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深い森の彼方に 改訂版  作者: とも
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この部分も削除はありません。

コーヒーショップに寄ったりリーダーに会ったりして、職場に着いたのは、始業時刻に間に合わなかったわけではなかったものの、いつもより少し遅くなってしまった。

そのせいか、ロッカーの前の着替えスペースに入った私を見る同僚の女性たちの視線は冷ややかだった。ブラウスとスカートを脱いで、この前ようやく手に入れた裾に花模様の刺繍がたっぷりとはいった短めのピンクのスリップ姿になると女性たちの目付きは一層厳しくなった。女性たちも大半は下着姿で肌もあらわになっていることから、さっそくスキンシップを試すことにした。ストッキングをはきかえるときわざとよろけてみた。隣りにいたブラジャーとショーツだけになっていた女性に倒れ掛かった。

「何、この新入り女、こんなわざとらしい下着なんか身に着けてあたしにすり寄ってきて。」

汚らわしそうなふりをしてたくみに避けた。軽蔑のまなざしを私に向けると、そそくさと制服を身に着け自席に立ち去った。

「あんた、馴れ馴れしいんだよ。新入りは隅っこで遠慮がちに着替えるもんだろ。」

お局さま風の女性が部屋の片隅を指さした。空ペットボトルが溢れかえっているゴミ箱の脇だった。

「ゴミ箱もきれいに片付けておくんだよ。」

スキンシップができるような雰囲気は全くなかった。私も制服のブラウスとスカートを身に着けるとゴミ片付けに専念した。昨日までは辛かった先輩や同僚の厳しい目も、ひょっとしたらこの人たち、私の背景でしかないのかもしれない、と思うとかなり気が楽になっていた。

片づけを終え席に着くと、今度は隣席の女性とのスキンシップを試みた。いつもネチネチと言葉攻めにしてくる隣の席の女は、やけにネイルに凝っていた。今日も派手な原色をたっぷりとつかった自分の爪をしきりと眺めていた。

「いつも思ってたんですけど、素敵なネイルですね。」

「どうしたの、ずいぶん急にあたしのことを褒めだすのね。何かたくらんでる?」

「私もしてみようかなと思って、よく見せていただけませんか。」

机の上に置かれていた彼女の左手に私は手をのばした。彼女は避けることもなく、手を引っ込めることもなかった。彼女の手に直接触れることができる、ひょっとしたら彼女は・・・


「あんた新入りのくせに居眠りしてんの? 度胸いいわね。」

上司の声で気がついた。私は机にうつ伏せになって気を失っていたのだ。

「この人、ちょっと変なんですよ。私の手を突然握ろうとして、そうしたらいきなり机に倒れこんじゃって。」

隣席のネイルの女性は上司に訴えた。

「リーダーの顔をたてて使ってやってるのに、なんていう女!」

青筋をたてて睨め付けている上司の平手が私の頬に飛んでくるような気がした。でも飛んでこなかった。口撃は強烈だったが上司は私の身体には指一本触れなかった。

「申し訳ありません。ちょっと眩暈がして。もう大丈夫です。」

私を睨みつけていた上司は、舌打ちをして離れていこうとした。


私は意を決して上司に話しかけた。

「あのー、ちょっとご相談というか、お聞きしたいことがあるのですが、お時間い

ただけませんか?」

「何よ、急に改まって。」

「あの、あそこの小部屋でお話しさせていただいていいでしょうか。」

「しょうがないわね。」

私が先に小さな応接室に入ると、上司の女性も不承不承ついてきた。

応接セットに向かい合わせに座ると、彼女は私の下半身をじろじろ不躾に眺めた。膝がひらいて下着が見えてたのだろうか、あわてて膝をぴったりつけてスカートの裾を引っ張った。彼女は私に見せ付けるかのように足を大きく組んだ。スカートの奥のピンク色のショーツが嫌でも目に入った。私は思わず目を伏せた。

