予想外な日
修行の質が変化して数日。
学校が休みのこの日、エディオンはフィリアとウリランを伴って森で狩りをしていた。
小遣い稼ぎと修行を兼ねたこの狩りのメインは、あくまでフィリアとウリラン。
エディオンがいるのは小遣い稼ぎと、幼馴染二人の護衛も兼ねてのこと。
それは二人も重々承知しており、本当に危ない時はエディオンに任せっきりにしてしまう。
時折、三人で探検者として旅に出た時に備え、三人での連携を練習したりしながら狩りをして、小遣いを稼ぎながら持ち帰って食事に使う肉を確保している。
その狩りに、この日は新たにバレルとモレットが加わった。
帝都にいた頃は狩りへ行った事が無いという初心者を伴っての狩りを、通常ならば不安に思うところだが、誰一人として不安にならなかった。
なぜなら、狩りにエディオンが付いて行くからだ。
勿論、護衛という立場上、モレットが危険だから護衛を付けてほしいと主張する。
ところが、世話になっているミミーナから彼がいれば大丈夫だという太鼓判をもらった上に、肝心のバレルがディオがいればきっと大丈夫だと言うので押し切られてしまう。
ならばせめてと、安全な場所で狩りをしようとエディオン達に提案。説得の末、どうにか受け入れてもらえた。
そうして、護衛のためにと鍛えている剣を持ったモレットと、一番得意だという弓矢を持ったバレルを加えての狩りが始まったのだが。
「これのどこが安全な場所なんですかぁ!」
大声で叫ぶモレットの傍には、表情が引きつっているバレルと、ちっとも困った様子を見せていないエディオン達がいる。
彼らは明らかに機嫌が悪そうな獅子達に囲まれていて、逃げ場を失っていた。
「あぁぁぁ。最初はウサギとか鳥とかを狩って、狩りの練習をしていたのに、どうしてこんな事に」
頭を抱えているモレットに、バレルは神妙な面持ちで話しかける。
「……モレット」
「なんですか?」
「……猪も狩ってみただろう? 逃げられたけど」
「今気にするのは、そこじゃないですよっ!」
鋭いツッコミにも獅子は反応せず、威嚇の唸り声を上げながら徐々に距離を詰めてくる。
「あぁぁぁ。だから護衛を付けろって進言したのに」
後悔と絶望に包まれる中、ある事に気づいた。
こんな絶望的な状況にありながら、フィリアは他人事のような表情を浮かべ、ウリランに至っては鼻歌を歌っている。
そして大丈夫だと言われた最たる理由であるエディオンは、手首と足首を動かして準備運動をしていた。
「ちょっと皆さん! なんでそんなに落ち着いているんですかっ!?」
どう見ても命の危機なのに、何事も無いような素振りを見せている三人に向かって叫ぶ。
弓も構えず震えているバレルも驚く中、エディオンは屈伸を始めた。
「別にこれくらい。どうってことないから」
「そうね。ディオがいるし」
「ディオ君、悪いけどよろしく~」
屈伸を終えて最後に右肩を回してエディオンは前へ進み出る。
「ちょっ、いくらルーディアン様に鍛えられているからって、この数は」
周囲にいる獅子の数はおよそ三十ちょっと。
本来はもっと少ない群のはずの獅子だが、どうやら今回は大家族に出くわしてしまったようだ。
「大丈夫だって。そこで大人しくしてな」
ヒラヒラと手を振りながら前進していくと、三頭の獅子が一斉に飛び掛ってきた。
「危――」
モレットの叫びが終わるより先に、目つきが鋭くなったエディオンに迫った三頭の獅子は、まるで弾き飛ばされたかのように吹っ飛んでいった。
「な……い……?」
今の僅かな時間で何が起きたのか分からなかった。
危ないと叫ぼうとしている間に、襲い掛かってきた獅子が全部吹っ飛んだのだが、どうして吹っ飛んだのかが分からない。
エディオンが何かをしたのかぐらいは分かっても、その何かが分からない。
殴りなのか蹴りなのか、それすら分からないほど速い攻撃だった。
「さあ、来いよ」
短いその言葉を発し、体から強い闘気を発する。
その闘気に危険を感じ取り、無闇な接近は自殺行為だと本能で察した獅子達は後ずさる。
「ガァッ!」
一頭の獅子の鳴き声に反応し、エディオンがいるのとは反対側の獅子達が狙いをバレル達へ変更して飛び掛る。
「ひぃっ!」
思わず声を上げながらも、護衛としてバレルの前に立つモレット。
