃない?」
「馬鹿言え、お前ごときをガデナー様が相手にする訳ないだろう。しかし、あの姫、どうしてなかなか美人じゃないか。人間にしておくのが惜しい」
観衆たちは王宮に向かって歩いている二人の背中を見つめながら思い想いの言葉を呟く。広場に渦巻く熱気は更に高まり、熱烈な声援が二人に降り注ぐ。その瞬間、突然空に巨大な魔方陣が浮かびあがった。
「なっ、なんだ?」
何事かと観衆達が空を見上げると、まるで流れ星の様に光が王宮に向かって降り注ぐ。すると今度は王宮の背後から光が立ち上り、放射状に広がり流星と交差する。光を宿した魔力の残滓が虚空に光の尾を刻み、ゆっくりと風と共に消えていく。空からは絶え間なく光の雨が降り注ぎ、王宮は幻想的な光に包まれる。その光景にハルトリーゲルが思わず足を止める。
「素敵ですわね……」
「気に入ってくれたか。部下の一人がえらく張り切ってな、俺も実際この目で見るのは初めてだが、悪く無いな。後で礼を言わねばなるまい」
「ええ。本当に。美しいですわ」
ハルトリーゲルは満面の笑みを浮かべていた。
王宮の両脇にそびえる塔の一室――式典の為に用意されたその部屋はさながら戦場の様相を呈していた。部屋の中では多くの侍女たちが忙しなく動いており、その傍らでは書類を抱えた官史と思しき女性がひっきりなしに周囲の侍女に指示を飛ばしている。
その部屋の中央に置かれた豪華な椅子にもたれ掛かかり、周囲の様子を微笑みながら眺めているのは、今日の式典の主役である齢十七歳の少女――ハルトリーゲルである。
「ハルトリーゲル様。良くお似合いですよ」
ミステルより同行したと思しき侍女達が手袋を身につけて、ハルトリーゲルに触れないように細心の注意を払いながら髪を整えていく。緊張のためか、その手は小さく震えている。そんな侍女の様子にハルトリーゲルは申し訳無さそうに瞳を伏せる。
「ありがとう。わざわざあなた方にここまで付き合わせてしまい、本当に申し訳ありません。なんと言ったらいいのか」
「いいのです。これは姫様への、私達ミステルの民からのせめてもの気持ちですから」
うつむき加減で呟くハルトリーゲルに向かって侍女たちが一斉に笑顔で微笑んでみせる。そんな侍女達の様子に、ハルトリーゲルは小さく体を震わせる。その美しい鳶色の瞳に涙が浮かぶ。
「ありがとう。あなた方の気持ちは確かに受け取りました。それだけで私の心は温かい気持ちで満たされます」
「姫様……」
その言葉に周囲を忙しなく奔走していた侍女達が足を止め、いずれも瞳に涙をたたえてハルトリーゲルを見つめる。それを見たハルトリーゲルは優しく微笑むと、鏡に映るドレスを着込んだ自分の姿を見つめて朗らかに笑う。
「思えば私はこの日の為に生きて来た様に思えます。何一つ皇女らしいことをできなかった私ですが、最後の最後でこうしてミステルの役に立てるのです。今日ほど喜ばしい日はありませんわ。幼い頃からの夢がようやく叶おうとしているのですから」
「うっ……うぅ。姫様……」
「どうか泣かないで下さい。これがミステルの王女としての最後の公務となりますが、ミステルの誇りにかけて私はやり遂げねばなりません。あなた方にはもう少しだけお付き合いいただきます。よろしいですね?」
「はい……」
ハルトリーゲルの言葉に侍女が涙を吹きながら小さく頷く。それを見たハルトリーゲルは満足そうに頷くと、はっきりと響く声で周囲に告げる。
「それでは、そろそろ参りましょうか。ミステル皇国の第一皇女、ハルトリーゲル・ミステルの晴れ舞台ですわ」
そう言うとハルトリーゲルはゆっくりと椅子から立ち上がり、その後ろに女官と侍女達が続く。部屋の外には先ほど馬車を引率していた騎士達が並び、ハルトリーゲルの姿を見るや真剣な表情になり、深々と頭を下げる。
「私が言えたことではないのですが……あなた方ももう少しの間ですが、どうかお付き合いお願いしますね」
