夏休みだもの
学校が夏季長期休みに入った。
それにより、町中の様子に変化が現れる。
普段は学校にいる時間の子供達がどこかに遊びに行ったり、家の手伝いをしていたりする。
他には、探検者となるべく修行に励む者もいる。
エディオンもその一人なのだが、その修行内容は周囲のそれとは一線どころか大きくかけ離れて厳しいものだった。
「オラオラッ! ちんたら走ってたら、すぐに追いつくぞ!」
後方から追いかけてくるルーディアンの声に、振り返る余裕も無いほどとにかく全力で走り続ける。
修行用に裏側に重りが縫い付けられている服とズボンは重く、魔力による強化も禁止のため、普段の全力疾走のスピードは出ない。
その上、走っているのは森の中。木々を避け、遭遇した野生動物も今回は回避に専念し、追いかけられてもとにかく逃げて振り切る。
「くっそ、化け物が」
徐々に距離を詰めてくるルーディアンに小声で悪態を吐きながら、とにかく少しでも長く逃げるために脚を動かす。
繁みを突き抜け、窪みで躓きそうになり、川の中まで駆け抜け、木の陰から飛び出してきたウリ坊を飛び越えてとにかく走る。
しかし、その懸命な疾走も終わりを告げた。
「ほい、タッチ」
遂に追いつかれたルーディアンに背中をタッチされ、エディオンは転がり込むように地面に倒れた。
「ちっく、しょう……」
止まった途端に余計に重く感じる重り。
息は切れ、汗も吹き出てきた。
それなのに、追いかけてきたルーディアンは座り込みもせず、汗一つ掻いていない。
少しでも長い距離を走らせるためと、長期休みに入ってから重りの重さが倍になっているため。その辺りを差し引いても、明らかに手加減されているのはエディオンも分かっている。
だからこそ、自分とルーディアンの実力差を実感し、余計に悔しく思えた。
「これで五セット終了だな。じゃあ六セット目いくか」
「分かって、るよ……」
疲労している体を腕だけで持ち上げ、腕立ての体勢になる。
その傍らでルーディアンは、魔法の袋からある物を取り出した。
高さだけで二メートルはあろうかという、明らかに百キロ以上はある巨石。それを何の躊躇いも無く、エディオンの背中に乗せた。
「ぐっ!」
衣服の重りに加え、巨石の重みが体を支える腕に伝わり、今にも崩れ落ちそうになるのを魔力強化で辛うじて支え、腕立ての体勢を維持する。
「そんじゃ、腕立て始め」
ついでとばかりに巨石の上に飛び乗り、そこで魔法の袋から食料を出して食べ始めた。
「う、あぁぁっ!」
雄叫びを上げながら腕立て伏せを始める。
この腕立て伏せに回数制限は無い。
ある一定時間、途中で止まることなくとにかく動き続けてようやく終了となる時間制。
そのため、終わらせたければ動き続けるしかない。
「ふん! ふん!」
「よおし、悪くないペースだ。そのままやれ。あと、こっからは極端なペースダウンでも、最初からやり直しな」
「分かった、よ!」
さりげなく難易度を上げられながらも、淡々と腕立て伏せを続ける。
文句を言った所でルーディアンは全く意に介さないと分かっているからだ。
突如森の中で始まった腕立て伏せの最中には、当然ながら野生動物が現れたりする。
現に今も、大型の熊が唸り声を上げながら突撃してきた。
だがエディオンは、正面に見えている熊を全く気にせず、腕立て伏せを続ける。
「んだコラ。修行の邪魔するんじゃねぇ」
何かの肉を食いながら、ルーディアンが一睨みした。
すると熊は突進してきた勢いそのまま、回れ右して森の奥へ逃げていった。
「なんだよ逃げやがって。意気地のねぇ熊……」
文句を言いながら肉にかぶりつこうとした時だった。
「うおぉぉっ!? なんかデカイ熊が出やがった!」
「落ち着け! 落ち着いて、奴の目玉を矢で抉り取ってやるのじゃ!」
「爺ちゃんこそ落ち着けって! 抉り取る前にどっか急所を射抜かないと、俺らが死ぬって!」
熊が逃げた方向から、狩人の祖父と孫らしき声が聞こえてきた。