そのモレットのすぐ傍を何かが通過したと思ったら、迫っていた獅子は全部吹っ飛んでいた。
そしてその場には当然のようにエディオンがいて、殴る時に使った右拳を軽く前に出した状態で立っている。
「えっ? い、今の、一瞬で? あそこから、そこに?」
呆気に取られた表情で、さっきまでいた位置と今いる位置の間を何度も顔を左右に振って往復させる。
二箇所の距離は二十メートルくらいあり、よほどの手だれでない限り、とても一瞬で移動できそうな距離ではない。
「そうよ。あれくらい簡単にできるのよ、ディオにはね」
「さすがは私の友だ!」
よく意味の分からない感心をするバレルに反し、そんなアホなとモレットは呆けている。
そうしている間にも、周囲にいた獅子達が次から次へとエディオンに殴るか蹴るかされて倒されていく。
中にはエディオンが発する闘気に物怖じして、早々に逃げ出すのまでいる始末。
「す、凄い……」
初めてエディオンが戦う姿を目の当たりにしたモレットは、思わず感想を口にした。
友人の強さにバレルも感心しっぱなしで、獅子が吹っ飛ばされる度に無邪気な子供のように騒いでいる。
「ねっ、大丈夫でしょ~」
まるで心配する様子も無いウリランに話しかけられ、どうしてあそこまで余裕があったのかがようやく気づいた。
獅子など、例え群で囲んでいようとエディオンの相手にはならないのだと。
この森で一番危険な野生動物の一体である獅子相手でこれならば、熊や虎が出てきても同じように殴り飛ばすんだろう。
最後の一体を尻尾を掴んだ状態から持ち上げ、地面に叩きつける様子を見ながら、そう思うモレットだった。
「なるほど、ミミーナ様がエディオンさんがいれば大丈夫だと言うわけだ」
いくらルーディアンに鍛えられているとはいえ、これほど戦えるとは思えなかった事を反省し、大丈夫だと言うミミーナを信じなかった事に心の中で謝罪した。
「ただいま」
「おかえり~」
戦闘を終えて戻って来たエディオンをウリランがハグで迎える。
押し付けられる柔らかな感触に、たぎったままだった強い気迫が薄れ普段の雰囲気に戻った。
「悪い。訓練用に一頭は残しておくつもりが、全部やっちまった」
「別にいいんじゃない? 今日は初心者が二人もいるんだし」
皮肉の籠もったフィリアの言葉に、実際問題初心者である二人は何も言えずに目を逸らす。
「ところで、持ち帰って売るのはどれ?」
「重傷なのはあれとあれの二頭だ」
こういう状況になった場合、軽傷の獅子は自然へ帰すために手を出さないのがエディオン達の中での決まりになっている。
昔は加減が上手くできずにほぼ全てに重傷を負わせたり、逆に加減しすぎてしっぺ返しを喰らいそうになったりした。
何度かそのしっぺ返しで大怪我を負いそうになった事もあったが、まだ未熟だからと同行していたルーディアンの助けによって事なきを得た。
「トドメはどうする? やっぱ俺がやるか?」
「いや、アタシが」
「僕がやります! 任せっぱなしでは悪いので」
持ち帰る分の獅子へのトドメをフィリアがやろうとした矢先、横からモレットが立候補する。
「私もやろう。友人として、せめてこれくらいは手助けさせてくれ」
やたら友人の部分を強調しながら、バレルも腰に差している短剣を手に立候補した。
二人はエディオンが指差した獅子を、反撃されないよう警戒しながら一頭ずつ順番にしとめ、魔法の袋の中へ片付ける。
残りは種の保存のために放置し、そそくさとその場を立ち去った。
「ふう。どうなることかと思いましたよ」
ある程度移動し、ようやく一息つけた事でバレルとモレットも冷静さを取り戻した。
「ところで、他の獅子は放置しておいていいのか?」
「いいんだよ。全部狩ったら、いなくなっちまうだろ? そしたら狩人とかの収入がなくなるだろ」
「与えた傷も大したことないしぃ、放っておいても回復するよ~」
そういうものなのかと、腕を組んだバレルは頷く。
一方のモレットの方はというと、少し怒った表情でエディオンに詰め寄っていた。
「ちょっとエディオンさん! バレル様を危険な目に遭わせないよう、安全な場所でお願いしますと言ったじゃないですか!」
獅子に囲まれるような場所のどこが安全なのか。
