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相変らず意地悪くネチネチと言ってくる上司や先輩を無視して、そそくさと職場を離れ長身の娘との約束のコンビニの前に急いだ。彼女は既に待っていた。
「ごめんなさい、遅くなって。」
「いいのよ、あたしも今来たばっかり。じゃあ、ちょっと目立たないところに行こうか。」
「かえって、大勢の人がごちゃごちゃしてるところのほうがめだたないんじゃない?」
「そうね、じゃ、あそこのコーヒーショップで。」
大勢の勤め帰りの客でごった返しているコーヒーショップの奥まった席に落ち着いた。
「心配してたのよ。あなたは2週間経っても3週間経っても宿舎には戻ってこないし、半年以上前に「男の存在」を知っていることを口にした人みたいに、あなたの存在が消えてしまったのではないかと。」
「リーダーにいきなり連れてかれて・・・ そして・・・ 取られてしまったの。」
「性転換手術ね。」
「そのあと、職場も住むところも全然別のところに連れて行かれて。地下街はよく知ってたところだったんで、そこから宿舎に行こうとしてもどうしても行けなかった。」
「そうだったんだ。実はあたしもリーダーから住むところを変えるように言われて先週引越したんだけど、あなたが宿舎に戻ってくるんじゃないかと思って宿舎に行こうとしたんだけどだめだった。でもよかったわ、会えて。ところで、まわりの人が男っていうものを知ってるかどうかなんだけど。」
「宿舎の同じ部屋の人も、街であったOLさんたちも、男性という存在自体を知らなかった。それどころか同じ部屋に子供がいる人がいたんだけど、男性も知らなければ性行為のことも知らないの。大人になれば自然と妊娠するなんていってる。」
「やっぱり間違いない。この世界には2種類の人がいるんだ。あたしたちのようにちゃんと男と女の存在を分っている人、でもそれは全体のごくわずか。大部分の人は男という存在を知らない。」
「私個人のことにも踏み込んでしまうんだけど、この世界に初めて足を踏み入れたとき通ってきたのが深い鬱蒼とした森、そして入口が城郭だった。一度、前の世界に戻ったことがあったんだけど、出るときも入るときもその森と城郭があった。でも、男性の存在を知らない人たちは、その森と城郭の存在も知らないようなの。」
「あなたは、森を抜けて城郭からこの世界に入って来たのね。あたしも森というのか通り抜けるのがものすごくたいへんなところで、その入り口は城郭っていうのかな、よくわからないけど。それで、その建物の中の小部屋でいきなりリーダーに切断されて・・・」
「えっ、あなたも前は男だったの?」
「そうよ、最初は***を切断されて、しばらくしてから**を取って女性器を作って。なんでそんな手術したのかしら。この世界じゃ男とセックスすることなんてありえないのにね。あたしが、会ったことのある前に男だったっていう人も二人とも、森だったか原っぱだったか、とんでもなく何もないところを延々と歩いてきたってことを言ってた。でも詳しいことは聞いてなくて、あたしの通ってきたところと同じなのかどうか、切断されたのがどこなのか、全然はっきりしないんだけど。」
「だけど、男性の存在を知っている人は、この国では性転換して女性として暮してる人だけってことね。そして、たぶんみんな深い森を通ってこの世界に入ってきた。」
「でも別格の人もいる。あのリーダー・・・」
「あなたが前に会ったという男性の存在を知っているという元男性、ほんとにいなくなっちゃったの? 私たち、暫くの間、会おうとしてもどうしても会えなかったでしょ。同じように会うことができなくなったんじゃない? 」
「だけど、あたしたちは暫くの間会うことはできなかったのは、私たちの共通項だった宿舎を出されて別のところに住むようになったってことでしょ。そして不思議なことに自分と関係なくなった場所にはどうしても行けなくなってしまった。それはあなたと同じ。そこのところが全くわからないんだけど、お互い共通項がなくなったんだから会えなくなるのは当然ね。あたしたちはほんとに偶然というか、幸運ということなのかしら。」