「はっ! 我らが命と誇りにかけて、必ずや!」
騎士達は短い返答と共にハルトリーゲルの後ろに整列し、一行はゆっくりと敷き詰められた絨毯を進む。緊張しているのか、一歩、また一歩と奥へ進むに連れてハルトリーゲルの鼓動が早くなる。
赤い絨毯は長い廊下を経て中庭に続いており、中庭への出口が近づくに連れて絨毯の先から溢れて来る光が眩しくハルトリーゲルの体を包みこむ。その瞬間、思わずハルトリーゲルの足が止まる。
ここを踏み出せば全てが変わる。ミステル皇女として今まで自分が生きてきた意味。そんな自分の命の使い道。その全ての答えこの先にある。ハルトリーゲルは緊張気味に唾を飲み込むと、そのまま大きく光の中へと踏み出した。
「ついに……ついにこの日が来たか。どれだけ私がこの日を待ち詫びた事か」
広い部屋で漆黒の衣装を身にまとったガデナーが小さく笑う。その背後にはピルツが控えており、その横では侍女達が忙しなく動いていた。
「まさか若がついにここまで来られるとは……お見事としか言いようがありませぬ。じいは……このピルツは嬉しゅうございます」
「ああ……そうだな。ついに姫が手に入る。俺の全てはこの瞬間の為にあったといっても過言ではあるまい。ついに……ついに俺はハルトリーゲルを手に入れた!」
ガデナーの言葉にピルツは嬉しそうに口元を綻ばせる。
「しかしいくら慣例とはいえ、婚儀を非公開の中庭で行なわねばならぬのが残念ですな。せっかくの若の晴れ姿を民に見せられぬとは」
「それは仕方あるまい。俺とて殘念に思うが、始祖から続くしきたりを疎かにはできぬ。その代わりに後で派手に式典を執り行なうのだろう? 民は納得してくれるだろうさ」
ガデナーは口元を綻ばせ窓の外をに視線を移す。すると部屋の扉が叩かれる音が響く。
「そろそろ頃合いですかな」
ピルツが扉を開けると、そこにはハルトリーゲル付きの女官がうやうやしく頭を垂れて佇んでいた。
「ほう? 其方は確か姫に付いている女官殿であったな。ということは……」
「はい。ハルトリーゲル様及び、我らミステルの準備は整って御座います」
「そうか、ご苦労であった。ならば我々も参りましょうか。若」
ピルツの言葉を受けてガデナーが嬉しそうに微笑み、そして大きな声で周囲に告げる。
「さて、姫がお待ちかねだ。皆の者、行くぞ! 鐘を鳴らせ! 魔王の妻を迎え入れようではないか!」
ガデナ-がそう語った瞬間、突然王宮内に楽器の音が鳴り響く。ガデナーはその様子に満足そうに瞳を細めると、ゆっくりと扉を開き、長い絨毯をゆっくりと進む。
しばらく廊下を進んだガデナー達の視線の先に、自分に向かって歩いてくるハルトリーゲルの姿が映る。
一瞬二人の視線が交差する。ハルトリーゲルが一歩進めばガデナーも一歩進む。二人の距離が徐々に近くなる。二人はそのまま真っ直ぐに回廊を進み、とある大きな扉の前で立ち止まる。二人はお互いの息遣いが聞こえる距離まで近づいており、お互いの瞳を見つめて視線を離さない。
「この瞬間を待ちかねたぞ、麗しの姫よ。そなたは俺の幾星霜にも及ぶ夢想の果てに辿り着いた夢だ。ついに手に入れた。俺だけの花よ」
「これで……ガルテンとミステルの戦は終わるのですね? 長い、果てしない戦乱の日々がようやく……」
「願おうではないか。新しい時代の幕開けであると」
二人は小さく頷くと目の前の扉に向き直る。扉はわずかばかり開かれており、隙間からまばゆいばかりの光が漏れている。ガデナーとハルトリーゲルはゆっくりと扉を開き、そして二人の姿は光の中に消えていった。
光を抜けた二人は中庭に設けられた祭壇の前に立っていた。その脇にはピルツを先頭に漆黒の甲冑に身を包んだ多くの騎士達が、ガデナー達を挟んで反対側にはハルトリーゲルの付き添いの騎士達が整列している。
中庭の中心には神官と思しき男性が立っており、二人の姿を認めると両手を開いて大きく告げる。