「ふん! 親父! ふん! いいのか?」
腕立て伏せを続けながら尋ねると、原因を作ったルーディアンは悪い気がしてくる。
「あー。ちょっくら行ってくる、サボるなよ」
「サボる暇があったら、少しでも鍛えて、親父に、ちょっとでも、追いつくっての」
腕立てをしている目の前に降り立ったルーディアンは、僅かに足下を踏みしめると、まるで消えたように森の奥へと走っていった。
自分を追っていた時とは大違いのその速さに、まだまだ加減され過ぎていると実感したエディオンは、体の状態に構わず意地だけで腕立てのペースを上げる。
「おっす待たせたな」
それから僅か数十秒でルーディアンは戻って来た。
一撃でしとめたのか、熊の血液が付着しているのは右腕の部分だけ。
「熊は?」
「狩人の爺さんと孫にくれてやった。まあ、礼だって言って両手は貰ったけどよ」
熊で一番美味いのは掌の所、というのはこの世界も変わらない。
そのため、手の部分を持ち帰ったらこの親子は争奪戦を繰り広げる。無論、どっちがデカイのを食うかで。
「お前は何もしてないから、俺が食うぞ」
勝ち誇った顔で言われ、カチンとくるが何もしていないのは事実なので言い返せない。
「せめて指のところ寄越せ!」
「やなこった。まあ本来なら十セットのそれを、十五セットやったら考えてやる」
「言ったな! やってやるから、それまで食うなよ!」
対抗心からつい言ってしまい、回数制ではなく時間制なのに腕立てのペースが上がる。
厳しい修行の連続で冷静さを失い、ただひたすら修行に打ち込む。
腕立て伏せの後も、重り増量でのスパーリング、実戦形式の組み手、先ほどもやっていた魔力強化無しでの全力追いかけっこ。
そういった修行のセットを見事十五セットやりきり、即座に倒れた。
修行を終えたところで頭に昇っていた血が徐々に降り始め、ようやく冷静さを取り戻して気づく。
(そういや、考えるとは言ったけど、やるとは言ってない!)
その判断は正しく、この程度でくたばる未熟者にはやらんと全部食べられた。
疲れきったエディオンに反発する体力は残っておらず、悔しさからテーブルを叩くことが精一杯の抵抗だった。
そもそも、疲れきった胃がそれを受け入れられるはずないのだが。
「ということが、昨日あってさ」
「バッカじゃないの?」
翌日の午前中、夏季長期休み中の課題をするため、フィリアとウリランと共にミミーナの屋敷を訪ねた。
出迎えたバレルとモレットも加えて取り組む課題は、予定通りのペースで進んでいる。
そして一息入れようと休憩中、前日の修行での事を話したら、容赦の無い言葉をフィリアから貰うことになった。
「熊の手なんか、自分で採ってこれるでしょう」
ただ、気にする所がちょっと違うが。
「俺も寝る寸前でそれに気づいた」
「よっぽど疲れていたんだね~」
普段は飲めない高そうな紅茶を飲みながらの会話じゃないとモレットは思うが、この手の会話に一度ツッコミを入れだしたらキリがないという事は、既に分かっているため何も言わない。
ただ、心の中で問題はそこなのかと、密かにツッコミを入れていたりする。
「うむ。熊の手は美味いからな、取り合うのも分かる。私も幼い頃に妹と取りあって、両親から叱られたよ」
友人が訪ねて来て一緒に宿題をするという、バレル的憧れのシチュエーションランキング第八位のイベントに上機嫌なバレルは、特に内容を気にすることなく会話に混じっている。
本人は自覚が無いが、エディオン達のやり取りに慣れ始めているのかもしれない。
「へえ~、妹がいるんだぁ」
「うむ。マリーエルというのだが、ちょっと……いや、だいぶお転婆でな。どうしてそうなったのか、母上も頭を抱えていたよ」
身内ネタを話題に盛り上がっていると、部屋の扉がノックされた。
「入れ」
部屋の主であるバレルが許可を出して入室したのは、屋敷の使用人である初老の男だった。
羊人族の彼の頭には、特徴的な白い角が生えている。
「失礼致します。バレル様、お客様がお見えです」