「何やってんの、あんた。私を呼びつけておいて。」

また、足を大きく組みなおすと、またスカートの奥の下着が目に入った。

「あんた、私のスカートの中を覗きこむためにこの部屋によんだわけ?  何とかいいなさいよ。」

彼女は足を揃えて身を乗り出すと顔をぬっと前に出し、私の顔を覗き込んだ。

思い切って声を出した。

「あの、私たちのこの会社のことを教えてください。仕事を始めたはいいけど、何をしている会社か全然わからないんです。」

「あんた、そんなこと聞いて何になるの?」

「私も、少しでもいいから皆さんにお役に立ちたいと思ってるんです。会社のことも難しいかもしれないけど、私なりに一生懸命すれば理解できるんじゃないかと。」

「あんた、そんなこと聞いて何になるの?」

「皆さん、お忙しいようなんで、是非お手伝いをさせてください。今どういった作業を今されてるんですか? 私でも何とかなると思うんです。」

「あんた、そんなこと聞いて何になるの?」

「私、この会社の名前も教えてもらってないんです。社長さんもどんな人だかわからないし。私たちのいる部署も何というのか、何をするのかも。せめて会社名だけでも教えてください。」

「あんた、そんなこと聞いて何になるの?」

私を睨みつけていた彼女の表情から生気が徐々に失われてきた。繰り返し答える同じ言葉もだんだん小さな声になってきた。

「あの、上司であるあなたの名前もわからなくて。何か聞こうとしても呼びかけられなくて。皆さんと同じように呼びかけたいんですけど。なんて呼んだらいいのかだけでも教えてくれませんか。」

「あんた、そんなこと聞いて何になるの?」

身を乗り出していた彼女はいつの間にかソファに慎ましく腰掛けていた。言葉は口から出るもののほとんど無表情のままだった。

「お願いします。教えてください。あなたは誰なんですか?  私は今どこにいるんですか?」

「あんた、そんなこと聞いて何になるの?」

彼女の姿が朦朧として、向こう側が透けてきたように見え始めた。声もほとんど聞き取れないほどの小さな声になった。

私は身を乗り出して彼女に迫った。

「お願い、教えて、いったいここはどこなの?」

「あんた、そんなこと聞いて・・・・・」

ぼんやりとしていた彼女の姿は、彼女の声とともにスーッと消え失せてしまった。


私は彼女のいたはずの向かいのソファーに、暫くの間呆然と座り込んでいた。

いったい何が起きたのか理解できなかった。

しばらくして、ふと我に返り応接室を飛び出した。

事務室にいる女性たちは何事もなかったかのように仕事をしていた。自分の席に座り込むとネイルの女が話しかけてきた。

「あんた、どうしたの顔色悪いわよ。」

「あの、一緒に小部屋に入ったあの上司の女性。消えちゃったの。」

「上司って?」

「さっき、あなたのネイルを見せてもらおうとしてたら眩暈がしちゃって机に突っ伏しちゃったでしょ。そのとき怒ってた人。」

「そんな人いたっけ。」

「あなたが、私のことを変だってその人に言ってたじゃない。」

「そうお? そんなことあったっけ、覚えてないわ。」

「じゃあ、私たちの上司っていったい誰なの?」

「さあ、知らない。」

「じゃあ、私たち誰に指示されて仕事してるの?」

「やってるんだからいいじゃない。」

「そもそもあなた、いったい何の仕事してるの?」

「あんた、そんなこと聞いてなんになるの?」

「だって、このオフィスにいる人たち、何か仕事をしてるんでしょ?  みんな一体何してるの?」

「あんた、そんなこと聞いてなんになるの?」

「教えてお願い。ここはいったいどこなの?  あなたはいったい誰なの? ここにいる人たちはいったい何をしてるの?」

「あんた、そんなこと聞いてなんになるの?」

さっきの上司と同じだった。ネイルの女性は次第に無表情になり声も小さくなっていった。

「あなたもさっきの上司と同じ、だんだん存在感がなくなっちゃって。 せめて、このオフィスが何ていうのかくらいちゃんと教えて。お願い。」

「あんた、そんなこと聞いてなんになるの?」

「ねえ教えて・・・」

彼女の肩を掴んでゆすろうとした。しかし、彼女に触れるか否か、一瞬にして彼女の姿が消えてしまった。

姿の消えたネイルの女性の向かいにいた女性に声をかけた。

「この人もいなくなっちゃった、どうしたらいいの。」

「この人って? 誰かそこに座ってたの?」

「ネイルの好きな人、いたじゃない。つい今まで私としゃべってたのに、気付かなかったの?」

「別に、何で?」

「ここに座ってた人誰なの? 一緒に仕事してたんじゃないの?」

「あんた、そんなこと聞いてなんになるの?」

ネイルの女性と同じだった。突っ込んで質問を重ねると徐々に生気が失せ、最後には消滅してしまった。

なんでなの、ひょっとしたらプライバシーにかかわることを私がしつこく聞いたからなの?