その点について抗議をしていた。
しかし彼は、互いの中での安全に認識のズレが生じている事に気づいていなかった。
「安全な場所だろ? 俺がいれば何の心配もいらない、安全な場所だ」
首を傾げながらのエディオンの返事に、ようやくモレットは気づいた。
自分が言っていたのは、肉食獣やその群れがいるような場所は避け、ウサギや鳥のようなのしかいない場所の事。
対するエディオンの方は、自分がいれば何が出てこようが問題無い場所の事を言っていた。
その事に気づいたモレットは寒気を覚えた。
いくらルーディアンの息子で弟子とはいえ、獅子に囲まれるような場所でバレル達を守りながら戦えるはずがない。
そう思っていたのに、彼にとってはそれぐらいできて当然の領域にいた。
人を守りながら戦うことの難しさを、護衛として鍛えているモレットは分かっている。
だからこそ、今のエディオンの返答に寒気がした。
目の前にいる同い年の少年は、自分を遥かに越えている実力を身につけていると。
「なるほどな。どうりでディオだけでなく、フィリアさん達も落ち着いていたわけだ」
「そりゃあね、何度も守ってもらってるわけだし」
「もう慣れちゃったよね~」
守りながらの戦いが如何に難しいかを知らない三人の会話に、それがどれだけ大変なことなのかとモレットは頭が痛くなってきた。
同時に、その辺りの自覚がまるで無いのにそれを平然とやってしまうエディオンの実力に、自分との遠すぎる差を実感した。
「なるほど、さすがですね。違法な奴隷商とその護衛を捕まえたという話は聞きましたが、予想以上です」
驚きを通り越して感心しかないように言ったのは、以前にエディオンが関わった件だった。
「なんで知って……ああ、領主様のところにいるんだったな」
「はい。ミミーナ様からお話を聞きました。知っていますか? あいつらは」
「モレット!」
説明をしようとしたモレットを遮るようにバレルが叫ぶ。
先ほどまでの砕けた様子は消え、鋭い眼差しでモレットを見ている。
「そこから先は、私達の友人が望まぬ事だ」
望まない事と聞いて、話を止めさせた理由はエディオンは察した。
「そういう事か?」
「そういうことだ。ミミーナ様も、その点を外部には明かしていない」
しばらく睨みあうように互いを見ている二人。
やがてエディオンの方が先に笑みを浮かべる。
「なら知らなくていいや。その先は、俺の人生には無関係なままの方がいい」
「そう言うだろうと思ったよ」
続いてバレルも笑みを浮かべ、二人は突き出した拳を軽くぶつけた。
「モレット、そういう訳だから今のは口にしなくていい。分かったな?」
「は、はい!」
注意され、思わず直立して返事をするモレット。
彼が口にしようとしていたのは、あの奴隷商が位の高い貴族と関わっている事。
貴族にとって見れば、邪魔をしたエディオンに仕返しをしたいところ。
それを分かっているからこそ、ミミーナは違法な奴隷商を捕まえたとだけ明かし、誰が捕まえたかは明かさずにおいた。
彼女の想い人であるルーディアン同様に貴族社会を嫌う彼のひんしゅくを買い、ルーディアンから見放されないために。
だが、今はまだ誰も気づいていない。
あの時の奴隷商が集めた子供達が、どういう流れでどこへ連れて行かれ、何をさせられそうだったのかを。
「ところでエディオンさんは何で、そんなに貴族社会が嫌いなんですか?」
休憩を兼ねて見つけた果実を齧りながら、今更なことをモレットが尋ねる。
「ん? 親父に聞いた話から、面倒だなって思った。だから嫌いだ」
「……えっ? それだけですか?」
「悪いか?」
返答に困るしかモレットには道が無かった。
竜撃者になったルーディアンに貴族が集まって、貴族社会の実態を見て嫌いになった。
それは分かるが、話に聞いただけで嫌いになるものか分からなかった。
(単純なのか、それともよほど偏見的な説明をされたのか……)
どっちにしても実体験で嫌っている訳ではないというのは分かったが、だからといって体験してみたいかなど聞けるはずが無い。
結局この件については、これ以上は聞かず喋らずという事にしたモレットだった。
「さてと。休憩はここまでにして、そろそろ次の獲物を探すか」
「じゃあ、探知魔法でこの辺を探ってみるね~」