「その人の顔はちゃんと覚えている? ひょっとしたら女性化が進んで容貌がかわっちゃってるんじゃないの? 私たちは、河原でじっくり話しをしてお互いの姿かたちをしっかり頭に刻み込んだし、それほど時間が経ってないから、お互いにまた会えたっていうことじゃないの? ひょっとしたら、あなたやその人たちが気がつかないだけなのかもしれない。」
「そうよ、探せばいいんだわ。この町にきっといる。ひょっとしたらこの店にいる人たちの中にもいるかもしれない。」
「どうやって探すの? 一人ひとりに「すみません、あなたは男を知ってますか?元男でしたか?」って聞きまわるの? それとも、大勢の人が集まっているところで「この中で男を知ってる人手をあげて」ってやるの?」
「そんなことはできないけど、堂々と探し回るっていうの、なんか危険なような気がする。あたしたちがこの世界の秘密を探っているっていうことがあからさまになってしまう。」
私は彼女の言葉に急に不安になって店の中を見回した。騒々しい店の中には談笑する女性たちで溢れていた。この中に私たちの会話に聞き耳を立てている人がいるのだろうか。近くの席にいる女性一人一人に目を移した。この人たちは私たちのことを噂しているのではないだろうか。聞き耳を立てた。
愕然とした。何を話してるのかわからない。
「ねえ、私、周りの人が何を話しているのかわからなくなっちゃった。どうしよう・・・」
「わからなくなったってどういうこと?」
彼女も周りの女性たちをゆっくりと見渡した。
「どういうこと?」
彼女は顔色を変えた。店全体のざわめきは聞こえる。右隣りの二人連れ女性が楽しげに会話をしているのも聞こえる。左隣の3人組の女性が笑いながら話しているのも聞こえる。でも何を話しているのか理解できない。会話の集合体としての騒々しさははっきりと感じられるが、個々の会話については声が聞こえているのに内容がわからない。私たちと同じ言語を使っていることはわかるが、単なる音声になってしまっている。
「あなたも聞こえているだけで、理解できないのね。」
私の言葉に彼女は私の手を強く握った。手が震えていた。
「怖いわ、出ましょう。」
コーヒーショップの店員も他の客と話しをしていたが、「音声」だけで何の会話をしているのかわからなかった。私たちはレジに小銭を置くと逃げるように外に出ようとした。
「お客様、100円足りないんですけど。」
突然理解できる言葉をかけられた。意味不明の音声の渦の中に唐突に理解可能な言葉が浮かび上がってきたのだった。あわてて100円玉をカウンターに置いて外に出た。
「あの人、100円足りないって言ったよね。」
「確かにそれだけは理解できたわ。」
「何なのこの世界、今晩一緒に居て、お願い。」
「じゃあ、あたしのアパートに行こう。」
私は彼女のアパートに向かった。これまで全然気にならなかった雑踏が怖かった。雑踏の中の会話は何ひとつ理解できなかった。
食欲など全くおきなかったが、彼女が買い置きをしていたインスタントラーメン1人前を分け合ってお腹に入れた。ようやく落ち着いてきた。
「私たちに話しかけてくる言葉はわかるけど、それ以外はわからなくなっちゃったのね。」
私はもう一度この世界に来てからのことを思い浮かべてみた。高校や地下街のトイレで掃除婦をしていたときのこと、宿舎での生活、そして今の職場。私に話しかけてきたり、私が話しかけたり、会話じゃなくても私に聞かせるように話していたことは覚えている。でも、他人の会話を聞いたことがあっただろうか。地下街も高校も大勢の人たちがいて何かしゃべっていたようだったが、どういうことを話していたのか記憶になかった。宿舎の食堂にいた意地の悪い婆さんたちも、私に向かって話しかけたことは覚えているが、婆さんたち同士でしゃべっていたことは記憶になかった。しわがれた声と気味の悪い笑い声だけが記憶に残っていた。自分に直接かかわりのない会話を聞いた記憶がなかった。
男に関する話を誰もしていなかったって最初は考えていたけど、本当は話をしている内容がわからなかったということなのか。
よく考えてみると、会話どころか、私に直接かかわりのないことは一切わからなかった。リーダーに連れていかれた今の職場も、どういう業種でどういうことをしているかもわからなかった。私が尋ねなかったせいなのかもしれないが、リーダーも職場の上司も何も言わなかった。職場の中で類推できるような会話も文書も何もなかった。