「客?」
この日、バレルにエディオン達以外の来客の予定は無い。
まさか帝都にいた頃の取り巻きの誰かが、わざわざ訪ねてきたのではないかとバレルに不安が過ぎる。
だがその前に、まずは相手を確認しなければ何も始まらない。
「誰だ?」
若干緊張交じりで尋ねると、使用人は落ち着いた口調で答える。
「妹様。マリーエル様でございます」
「なんだとっ!?」
驚いたバレルは思わず席を立った。
噂をした途端に訪ねて来たというのだから、驚くのも無理は無かった。
「本当なのか? それと、事前に連絡は」
「馬車にある家紋からして、間違いありません。それと連絡の手紙は届いております」
「何故、私に知らせない!」
「申し訳ありません。なにぶん、先ほど届いたばかりでして」
狙ったのか偶然なのか、手紙の到着から間もなく現れたという。
全く予期していなかった事態にバレルは面倒そうな表情を浮かべ、普段はやらないような後頭部を掻く仕草を見せる。
モレットの方もまた、何か面倒な事になると察したのか、頬杖をついて溜め息を吐いた。
「何~? どういうこと~?」
わざわざ妹が帝都から来たというのに、浮かない表情をしている主従にウリランは首を傾げる。
「せっかく妹さんが来たのに、何かあるの?」
「先ほど、バレル様が言いましたよね。マリーエル様はお転婆だと……」
確かに聞いたが、それがどうしたというのかエディオン達には分からなかった。
妹というからには、まだ遊び盛りの年のはず。お転婆であることなど可愛いもの、というのがエディオン達の考えだった。
「うむ。さっきはお転婆だと言ったが、正直言うとそんなものじゃないんだ……」
「……どういう意味だ?」
訳が分からずエディオンが問い返す。
しかしバレルは答えないため、代わってモレットが説明をする。
「お転婆に加えて、超が付くほどのブラコンなんですよ」
苦笑いをしながらの簡潔な説明を聞いたエディオン達は、一様に頭の中にクエスチョンマークを浮かべた。
「何かあれば、お兄様お兄様お兄様と、まるで依存症かのようにな……」
「えぇぇぇぇぇ?」
重い口を開いての暗い空気を発しながらのバレルの説明に、それしか反応ができなかった。
「ここに向かう前日も、デートするとか添い寝すると言って聞かなくてな。あの時の私は、そういう気分にはなれなかったというのに……」
どんどんバレルの周囲だけ空気が重くなっていき、声も段々と小さくなっていく。
ひょっとして帝都にいた頃に友人ができなかったのは、その妹が原因の一端なんじゃないかとエディオン達は思った。思っただけで口に出さなかったのは、彼らなりの優しさである。
「でも、もう来ちゃったんでしょ? 諦めなさいよ」
「そうだぞバレル。それによ」
落ち込むバレルの肩にエディオンが手を置く。
俯いていた表情は暗いままだが、顔を上げて何かとエディオンを見る。
「今はダチの俺がいるんだ、何かあったら手助けしてやっから」
なんとも根拠の無い安請け合い。
だが、今のバレルにはそんな安請け合いでさえ、とても喜ばしく思えた。
暗かった表情は明るくなり、彼の目にはエディオンの背に後光が差しているかのように見える。
その一方で、安請け合いしちゃってと、軽率な言動にフィリアは呆れていた。
「そ、そうだな! 今の私には友人であるディオがいるんだ、いざという時は頼むぞ!」
「おうよ!」
軽く拳をぶつけ合う、二人の間での会話。
これで腹を括ったバレルは両頬を叩き、ずっと待っていた使用人に話しかける。
「分かった、通してくれ」
「承知しました」
待っている間ずっと体勢を崩さず、ひたすらじっと待っていた使用人の後姿を見て、プロだと思ったのはモレットだけだった。
それからの僅かな時間がバレルには長く感じた。
深呼吸して心の準備を何度もやり直し、落ち着こうと何度も大丈夫だと自身に言い聞かせる。
やがて、廊下から駆け足の音が聞こえてくると、来たかと呟いたバレルは立ち上がって扉の方を向き身構える。