杖を手に探知魔法を発動し、周囲の様子を探るウリランだが、その表情が突如一変する。
「えっ? なにこれ……」
普段の暢気でのんびりとした表情は消え、信じられないような表情をした。
「どうした、何かあったのか?」
「分かんない……。分かんない、分かんない、分かんない! 何これ何これ何これ!」
怯えるように蹲って叫ぶ姿に、尋常じゃない何かを感じ取ったエディオンとバレル、モレットが周囲を窺う。
何があっても対応できるように構えを取り、バレルとモレットはそれぞれの武器を手に警戒する。
その間にフィリアはウリランを抱きしめ、何を探知したのかを聞き取る。
「落ち着いて。何があったの?」
問いかけに対してウリランは、体と言葉を震わせながら答える。
「黒くて、怖いものが、向こうから……こっちに……」
指差した方向を確認したエディオン達はそっちへ注目する。
全員を守るようにエディオンが前に出て構えを取り、近づいてくるものに備える。
「黒くて怖いものとは、なんだ?」
「分かんないよ! こんなの知らない!」
頭を振って怖がる様子に、尋常じゃない物が近づいているんだと全員が推測した。
エディオンはすぐに、以前にルーディアンから教わった気配察知を、近づいてくるという方向に向けて行う。
すると彼も感じ取った。
今までに感じたことの無い、禍々しい気配がこっちへ近づいてくるのが。
「「来る!」」
位置を把握している二人が叫んだのはほぼ同時だった。
そして繁みから、それは現れた。
体長四メートルはあろうかという、毛の色が真っ赤な熊。
四速歩行の体勢で繁みから現れたそれは、一直線にエディオン達へ向かう。
咄嗟にエディオンは避けようとするが、脇目で他の四人が固まっているのを見て、そっちへの対処を優先させた。
「ちょっと我慢しろ!」
一声かけて平手でバレルを突き飛ばし、蹴りでモレットを蹴飛ばし、尻尾でウリランを抱いたままのフィリアを弾き飛ばす。
直後に自分も転がるように回避行動を取り、直撃を免れた。
「あたっ!」
「いてっ!」
突き飛ばされた四人と回避したエディオンの傍を熊が駆け抜け、数メートル離れた場所でブレーキをかけて立ち止まり振り返る。
その目は充血しているかのように真っ赤で、口からはポタポタと唾液を零している。
明らかにまともな状態でない上に、エディオン達を狙っているのが分かる。
「グアァァァッッ!」
威嚇するかのような咆哮にエディオン以外は怯え、身がすくんで立ち上がることもできない。
「な、なんなのよ、アレ!」
震えているウリランを抱えているフィリアが驚く。
今までに何度も森に来て熊にも遭遇してきた彼女でも、目の前に現れた熊は見たことが無い。
「あ、あれは確か、魔物のブラッドベア! 熊が魔物化した中では最下級ですけど、れっきとした魔物です!」
モレットがもたらした魔物という言葉で、全員に緊張が走った。
「なんでぇ、なんでこんな普通の森に、魔物がぁ……」
「いや、普通の森に生息する動物や虫が、何かしらの影響で魔物化するという報告例はある」
震えながらバレルが説明した通り、魔物の生息域でない場所に住む生物が突如魔物化する報告は年に数回ある。
そういった魔物は今までの住処から、近くの魔物の領域まで移動する。
だが、その途中で森に遊びに来た子供や普通の動物を狩りに来た狩人のような、魔物と戦う力を持たない人達が遭遇し襲われる事件も報告されている。
というよりも、そういった事件から魔物化の報告が届いたりしている。
今のエディオン達の状況は、まさにそれだった。
「グルゥ……」
獲物に狙いを定めたブラッドベアがジリジリと距離を詰めてくる。
絶望しか感じ取れないこの状況下で、エディオンは決断した。
「お前達、すぐに逃げて警備隊でも軍人でも探検者でもいいから連れて来い! あいつは俺が食い止める!」
指示を出すと同時に魔力を全開にして全身に纏わせて強化する。
突如エディオンの雰囲気が変わったことで、本能が何か告げたのかブラッドベアの歩みが止まる。
「な、何を言っているんだ。逃げるなら皆で」
「俺や狼人族のフィリアならともかく、お前達はあいつより速く走れるのか! さっき駆け抜けたのより速く!」