私は、事務室にいる一人一人に聞いたみた。

「この会社なんていうの?」

「どんな仕事してるの?」

「あなたは誰?」

「なんで教えてくれないの?」

答えは皆同じだった。

「あんた、そんなこと聞いて何になるの?」

誰もがみんな無表情になり、声は小さくなっていき、最後には姿が消滅した。人によっては、肩をたたいたり、手をとったりして答えを聞こうとした。しかし、そういう人はいきなり姿が消えた。そして、30人以上いた女性たちは全員いなくなった。私を除いて。


いったい彼女たちは何をしていたのだろうか。机上に放り出したままの書類を覗いた。文字が紙に埋まっていた。どこかで読んだことがある文章だった。「山道を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹差せば流される・・・」夏目漱石の一節だった。何で小説を転記するだけのようなことをしていたんだろうか。

他の机をみた。九九の一覧表にアルファベット表に五十音表がそれぞれきれいに並んでいた。その隣りの机に載っていた書類は、一面の幾何学模様で何を意味するのか全くわからなかった。机に並んでいる書籍もありきたりの週刊誌や小説だった。

彼女たちのロッカーを開けてみた。何も入ってなかった。彼女たちがオフィスに来るまで着ていた私服も、化粧道具も、バッグも傘も個人の持ち物は全てなくなっていた。部屋の片隅にほうりだされていた飲みかけのペットボトルも口紅のついた山のような吸殻も個人を特定するようなものはすっかりなくなっていた。オフィスの中に残されたものは、どこにでもある事務用品や備品類ばかり、個人の持ち物は私

のものだけだった。

オフィスにいてもしょうがないので、私服に着替えて外に出ることにした。鍵をかけてったほうがいいのかふと迷ったが、残されたもので重要なものは何もなかった。私のロッカーだけが気になって再度開けてみた。制服が消滅していた。自分のものだった傘は残っていたが、会社から支給されたベストもブラウスもスカートもいつのまにか消滅していた。

呆然として建物を出た。しかし、街の様子は変化はなかった。女性たちが行きかうショップもオフィスもカフェも今朝と変わりがなかった。私がしつこく質問攻めにすると、ひょっとしてこの人たちも消えてしまうのだろうか。でも、忙しそうに行き過ぎるOL風の女性たちには声をかけることはできなかった。

ふと振り返ると、コンビニの前に、授業をサボったのか不良になりかけの制服姿の女子高校が所在なげにしゃがみこんでいた。

「あの、ちょっと尋ねたいことがあるんだけど。聞いていい?」

女子高生は不審げな目付きで私を見上げた。

「何よ、いったい。あたしに何のよう?」

「ここの住所教えてくれない?」

「何であたしにそんなこと聞くのさ。」

「ごめんなさいね、初めて会ったのに、いきなりこんなこと聞いて。なんか私、道に迷っちゃったみたいで、それで聞いたの。丁目や番地はいいから、町の名前だけでいいから教えてくれる?」

「知らねえよ。」

「じゃあ、あなたの通ってる学校は何ていうの?学校は近所よね。学校名がわかればここがどのあたりか分かるかもしれないから。」

「なんでそんなこと、あんたに答えなきゃならないのよ。」

ふてくされた回答だけど、OLたちの言い方とは違ったのでなんとなく期待がもてた。

「あなたの家はどこなの?  学校のそば? せめて町の名前だけでもいいから教えてくれる?」

「なんでそんなこと、あんたに答えなきゃならないのよ。」

「ここでも学校でもあなたの家でも、なんでもいいから教えてくれる?」

「なんでそんなこと、あんたに答えなきゃならないのよ。」

「町の名前じゃなくても、ここは何区なの?  それとも市? 都道府県は? 私わからなくなっちゃったの。私を助けると思って何でもいいから何か答えて、お願い。」

「なんでそんなこと、あんたに答えなきゃならないのよ。」

ふてくされた態度をとっていた彼女は、次第に表情を失くしていった。

「ここはどこなの?  あなたはこの国の人なの?  ここで生活してるんでしょ?ねえ教えて。」

「なんでそんなこと、あんたに答えなきゃならないのよ。」

次第に声も小さくなっていった。やっぱり私のいたあのオフィスの女性と同じだった。OLと女子高生ということで答えの言い回しがちょっと違っているだけだった。すっかり表情を無くした彼女の顔の前に身を乗り出して叫んだ。