「それでは、ミステルが第一皇女、ハルトリーゲルとガルテン王、ガデナーの婚儀を執り行なう。両者前へ」
祭祀がそう告げた瞬間、周囲を包む空気が一瞬にして変わる。空一面に広がっていた蒼穹は一瞬にして星空に変わり、二人に向かって星影が降り注ぐ。銀色の光が波のように空を漂い、寄せては引いていく光の波に一瞬ハルトリーゲルが言葉を忘れて空を見上げる。
その光景にガデナーは小さく笑みを浮かべると、ゆっくりとその身に宿る力を開放していく。目に見えるほどの濃厚な魔力がガデナーの体から放出され、周囲を取り囲む銀色の光に溶け込んでいく。
「これは……?」
「これは、我がガルテンに積み上げられた先達達の想い、命そのものだ。俺はこれに自らの魂の一部を捧げ、国をまとめる義務を背負う。お前と共にな」
不思議そうに問いかけるハルトリーゲルにガデナーが微笑みながら答える。
「……命」
「どうした!?」
心配そうに覗き込むガデナーに対して、ハルトリーゲルは首を小さく横に振りながら力なく微笑む。
「いいえ……何でもありません」
「そうか」
ガデナーは心配そうにハルトリーゲルを見つめ、一方のハルトリーゲルは満面の笑みを浮かべてみせる。二人はそのまま神官の言葉に耳を傾け、儀式は順当に進んでいく。
「それでは両者、誓いの接吻を」
その言葉に一瞬ハルトリーゲルの体が小さく震える。そんなハルトリーゲルの様子にガデナーが優しい瞳で語りかける。
「いよいよだな……。姫におかれてはこの婚儀にしても思う所はいろいろあるだろう。戦争終結のため、多くの民草の安寧のためと考えて俺の婚礼の申し出を受けたのかもしれぬ。だが安心して欲しい。俺は、ガルテンのガデナーは決して姫を裏切らぬ。俺は俺の全てをかけて姫を――ハルトリーゲルを守ると約束しよう」
その言葉に一瞬ハルトリーゲルが驚いた表情を浮かべ、次の瞬間恥ずかしそうにうつむいてしまう。
「ガデナー様……その……私、接吻の経験がありませんの。どうしたらよいのか……」
ハルトリーゲルは恥ずかしいのか、耳を赤く染めながら困った表情でガデナーを見つめている。力なく微笑むハルトリーゲルを前に、ガデナーは笑みを浮かべながらその耳元で小さく囁く。
「なあに、形だけだ。目を瞑っていればいい」
すると緊張しているのか震えた声でハルトリーゲルが呟き返す。
「見られると思うと存外恥ずかしいものですね。代わりに……ガデナー様が目を瞑って頂けませんか……?」
俯きながらも視線だけガデナーを見上げて呟くハルトリーゲルに、ガデナーは小さく微笑むとゆっくりと首を縦に振る。
「ははっ。姫は恥ずかしがり屋でいらっしゃる……。見られるというのは確かに恥ずかしいな。これで満足かな、姫よ。俺も恥ずかしいのでな、優しく頼むぞ」
「まぁ……ガデナー様ったら」
ガデナーはそういうとゆっくりと瞳を閉じ、ハルトリーゲルは何かを決意したかの様に小さく喉を鳴らし、ゆっくりとその顔を近づけていく。そして二人の唇が触れようとしたまさにその瞬間、ガデナーの口からくぐもった声が漏れる。
「かはっ……」
ハルトリーゲルの手には一本の金色に輝く短剣が握られており、その切っ先はガデナーの胸に深々と突き刺さっていた。次の瞬間、ハルトリーゲルの全身が金色の輝きを宿す。
その場にいた者は何が起きたのか理解できない様子で、呆然と二人を見つめていた。一瞬の静寂が中庭を包み込み、我に返ったピルツが叫ぶ。
「なっ! あれはミステルの技!! くそっ! 即刻あの女を止めろ! ガデナー様をお守りしろ!」
ピルツが叫ぶがハルトリーゲルは止まらない。その体が金色の光を宿したと思うと、その光は両手に集束し始める。苦悶の表情を浮かべたガデナーの瞳に映ったのは、金色の髪を風になびかせて、眩いばかりの光を宿す手刀を繰り出すハルトリーゲルの姿であった。