無理。誰の頭にもそれが浮かんだ。
いかに俊足が自慢の狼人族のフィリアでさえ、さっきのスピードと競って逃げ切れる自信は無い。
「全員抱えながら逃げても、追いつかれるのは目に見えている。仮に町まで逃げ切れても、あいつが俺達を追って町に入ったらどうする!」
魔物の領域なら、逃げて領域から脱出すれば魔物は追ってこない。
しかし、ここは魔物の領域ではなく普通の森の中。
遭遇したブラッドベアがエディオン達を追わず、町にも入らないという保証はどこにも無く楽観視はできない。
「俺が足止めしている間に退治できる人達を連れて来い! いつまでやれるか分からない、早く!」
いくらエディオンでも、魔物との戦闘は経験が無い。
自分から飛び出そうとせず、魔力で体を強化して構えを取り睨み合う。
ブラッドベアも何故か動こうとせず、じっとエディオンから目を離さず睨んでいる。
そんな緊迫状態の中、真っ先に反応したのはバレルだった。
「分かった! 死ぬなよ!」
「当たり前だ。親父に勝つまでは死ねるかよ!」
緊張感を誤魔化すような軽口を叩いた後、すぐにバレルは動き出した。
「モレット、フィリアさん、ウリランさん、早く逃げるぞ!」
動けなかった脚を意地で動かして走り出すと、護衛の自分が離れるわけにはとモレットも立ち上がって走り出す。
しかし、相手が魔物ということもあってエディオンが心配なフィリアとウリランは、動けずにいた。
「で、でもディオが」
「置いていけないよぉ!」
今にも襲い掛かってきそうなブラッドベアから、二人を守りながら戦える自信がエディオンには無い。
初めての魔物との戦闘とあって、普段の余裕は欠片も無く、どこまで自分の力が通用するかも分からない未知の領域。
そんな状況で誰かを守りながら戦える自信などあるはずがない。
だからこそエディオンは、二人にガラでもない事を言った。
「行けって。俺を信じろ。それとも、俺を信じられないか?」
こういう言い方はちょっと卑怯だなと思いつつも、こう言わなくちゃ二人は逃げないだろうと分かっていた。
そしてそれは、言われた側の二人も理解していた。
こう言われたら、もう信じるしかないと。
「行け!」
再度叫んだ直後に二人は走り出していた。
立ち止まっていたバレル達と町の方へ一目散に駆けて行き、少しでも早く救援を呼ぶために。
「さてと、やるだけやるか」
深く息を吐きながら、体に纏わせていた魔力の一部を両手と両足に集中させる。
相対するブラッドベアは、相変わらず威嚇するような唸り声は上げて睨んではきているものの、何もしてはこない。
その理由を考える余裕も無いほど、今のエディオンは目の前にいる相手に集中している。
まさかこんな形で初めての魔物との戦闘を迎えるとは思っておらず、心の準備はできていない。
それでも、こうなった以上はやるしかないと腹を括った。
「親父ほどじゃないのは分かってるけど、どこまで通用するか」
魔力を込めた足でしっかり地面を踏みしめ、同じく魔力を込めた手をきつく握って拳を作る。
「やってやるよ!」
不安を振り払うように声を上げながら、全力で駆け出した。
強化した跳躍力で一気にブラッドベアとの距離を詰め、全力で右拳を突き出す。
初対面の脅威な相手に全てを注いだ攻撃をする。それ自体は間違っていない。
だが、エディオンは自身の力が、魔物相手にはどれくらい通用するのかを知らない。
さらに、初めての魔物との戦闘という緊張感から、相手との力の差をいつものように判断できなかった。
そのため、戦闘結果も彼の予想外の結果となった。
「……えっ?」
殴ったエディオンは戸惑いを隠せなかった。
困惑しながら、目の前で起きた事を整理していく。
拳が額に当たった瞬間、ブラッドベアは勢いよく吹っ飛んでいった。
額は割れて周囲に鮮血を撒き散らしながら。
僅かな断末魔の叫びの直後、何本かの木に体を打ちつけ地面に転がり動かなくなる。
そしてまさかの光景にエディオンは戸惑う。
今この辺り。
「……えっ? えっ?」
額からだけでなく口や目からも血を流すブラッドベアと、自分の拳を何度も往復して見て、その度に困惑した声を漏らす。
「えっ? なんで? どういうこと? えっ?」
何本もの木に当たった胴体からはどこにも出血は無い。