何が起きるんだとエディオン達が見守る中、徐々に大きくなってきた駆け足音が扉の前で止まり、直後に勢いよく扉が開いて何かが室内へ飛び込んできた。
「お兄様あぁぁぁっ!」
弾丸。
例えるならそれだった。
飛び込んできた金髪の少女は、まるで弾丸のような勢いで、狙い済ましたかのようにバレルへ向かっている。
「うぉっと!」
身構えて備えていたバレルは見事にかわし、少女は止まる当てを無くした。
このまま床にぶつかって転がるのかと思いきや、少女はまるで察していたかのように、見事な着地を決めた。
「「「おぉぉぉぉぉ」」」
あまりに見事に着地を決めたものだから、エディオン達は思わず声を上げて拍手をする。
その拍手を気にせず、少女は振り向きざまにバレルを指差す。
「お兄様! 私の愛の抱擁を避けるなんて、どういうつもりですの!」
どことなくバレルに似た顔をしている、金髪ツインテールのエルフの少女。
見た目からして、十歳くらいのその少女こそ、バレルの妹のマリーエル・ラックメイア。
特徴的な先端の尖った長い耳は不機嫌なためか上を向いていて、表情も避けられたせいか怒っているように見える。
「避けなきゃ痛いだろう」
「私のお兄様への愛ならば、例えどんな事になっても痛くも痒くもありませんわ!」
ポーズを決めて言い切るが、そこに何の根拠も無い。
「いやいや、お前はそうかもしれないけどな。私は痛いんだよ」
「そんな事はありません! 痛いのであれば、それは私が未熟者ゆえ。つまり、お兄様はこれっぽっちも悪くないのです!」
やたらとリアクションを取りながら、最後はポーズを決める姿がどこか痛々しい。
しかしそう感じるのは大人だけで、彼ら子供にはただ格好つけているようにしか見えていない。
「あはは……。マリーエル様、相変わらずお元気そうで」
相変わらず過ぎてそう言うしかないモレットは、苦笑いを浮かべながら話しかける。
「モレット……。いくらあなたでも、私とお兄様の語らいを邪魔しないでくださる?」
兄の従者に対してそう言い放ち、まるで親の敵のような目で睨む。
それに怯んだモレットが、申し訳ありませんと謝罪して一、二歩下がる。
その姿にエディオン達はちょっと情けないと思いつつ、聞きしに勝るブラコンだという印象をマリーエルに抱いた。
同時に、つらつらと兄を称えるかのような言葉の羅列を並べる妹に、複雑な表情をするバレルの様子がエディオンは気になった。
(しゃあない)
周囲が一歩引いている中、エディオンがマリーエルに向けて歩を進める。
背中を向けている彼女は気づいていないが、バレルは気づいていた。
先ほど手助けをすると約束してくれた友人が歩み寄り、その約束を果たそうとしてくれていると。
見ているだけ状態になっているフィリア達はその様子を、静かに見守る事にした。
「オイコラ、お前。いくら妹だからって、いい加減にしろ。俺のダチが迷惑してんじゃねぇか」
とても十歳前後の少女に向けるような言葉と顔つきで、いきなりかました。
あまりの対応に、よく言ってくれたと感心しているバレルを除く三人は、揃って反応に困ってしまう。
「なんですって?」
言われたマリーエルも、負けじと睨みながらドスの利いた声で返してきた。
「どなたか存じませんけど、お兄様が私からの愛を迷惑に思うはずがありませんわ」
「んな一方的な詰め寄り方が、迷惑以外のなんだっていうんだ。妹なら察してやれよ」
どちらも一歩も引こうとしない。
友と兄、関係は違えど同じ人物のために行動している。
その二人の間には妙な対抗心が火花を散らし、一触即発の雰囲気さえ漂う。
「あなた、先ほどお兄様をダチ、つまり友人と言っていましたね。何が目的で、お兄様に近づいているのですか?」
身を乗り出し、下心あっての友人関係ではないかと迫る。
勿論、そんなつもりは一切無いエディオンは、即座に否定する。
「目的なんかあるか。ダチになるのに、理由なんていらないだろ」