「私はまだここに来て間がないのでわからないんだけど、この世界はどうやって成り立ってるの?」
「どうしたの急に。」
「ふと気がついたんだけど、ここに来てから私自身に直接かかわること以外どうなってるのか全然わからないの。」
「どういうこと?」
「この世界の社会の仕組みどうなってるの? 一番偉い人は誰? あの宿舎ってどうやって運営してたの? 大勢いるOLはどんな仕事してるの? みんなの娯楽はなんなの? 休みの日は何してるの? スターとかいるわけ?」
「あたしもわからない。」
「テレビは? 新聞は? ネットにそういう情報ないの?」
「そう、確かにへんね。仕事にかまけてたけど、ちゃんとした情報ない。新聞もない。そういえば自分の部屋にテレビがないことに何の違和感もなかった。でもどこかでテレビを見た事ある。食堂に置いてあったのかしら。昔の洋画をやってたような。」
「本屋さんはコーヒーショップの通りにあったようだけど。」
「うん、並んでるのは昔の私たちがいた世界の本や雑誌だった。そういえば変ね。雑誌には男の人の写真が出てたし、本の著者も男性がほとんど。ここの人たちは不思議に思わないのかしら。」
「だんだんわかってきたような気がする。この世界にはひょっとしたら独自の情報ってなんにもないのかもしれない。」
コーヒーショップでの混乱から私たちは立ち直り、自分たちが置かれた状況を少し冷静に考えられるようになり始めていた。
この世界は、現実の世界ではないのかも知れないということだった。私がこの世界に来る前まで情報以上のものが存在していないからだった。なんの情報も存在していない世界は存在そのものがないということかもしれなかった。
でもわからないことはいくつもある。今働いている職場の上司や同僚、架空の存在とはどうしても考えられなかった。私に罵声を浴びせた上司や同僚の女性はどう考えても現実の存在としか思えなかった。作りかけの書類をいつの間にか捨ていた意地の悪い隣席の女性のむっとするような女の匂い、給湯室で私の顔を覗くようにして皮肉を言う女のねっとりと甘いような口臭、どう考えても現実としか思えなかった。それにあのリーダーの存在、私や彼女から***を切除したのだ。あの激痛は記憶から消え去ることはない。
黙って考え込んでいた長身の娘が口を開いた。
「要するに、あたしたちは他の人の会話をわからなくなったんじゃなくて、他の人たちはもともと存在しないんじゃないかしら。」
「どういうこと?」
「他人の会話って、共通の話題があるんだったらともかく、あたしたちには何の関わりのないことであって、逆の言い方をすればあたしたちにとって全く新らしい情報っていうことでしょ。だって、この世界は新聞もネットもない。本もテレビもあたしたちが元々知っているものしかないじゃない。私たちが知ってること以外のことを知ろうとしても情報がないってことでしょ。そうしたら私たちから見れば他人の会話なんて存在しないってことにならない?」
「じゃああの人たちは何なの? 私たちのいるこの場所の単なる背景ってこと? 私たちが街の中で暮していることを演技するための大道具ってこと? 会話に中身は必要ないから意味のない効果音しか出さないってことかしら。でも、会社の人たちは生々しかった。どう見ても生身の女。」
「周りの人自体が架空の人ってことじゃないかしら。 実はね、私はあなたより長くこの世界にいるんだけど、リーダーや前は男だったっていってた人以外にふれあいってものがなかった。ふれあいって気持ちのことばっかりじゃないのよ。親身になって会話をしなかったばっかりじゃなくて、実際の生身と生身のふれあいがなかったていうこと。この世界の住人が背景だからってことかしら。」
「それは、肌の接触っていうこと?」
「そう、ハグしたり、手を握り合ったり、触れ合うことすらなかったような気がする。」
「そういえば私も・・・ 触れたといえば、あなたと、それからリーダーと、そういえばそれだけかしら。兵士たちは私の身体を触ったっけ。」
「たぶん兵士はあなたに直接触らず、手錠をかけたり腰縄を繋いだりしただけよ。直接触れてない。」
「そうね、二度目には城郭に運び込まれたようなんだけど、兵士なのかリーダーなのか気を失ってて分らない。」