「ねえ、どうしたの? きちんと答えて。」

「なんでそんなこと、あんたに・・・」

彼女の姿と言葉は静かにフェイドアウトしていった。


ベンチに座っていたOL風の女性にも声を掛けてみた。ドラッグストアのビラ配りの女性にも、信号待ちの年配の女性にも。私がしつこく相手の個人情報を聞きだそうとすると、表情から生気が消え声が小さくなりそして最後には消滅していった。

リヤカー風の移動式屋台でクレープを売っていた女性の場合は、屋台ごと消滅してしまった。一人で店番をしていた小さなアクセサリーショップの女性店員もショップごと消滅した。ビルの一室だったので建物は消滅せず、私が空店舗の中に一人取り残された状態だった。どんなしつこい質問でも相手の女性は怒ることなく消滅していくだけだった。


長身の娘と約束のコーヒーショップに入ったが、少し早かったのでたまたま隣りにいた私と同年代の女性に声をかけた。

「すみません、ちょっとお聞きしてよろしいですか?」

「え、はあ。」

「ブラジャーのサイズ教えてくれませんか?」

「アンダー70のBカップですけど。」

「服は何号なんですか?」

「9号です。でもちょっときついのもあって。」

「靴のサイズは?」

「23.5cmですけど。何でそんなこと聞くんですか。」

「すみません、理想的な体形でうらやましいなって思ったものですから。背もかなりあるんでしょ?」

「ええ、170cm近くあるんです。」

「小さい頃から背が高いほうだったんですか?」

「ええ、小学校のころからずっと。」

「そうなんですか。どちらの小学校だったんですか? 」

「え・・・」

「市内のご出身? それとも県外? どちらなのかしら。」

「何で私に、そんなこと聞くんですか?」

「ごめんなさい、昔のこと持ち出しちゃって。今、どちらにお住まいなんですか?」

「何で私に、そんなこと聞くんですか?」

「すみません。私、最近この街に越してきたものですから。この街のことやお住まいの人たちのことつき聞きたくなって。この近くにお勤め?  差支えなければ何ていう会社か・・・」

「何で私に、そんなこと聞くんですか?」

声が小さくなってきた。それに表情も。でも、体形とか服のサイズなんていうプライバシーそのものの質問のときは何ともなかったのに、何で急に。

「この方、お知り合い?」

長身の娘が私の前の席に座っていたのに気がつかなかった。

「いえ、ちょっと早く着いちゃったんでお話ししてたの。」

隣りの女性は会話が途切れたことで徐々に生気を取り戻してきた。すっと立ち上がりレジに向かった。

私はあわてて彼女に声をかけた。

「ごめんなさいね。変なことばっかり聞いて。」


「会話をしてたって雰囲気じゃないわね。あなたが一方的に彼女に色んなこと聞いてたんじゃない?」

「ええ、実は・・・」

私は彼女にオフィスでの出来事を打ち明けた。そして、街に出てきて色んな人に聞きまくってきたことも話した。

「それで、たまたま隣りに座っていたあの女性に話しかけたっていうわけね。」

「でも、ブラジャーのサイズなんてプライバシーそのものなのに、全然消滅していくような気配はなかったの。ひょっとしたら、この人私たちと同じなのかと思ったんだけど。でも出身とか住んでるところとか聞き始めたとたんにやっぱり変ってきちゃって。」

「ああいう風に能面のように表情がなくなってきて、それから存在が希薄になって、そして消えてしまうのね。」

「そう。でもあの人は話を途中でやめたので消えなかった。」

「消えてしまった人たちにはどんなことを聞いたの?」

「仕事は何してるのかとか、どこに住んでるのかとか、ここはどこなのかとかそんなこと。」

「服のサイズなんてきいたことあるの?」

「彼女が初めて。」

「そう・・・」

沈黙が続いた。彼女は必死にどんな現象が起こったのか考えているようだった。

「わかったわ。やっぱり周りの女性たち、といっても女性しかいないけど、全員背景なのね。」



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