「どうでしょうね。なにせお兄様は、私なんかと違って侯爵家の次期当主候補ですもの。一緒にいれば、何か恩恵が」
帝都にいた頃のバレルと、予定より早くこの地へ留学させられた理由を知るからこその考えだが、知らぬとはいえ言う相手を間違えていた。
言った瞬間にフィリアとウリランは、あちゃーと思い、万が一の時は止めに入ろうと思った。
「……おい」
「なんで……ひぃっ!?」
エディオンの方へ目を向けた途端、とても耐え切れない威圧感を発する目を見てマリーエルはしりもちをついた。
表情は恐怖で引きつり、体は微かに震えている。
「ダチにそんなもん望む奴は、本当のダチじゃねぇ! お前の考えている奴と、俺を一緒にすんな!」
年下の少女相手でも容赦なく己の主張を力強くぶつけた。
自分が求めていた友人に対する価値観そのものを聞き、バレルは妹を気にせず目を輝かせている。
最早マリーエルは、ひたすらコクコクと頷くことしかできなかった。
しかし、その行動は正解だった。
分かってもらえたと思ったエディオンから迫力は消え、普段通りの笑みを浮かべる。
「安心しろ。俺はお前が思うような、ダチもどきじゃねぇ。マジでバレルのダチだからよ」
心の奥底から自信を持って言ったその言葉に、バレルはそれでこそ我が友だと感動する。
一方のマリーエルも、ここまで言ってのける相手を初めて見て、大きな瞳をした目をパチクリさせていた。
「つうか俺、貴族社会とか嫌いだからさ。一個人的にダチにはなるけど、それ以上関わる事になるのはこっちからゴメンだ」
それを聞いてマリーエルの目は見開き、ゆらりと立ち上がる。
すると、エディオンの様子を見て一度は解いたフィリアとウリランの警戒心が、再び頭の中で鳴り響く。
今の一連の流れから、新たな恋のライバルが生まれるんじゃないかという可能性に気づいたからだ。
だが、それはちょっと考えすぎだった。
立ち上がったマリーエルが向かったのはエディオンではなく、兄のバレルの方。
「お兄様! 遂に本当のお友達ができたのですね!」
満面の笑みを浮かべたマリーエルは、全力でバレルへ飛び込んだ。
先ほどと違い、身構える暇が無い上に距離が近かいこともあり、ものの見事に腹部にタックルを喰らう。
鍛えているというよりも、運動をしてだらしない体になるのを避けている、程度でしかないバレルの体がそれに耐えられるはずがない。
「ごっほあっ!?」
クリーンヒットした一撃に肺の空気を全て吐き出し、妙な声を出して床に倒れた。
辛うじて受身を取って後頭部を打たなかったのは、彼なりに僅かながらの意地を見せたのだろう。
「よかったですね! 本当によかったですね!」
「あぐ……うぅ……」
バレルの胸に顔を埋め、頬ずりしながら喜ぶマリーエル。
しかしバレルの方は、それどころじゃなかった。
見事な一撃を腹部に受け、強い痛みが走った事でのたうちまわりたいのに、上にマリーエルが乗っていて動けない。
「マ、マリーエル様! バレル様が!」
慌てて対応するのはモレットだけ。
フィリアとウリランは、新たなライバルができなかった事にホッとして、エディオンはお転婆の片鱗を見てなるほどと納得していた。
「ごめんなさい、お兄様。私ったら嬉しくてつい」
「済んだことはいいさ、次を……気をつけてくれ」
痛む腹部を押さえながら、叱るのではなく注意で済ます辺り、なんだかんだでバレルも妹に甘かった。
「それと先ほどの……えっと……」
チラリとマリーエルがエディオンに視線を向ける。
その目が何かに困っているように見えたフィリアは、隣にいるエディオンに肘を当てて名前と呟く。
「ああ、俺はエディオンだ。ダチの妹さんだし、ディオでいいよ」
「あっ、あなたがお兄様の手紙にあったディオさんですかっ!?」
手紙と聞いて、長期休みに入る前に話していたことを思い出す。
近況を家族に報告するため、定期的に手紙を送っていて、帰省しない事もそれで伝えているという話を。
