3. 伊集院理恵という女
「彗ー!」
母さんの声がどこかから聞こえてくる。そして、それを聞き流す。
「彗ー! 起きなさーい」
「……、……」
寝ている様な寝ていない様な、この夢と現の間にある微妙な意識に居る時が僕は一番好きだ。でもいい加減に動かないと怒られてしまう。
仕方なく目を開けると、昨日と打って変わり、自分の中の時がゆっくりと動き始めていくような感覚が全身を駆け巡った。何かが新しく始まるような、そんな感覚だ。今日から学校だからだろうか?
洗面器の前で洗顔し、神経を引き締めてふと思った。今日寝汗はさほどじゃないな。昨日のアレは何だったのだろうか。
「よし!」
今日は何だか打って変わって調子がいい。
身体が妙に軽く、いつもよりもエネルギーに満ち溢れている気がする。本当に昨日の不調はなんだったんだろう。
「ほらもうこんな時間よ」
「あっ、やばっ!」
今度から目覚ましの設定をしないと!
そう誓って僕は家を飛び出し、新しく学校へと一歩を歩み始めた。
◇
「じゃあまずはみんなで自己紹介しましょう」
学校に到着して初めてクラスにやってくると、僕のクラスの先生がそう言い教室がざわめき出した。落ち着かないような、そんな音があちこちから聞こえてくる。
「じゃあ出席番号順に、天野さんから」
自分から見て、一番右端最前列の女性が立ち上がった。
「出席番号1番、天野 空です! 好きな食べ物はパフェです! 一年間よろしくおねがいします」
肩まである髪は黒茶色、目はダークブラウンか。天野さんは雑誌とかによくある流行のものにすぐ飛びつきそうな第一印象だ。
「じゃあ次、伊集院君」
「……」
彼女の後ろの男性が立ち上がり、ふとそれが夢……と言うか電車の光景で見た人物であると気付いた。
昨日は本当にただのオリエンテーションでクラス紹介も何もなかったからどこか分からなかったけど、やはりクラスメイトだ。
「……お初にお目に掛かります、伊集院 英高と申します。以後お見知り置きを」
伊集院君は何か凄いクールな感じで、上品だった。雰囲気がそれでしかもイケメン。宇宙の色をした瞳で髪はやや長めの黒。言い換えればやや冷たい雰囲気に感じ取れなくもないか。
「以上」
その一言で、何だか近寄りがたいなと第一印象を持った。
「……」
そう考えていると彼が、ふとこっちを見ている事に気がついて僕らは目を合わせた。
「……フッ」
鼻で笑われた!
「12番、木本 拓也です……厨二病です! よろしくだお!」
木本君の特徴。眼鏡とニキビにボサボサの髪。
見るからにオタクな風貌だ。
今時、こんな人物いるのだろうかと言うような雰囲気だ。それに厨二病とか言っちゃってるし。一周まわって今時珍しいタイプだ。
「鳩峰 恭子、27番です」
そう言ったのは、巧が昨日興奮してた巨乳だった。
……確かにデカすぎる。もはや公然猥褻罪だ。有難い。
目はダークブラウンで髪は長い。雰囲気がぽわわんとしている。天然だろうか。少なくともアレは間違いなく巧の大好物だ。かわいそうに。
「じゃあ、次」
「35番、星野 彗です。サッカーやってました、よろしく」
自分の番がやがて回ってきて、僕はそう自己紹介を済ませた。緊張してしまって、後半が早口になってしまった。大丈夫だろうか。
「36番の柳井 巧です! よろしく!」
後ろでそう言う巧はテンションが高い。
「最後に、私の名前は」
黒板にチョークを走らせる先生は何と言うかくたびれた様な声でそう言った。
「鎌瀬 圭子です。一年間よろしくね」
珍しい名前だ。そう言えばこのクラス、珍しい名前の人多いかも知れない。
「ではこの後教科書販売が有りますので移動してください」
そう言われて先生について行った先にあったのは体育館で、積まれた教科書の山がそこら中にあった。とりあえず教科書販売で列に並んだはいいけれど、時間がかかりそうだ。
「鳩峰さんかー」
「好きだねー」
「うるせーな、おっぱいこそ正義なんだって」
「…」
「……?」
伊集院君と目が会ったら瞬間、逸らされた。そんな彼はさっきの木本君って人と何かを話してるみたいだった。
何だか居心地が悪い。
僕が彼を気にしすぎているのだろうか。
この後も伊集院君とは何回か目があったりもした。しかし目があうとその瞬間に伊集院は決まって目線を逸らし、僕はその行動に何と言うかやっぱり違和感を覚えていた。
何で見てくるんだろう。本当に僕の気のせいなのだろうか。そう思っていても特に話す事もなく、気がついたら僕は自宅に帰り着いていた。
「ただいま」
母さんはまだこの時間は働いているから、家には僕一人だ。
「はぁーあ」
僕の家は、我ながらおよそ母さんと二人暮らしであるとは思えないような広さだ。
一軒家で、自分の部屋や母さんの部屋の他に来賓用の寝室もあったりするし、母さんに絶対に入るなと言われている開かずの間みたいな所もある。
本当に開かずの間で、扉を一回蹴破ってみようとしてもびくともしない不思議な部屋……あの奥には何があるんだろう。
リビングダイニングキッチンもあるし、お風呂も広い。ついでに言えば、クローゼットもなんかやけに広い。
5人暮らし位は余裕で出来るはずだ。場所も駒場東大前駅が最寄りで、そこそこいい所に住んでいる自覚がある。
自分の部屋に戻るのもおっくうで、リビングでテレビをつけてぼんやりとニュースを見ていたら、玄関のチャイムの鳴る音がした。
「はーい」
僕はテレビ鑑賞を一時中断して玄関へと向かった。
「星野さんのお宅は此方ですか?」
「あ、はい。そうですけど」
開いた扉の先にいたのは、そこそこ綺麗で、僕と同じぐらいの年齢の女性だ。どこかで見た事がある気がする。既視感を覚える。
「星野月子さんは居ます?」
「母さん? いえ、今仕事中で居ないです」
星野月子。母さんの名前だ。母さんの知り合いなのかな?
「いつ頃に帰宅しますか?」
「えっと、6時くらいには」
「そうですか。ではそのあたりにまたお伺いします」
「はい……あの、どちら様ですか?」
聞き忘れる所だった。
「私ですか?」
そう聞いたら風がほんのりと吹き始めて、彼女の髪が靡く。
「伊集院 理恵です」
伊集院?
……まさか。
「伊集院って、ひょっとして久慈真高校の伊集院君の……」
まさかと思って聞くと彼女は頷いた。その答え合わせに僕は思わず目を見開いた。
「ええ。じゃあ、急いでますので」
「あ、はい」
それだけを言うと彼女は踵を返して消えていく。何で、伊集院君の兄弟が? しかも母さんに用事って。と言うより、住所教えたっけ?
「……まあ、また来るって言ってたしいいか」
考えても分からない。
だから僕は扉を閉めてリビングへ戻り、テレビは付けずに最近読んでいる漫画を手に取り待つことにした。