そして次の瞬間――ガデナーの首が音も無く切断された。
頭を失ったガデナーの体から血飛沫が舞い散り、周囲に文字通り血の雨が降り注ぐ。ハルトリーゲルの美しかった金髪は返り血で赤く染まり、その表情からは何の感情も読み取れない。
ピルツの命を受けた兵士達がハルトリーゲルを取り囲み、油断無く武器を構えて徐々にその包囲を狭くする。一方のハルトリーゲルはそれに全く興味を示すことはなく、ガデナーの死体を前にただ呆然と佇んでいた。
ハルトリーゲルがふと首を振れば、そこにはガルテンの兵士達に囲まれている従者と騎士達の姿が映る。しかし彼らの瞳に恐怖は無い。その場にいる全員が死を当然の如く受け止めているかのように落ち着いている。その様子にピルツが忌々しそうに吐き捨てる。
「くそっ! ミステルはガデナー様を亡き者にする為にまさか自国の王女までをも捨て駒に使うとは! 外道どもが!」
一方のハルトリーゲルはゆっくりと瞳を閉じると、天を仰いで小さく呟いた。
「これで……私の目的は果たされました。ならば私の役目はこれで終わり。この命ももはや不要ですわ」
その言葉を聞いたピルツが忌々しそうに舌を打つと、部下達に大声で告げる。
「此奴等を捕らえろ! 抵抗するようなら姫以外は殺しても構わん!」
その言葉に兵士達が小さく頷き、広場にいた侍従達を次々と拘束していく。その光景にハルトリーゲルが一瞬何かを言おうと咄嗟に手を伸ばすが、槍に阻まれて動けない。ピルツがゆっくりとハルトリーゲルの下に歩み寄り、瞳に憎悪にも似た冷淡な光を宿しながらはっきりと語りかける。
「……さて、それでは来て頂こうか。侍従の命が惜しければくれぐれもおかしな気は起こさぬ事だ」
その言葉にハルトリーゲルはただ小さく首を縦に振るのみであった。
*
「これで……全てが終わるのですね。いえ、終われるのですね。私の悪夢のような命が……ようやく……」
獄中でハルトリーゲルが目を瞑って小さく呟く。黒く冷たい鉄格子から差し込む光は無く、ハルトリーゲルを暗闇が包む。周囲を見渡しても侍従達の姿は無く、先程から魔力を練る事ができないことから、どうやら自分だけが違う場所に投獄されたのだと言う事に気がついた。
ハルトリーゲルは小さく笑みを浮かべる。
「これでミステルとガルテンの戦いも終わる……。私は信託の『ステンペル』。呪われた子。そんな私の生きてきた意味が敵国の王の暗殺とは……情緒に欠ける幕引きですが、それも仕方がありませんわね。いえ、これが私の罰なのでしょう……」
ハルトリーゲルは自嘲気味に呟くと、長い髪をまさぐると何かを取り出した。
「女性の体をろくに調べずに投獄するという時点で甘いですわね。女には秘密が多いというのに」
その手には髪飾りが握られており、それを見つめながらハルトリーゲルは小さく呟く。
「私が死んでも誰も悲しまない。お父様とお母様はむしろ安心するでしょう。忌み嫌われた存在である私が消えるのですから。それでも死ぬ前に一度くらい人の温もりとやらを感じてみたかったのですが、どうやらそれも叶いそうにありませんね。もっともここにいなくとも、私が人肌を感じることは不可能な訳ですが……」
ハルトリーゲルは髪飾りを眺めた後、苦笑しながら自嘲気味に小さく首を横に振る。
「ふふっ……まさか最初で最後の両親からの贈り物で私の生涯が終わるというのも皮肉なものですわね。ですが、それでこそ私にふさわしい」
ハルトリーゲルの瞳から涙がこみ上げてくる。ハルトリーゲルは既に死を受け入れており、そこに躊躇いや未練はない。しかし、それでも気がつけばハルトリーゲルは泣いていた。自分でも理解しえぬ感情の高まりにハルトリーゲルは力強く首を横に振り、はっきりと呟く。
「私の世界は苦しくて寂しかったけれど、願わくばミステルの民に平和な世界が訪れますように。私では届かなかった優しい日々が彼らに訪れますように。さようなら……お父様、お母様。そしてお別れですわ! 私の世界!」