「最近のお兄様の手紙には、あなたの事ばかり書いてあるんです。ディオ、ディオ、ディオって。まるで恋人を自慢するかのように」
それを聞いたエディオンは静かにバレルから二、三歩ほど距離を取った。
「いやいや! 私にそんな気は無いぞ!」
「うん、大丈夫だ。分かってるぞ、分かってる」
「だったら何故距離を取るんだ、友よ!」
二人のそんなやり取りに、誰もが笑みを浮かべる。
しばらくそんなやり取りをした後、全員が椅子に座ってのおしゃべりが始まった。
話題は、意外にもエディオンが受けている修行の内容。
「まあ! そんな修行をしているのですね!」
お転婆と言われているのと、バレルがそうである影響なのか、マリーエルもルーディアンのファンだった。
手紙でエディオンがその息子で弟子と知っていることもあって、当初の敵意の目どころか憧れや尊敬といった眼差しで話を聞いている。
内容が修行についてというのが、なんともマリーエルらしいとバレルは苦笑いをしていた。
「ああ。今着ているこの上着とズボンにも、内側に重りが仕込まれているんだ」
「えっ? そうなのかっ!?」
「やっぱりね。普段となんか違うと思ったわ」
「小さい音だけど、なんかカチャカチャ鳴ってたしね~」
幼馴染二人は気づいていたが、バレルとモレットは気づかず驚いている。
「ちょっと持ってみるか? さすがにズボンは無理だけど、上着なら」
「ぜひ!」
嬉々とした表情を見せるマリーエルに、上着を脱いで片手で差し出す。
片手で持てるほどだから、大した事がないのかなと受け取ったマリーエルだが、直後に両手にズシリと重量が圧し掛かり膝をついてしまう。
「重い重い重い! 重いです! 手が、手があぁぁっ!」
騒ぐマリーエルを助けようとモレットが上着に手を伸ばし、持ち上げようとする。
しかし、重い上着はとても持ち上がらず、全力で力を込めてようやく少し持ち上がるほどだった。
見かねたエディオンが片手で持ち上げると、手の痛みから解放されたマリーエルが、真っ赤になった手を冷まそうと息を吹きかける。
「ふー、ふー。凄く、重いですね」
「これくらいじゃないと、修行にならないって親父がな」
簡単に言いながら上着を再び着る様子を見ながら、重さを体感したモレットは信じられない目でエディオンを見ていた。
護衛としてそれなりに鍛えていて、力にも自信があったのに、少し持ち上げるのが精一杯な重さ。
それをまるでなんともないように片手で持ち上げて、しかもずっと着ていた。
見た目には、エディオンの体はそこまで筋肉質には見えない。
しかし、片手で持ち上げて、今も普通に着て生活しているのは事実。
ひょっとしたら自分達が知っているエディオンの強さは、あくまで氷山の一角でしかないんだろうかと少し恐ろしく思えた。
(仮に魔力で強化していたとしても、あの重さを……)
体感した重さは、例え身体強化魔法や魔力による身体強化をしたとしても、モレットには片手で持ち上げられる自信が無い。
そもそも、それを着て生活するなど、とてもできる自信が無い。
(思えば、彼は魔物を一撃で倒したんでしたね)
以前に起きた出来事を思い出し、改めて身震いする。
こんな彼と敵対関係にならず、寧ろ友好的な関係に慣れて良かったとも。
エディオンの貴族社会嫌いを考えると、敵対関係になっても直接的な問題は起きなさそうだが、楽観視はできない。
なぜなら、彼の父であるルーディアンはかつて、しつこく勧誘してきた貴族を物理的に潰した事がある。
その貴族があくどく、悪い噂の証拠も出てきたため、お咎めはさほどでもなかったが、この一件で貴族の間にルーディアンとは敵対するなという不文律ができた。
息子であるエディオンも、同じ事をしない保証は無い。
そして、それをやりかねない実力の片鱗も見えた。
不文律の件を思い出したモレットは、仲良く会話するエディオンとバレルの姿に、この良好な関係がずっと続けばと思う。
バレルのためと、仕えているラックメイア侯爵家の安泰のために。