「あたしはふれあいがないってことが気になっていて、宿舎の人とか仕事でいっしょになった人とか、何度も触れようとしたの。だけど、彼女たちは巧みにすり抜けていったり、触れたと思ったらあたしの記憶が突然途切れちゃったりして一度も触れあうことができないの。あなたに会った時、この人はひょっとして私と同じかもって思って、素肌を触らせてもらったのよ。うれしかった。あたしと同じ人がいるとわかって。ブラジャーの中も手をいれたでしょ? ひょっとしてあなたも元は男だったんじゃないかって思って障ってみたの。女の胸にまだなってなかった。ああやっぱりこの人もあたしと同じ、この世界にきてから女にされたのねって。」
「そうだったんだ。それで今朝あったとき、私がどこまで女になったか確認したのね。」
「ひょっとしたら、あたしと同じように性転換手術でしばらくいなくなっていたのじゃないかと・・・」
「私もやってみる。あの生々しい職場の人たも実態があるのかないのか、町のなかでも触ってみることぐらいできるかもしれない。ひょっとしたら私たちと同じ境遇の人に会えるかも。」
「じゃあ、明日の夕方また成果を報告しあいましょう。」
「どこで会う?」
「あのコーヒーショップでいいんじゃないの。会話が理解できない原因がわかれば、怖くもなんともない。」
「そうね。」
私が自分のアパートに帰ったのは深夜だったが、朝はいつもより早く目覚めた。慌しく服装を整え化粧をすますと、食事もとらずに町へとびだした。
いつものように、大勢のOLが行きかう雑踏だった。朝ということもあって私語はほとんどなかったが、耳をすますと時折会話が聞こえた。やはり意味はわからず単なる音声だった。
朝食は昨日のあのコーヒーショップに立ち寄りトーストとコーヒーをたのんだ。まわりの客たちの会話は昨日と同じように音声だけだった。食事を終わるとレジに向かった。昨日と同じレジの女性に私はわざとお釣をもらえるようにお札で支払い、小銭を用意した女性から直接手渡しをしてもらうように彼女の手に私の手を下から重ねようとしてみた。彼女はあわてて手を引き、カウンターに小銭を置いた。彼女の手に触れることはできなかった。
店を出て地下街の階段を下りていった。階段でよろけふりをして前を歩く女性に触れようとしてみた。彼女は私に気付いたようもないのに、さっと小走りになり離れていった。狭い出入口を大勢が錯綜しているトイレでも接触を試みた。でも、誰もが巧みに避けていった。バッグ同士が触れたり、袖同士が触れることはあったが、素手で彼女達の服に触れることもできなかったし、私の服を素手で触られるようなこともなかった。
「やあ、久しぶりだね。」
地下街の管理事務所近くで私に声をかけてきたのは、リーダーだった。
「ご無沙汰してます。」
「職場には慣れたようだな。職場というかイジメといったほうがいいかもしれないが。」
今日のリーダーはいつもよりちょっとだけ化粧が濃い目で、耳にはまるでサファイアのように青緑に輝くピアスをしていた。髪もいつもは無造作に束ねていたが、今日はピアスに合わせたのだろうか青緑の大きなリボンで豊かな髪をまとめている。
「仕事に行く途中でコーヒーショップに寄れるようなら、もう余裕が出てきたということだ。」
「見ていたんですか?」
「お前らの行動をきちんと把握しておくというのが私の使命だ。」
お前ら、と複数形になっていたのが気になった。昨日からの行動もずっと見られていたのだろうか。
「何を見つめているんだ。」
私は、リーダーの今日の女らしい姿に胸が高鳴っていた。**************************。しかし股間の潤いは相変らずだった。下着を湿らせているものが何かはよくわからなかった。
「今日のリーダー素敵なんで。つい見とれちゃって。今日は、どなたか大切な方とお会いになるんですか。」
「馬鹿なことをいうんじゃない。お前はこの世界がどんなところかわかってきているだろう。私はお前らが一人前の女として独り立ちできるように導くことに専念しているんだ。さあ、余計なことは考えずに仕事に行くんだ。」
彼女は両手で私の両方の二の腕をつかみ、そして地下街を出て行くように促した。腕がむき出しだった私はリーダーの手のぬくもりをじかに感じとった。リーダーに「抱かれたい」と強く意識した。