ハルトリーゲルはそう言うや、両手で髪飾りを逆手に構えて大きく振りかぶる。髪飾りがハルトリーゲルの喉に向かって振り下ろされたその瞬間、周囲に低い声が響き渡る。
「ほう……やはり死を覚悟していたか。国の為に、誰かの為に死を厭わぬか。やはり強い女だな、我が麗しのハルトリーゲルよ」
「なっ……!」
突然響いた声にハルトリーゲルの体が震える。ハルトリーゲルはその声を知っている。聞き間違えるはずがない。自らが殺した男の声である。
ハルトリーゲルはひどく動揺した様子で慌てて声のする方向を振り返る。しかし牢獄がある地下に灯りは無く、ただ暗闇が広がっているだけで何も見えない。そして再び声が響く。
「これは気が利かなかったな。こうも暗くては人間である姫には見えんか」
どこかで指を鳴らす音が響き、それに呼応するかのように地下に明かりが灯る。影がゆっくりと通路の奥からハルトリーゲルに向かって近づいてくる。その影を見つめてハルトリーゲルがその表情を驚愕に染める。
「何故……あなたが。……何故……貴方が生きていますの! 貴方の首はこの私が確かに刎ねたはずですわ! まさか婚姻の場に影武者を!?」
「……いきなりご挨拶だな、姫よ。だが安心するがいい。俺は自分の婚儀に影武者を建てるほど無粋な男ではない。あの場に、お前の横に立っていたのは紛れも無い、この魔王ガデナーだ。だがまさか首を刎ねられるとは夢想だにしなかったがな」
ガデナーの言葉にハルトリーゲルが思わず声を荒げる。
「ありえませんわ! いくら貴方が力ある魔族とはいえ、首を刎ねられて生きていられるはずが……」
動揺した様子で語気を強めるハルトリーゲルに対して、声の主――ガデナーは笑みを浮かべながら楽しそうに語る。
「くくくっ……。確かに姫の牙は俺に届いた。だがあいにく俺はこうしてここにいるぞ。さて、どうする? 勇敢なる姫よ?」
ガデナーの言葉に幾分か冷静さを取り戻したハルトリーゲルは、手に持つ髪飾りに目を落とし、消え入りそうな声で小さく呟いた。
「仮に貴方が何者であろうと、私は貴方の暗殺に失敗しました。もう……私に依るべき未来はありません。……どうぞ殺しなさい」
ハルトリーゲルの肩は小さく震えており、時折嗚咽が混じる。どうやら悔しいのだろう、ハルトリーゲルの噛み締めた口元には血が滲んでいる。そんなハルトリーゲルを前に、ガデナーは小さく口元を釣り上げると突然大きく笑い出す。
「悔しいか? 俺はこうして生きており、そして姫は何も成せずに死んでいく。このまま惨めに死んでいく自分が許せんか?」
その言葉に思わずハルトリーゲルの震えが止まる。そして射殺さんばかりの鋭い視線でガデナーを睨みつける。一方のガデナーはそんなハルトリーゲルの視線をあざ笑うかのようにゆっくりと口元をつり上げる。
「興が湧いた。勇敢にして無謀な姫よ。その命を燃やすべき魂の糧がまだお前の中に残っているのであれば、この私を殺してみせろ」
「何を言って……」
「もっとも姫には選択の余地は無いがな。姫と共に死を覚悟してここまでやってきた忠臣達を無駄死にさせたくはあるまい? 安心しろ。奴らはまだ生きている」
その言葉にハルトリーゲルの瞳に炎が宿る。
「あっ……貴方という人は!」
ハルトリーゲルがむき出しの敵意をガデナーに向ける。一方のガデナーはそれを気にした様子もなく牢の前に立ち、おもむろに鉄格子を掴むとそのまま力任せに圧し曲げる。鈍い音とともに鉄格子が歪められ、ちょうど人一人が出入りできる隙間が生まれた。その光景にハルトリーゲルが訝しげに顔をしかめる。
「……何のつもりですの?」
「知れた事。まだ式典は終わっておらんのでな、一緒に来てもらうぞ。俺達はこれから夫婦になるのだからな」
ガデナーが不敵な表情で口元をつりあげる。その瞬間、ハルトリーゲルの瞳が険しく細められる。
「愚かな! その驕りがあなたを打ち砕く刃となるのです!」
ハルトリーゲルは短く叫ぶと、手にした髪飾りをガデナーに向けて投擲する。凄まじい速度で放たれた髪飾りはそのまま真っ直ぐにガデナーの眉間に吸い込まれていく。
髪飾りがガデナーの額に突き刺さるその直前、ガデナーは二本の指で飛来する髪飾りを掴み取る。必殺の間合いで放ったそれを事も無げに防がれたことにハルトリーゲルは悔しそうに顔をゆがめ、一方のガデナーは楽しそうに口元を綻ばせる。
「くく……。姫はおてんばでいらっしゃる。それでは姫の無様に足掻く様……楽しみにしているぞ……ん?」
「あっ……血が……」
どうやらガデナーは先程のハルトリーゲルの放った一撃を止め損ねていたらしく、投擲された髪飾りはガデナーの眉間に浅く突き刺さっていた。ガデナーの額からゆっくりと血が流れ落ちる。
ガデナーは無言で髪飾りを引き抜くとゆっくりとハンカチを取り出し額を軽く拭く。そして小さく咳払いをすると、まるで何事も無かったかの様に不敵な表情でハルトリーゲルに向かって大げさに笑う。
「くく……。姫はおてんばでいらっしゃる。それでは姫の無様に足掻く様……楽しみにしているぞ……」
「……」
「……」
地下に微妙な空気が充満していた。
「おお、来たぞ!」
「ガデナー様、素敵!」
「人間の姫も中々だな! でもちょっと顔が暗いけどどうしたんだろう?」
「人間が魔族の国に嫁ぐなんて前例が無いからな、緊張してるんだろうよ」
「しかしいつみてもガデナー様の笑顔は素敵だぜ。俺もああいう風に笑える男になりてえな」
「ええ……強く僧名で、そして何より見目麗しくいらっしゃる。完璧すぎるわ!」
思い思いの声が周囲に響き渡り、一瞬にして広場は凄まじい熱気に包まれる。その広場を突っ切るように、一台の豪華な馬車が人をかき分けながらゆっくりと進んでいく。
そこには笑顔で手を振っているガデナーと、その隣には俯いたハルトリーゲルの姿があった。馬車の前にはガルテンの騎士隊が整列し、馬車の後ろには先程捕らえられた筈のミステルの騎士隊が並んでいた。その光景に思わず動揺したハルトリーゲルは笑顔を作りながらガデナーだけに聞こえる声で小さく呟く。
「……どういうつもりですの?」
「なに、せっかくここまでご足労頂いたのだ。どうせなら姫を祝って帰国して頂きたいと思ってな」
「その余裕……その傲慢さ。いつか私を殺さなかった事を後悔させてみせますわ……」
「はははっ、それは楽しみだ」
ガデナーは心底楽しそうに笑い、一方のハルトリーゲルは遊ばれていると思ったのか頬を上気させて睨みつける。
「はははっ、見ろよ。あの姫さん顔真っ赤にしてガデナー様を見てるぜ」
「結構初なのねぇ……あたしでもガデナー様が相手だったらああなるでしょうけど」
どうやら観衆にはハルトリーゲルが照れていると映ったらしく、二人の仲を応援する声もあがる。それを聞いたハルトリーゲルがますます顔を赤くしてガデナーを睨みながら小さく呟く。
「この屈辱は忘れませんわ……って、貴方何をにやけていますの?」
「……姫は一体何を言っているのだ? 国民に対して笑顔を向けるのは当然だろう?」
「違いますわ! 私が悔しがる顔を見て笑っていたではないですか!」
「さっきから姫は一体何を言っているのだ? せっかくの式典なのだぞ。そんな顔をしていないで笑ったらどうだ? せっかく付き添ってくれた忠臣達を殺したくはあるまい?」
「くっ……外道が……」
ハルトリーゲルはガデナーだけに聞こえる声で小さく呟くと観衆達に笑顔で手を振る。顔は心無しか青ざめており、その手は小さく震えていた。しかしそれが怒りによるものだと知る者はいない。そうして馬車は市中をまわっていく。この日、ハルトリーゲルはガデナーの暗殺に失敗し、ガデナーの命を狙う妻となった。