出血があるのは、拳が命中した顔の部分だけ。
よく見れば、額の辺りが陥没している。
「最下級だって言っていたけど、魔物……だよな、アレ」
自分でそうしたにも関わらず、状況を飲み込めないエディオンは、呆然とその場に立ち尽くす。
その様子を見ているのは、この森に生息している一羽の鳥。
鳥の目は、まるで射抜くように戸惑うエディオンの姿をじっと見ている。
だが、実際に見ているのはその鳥を通してエディオンを見ている、別の人物だった。
「なん……ですと……?」
現地よりずっと離れた場所にいる、暗い緑色のマントを羽織ってフードを被ったその人物は、鳥を通して見た光景に少しだけ驚いていた。
「ちょっと待ってくださいよ。あの人数の護衛を倒したから、それなりにできるとは思っていましたが……ブラッドベア程度とはいえ一撃ですか」
感心するように頷きながら分析し、何度か小さく頷く。
「かなりできるようですが、あの子は何者なのでしょう」
「テメェがそれを知るこたぁねぇ!」
疑問に思った直後、どこからともなく現れたルーディアンの拳がマントの人物の体を貫く。
しかし、攻撃の手ごたえがおかしかった。
当たったことは当たっているが、殴った感触が人のものではない。
マントの人物の体は貫かれているにも関わらず出血一つせず、足元の影の中へと吸い込まれるように消えていく。
そこから少し離れた場所から、今度は影がせり上がってきた。
「危ない危ない。あなたが住む町に近いから、念のために分身を使って正解でしたよ」
せり上がってきた影はマントの人物と同じ形状になり、見た目もそっくりに変化した。
「そういう事かよ。ちっ、面倒な魔法を使いやがって」
「私は慎重な性格でしてね。あなたと遭遇する可能性が僅かでもある以上、念には念を入れておきたいのですよ」
マントの人物が使っているのは闇属性の召喚魔法、シャドースピリット。
影から自分の分身を作り出し、それを操る魔法。
使い手が熟練であればあるほど分身との距離が離れても操れ、視覚や聴覚を共有できるため、暗殺や諜報活動に重宝される。
欠点としては術者の実力の三分の一程度しか力が発揮できない事と、魔力を多く消耗する事の二点。
「しかし、どうしてここが分かったのですか?」
「なんとなく、普段と違う気配を感じて、来てみたらテメェがいたってだけだ」
「……それだけですか?」
「文句あっか?」
分身が潜んでいたのは、普通の森のエディオン達がいた場所よりずっと奥地。
さらに言えば分身であるマントの人物の気配、存在感はよほど近くか直に目で見なければ気づかないほど薄い。
どこからその気配を察したのかは不明だが、なんとも常識はずれな感覚だとマントの人物は思った。
「はっはっはっ。さすがは竜撃者殿。分身を送って正解でしたね」
もしも自らが出向いていたら、今頃どうなっていたかとマントの人物は笑う。
「んなこたぁどうでもいい。テメェ、わざわざ分身を使ってまで何をしていた。そんなマントとフードで顔と体隠してんだ、碌な事じゃないんだろう?」
相手の事を迫力だけで威嚇しながら、様子を観察するが特に妙な事をする素振りは見えない。
分かるのは、さほど体が大きくない事と、声からして男だということくらい。
体から闘気を発しながら睨むルーディアンの迫力に、マントの男は一瞬たじろぐ。
しかし対峙しているのは分身という安心感からか、すぐに気持ちを持ち直して返答する。
「いえね。少し前に私共の大事な仕入れの邪魔をした子供に、ちょっと痛い目に遭ってもらおうかと思いまして」
飄々とした態度でそう告げた途端、ルーディアンの怒気と迫力が増した。
「仕入れっていうのは、この前捕まったっていう、ガキを集めていた奴隷商の事か?」
「ぐっ……。えっ、ええそうです。使い魔の目を通じて監視していたのですが、竜人族の子供に邪魔されましてね。痛い目に遭わそうと私が召喚したブラッドベアと遭遇させたのですが、返り討ちにあってしまいまして」
ルーディアンの発する怒気と迫力に押され、余裕が無くなったマントの男の口調は固くなっていた。
「当たり前だ。その程度の魔物、俺の息子の相手じゃねぇ」
それを聞いてマントの男は理解したと同時に、分身を使って良かったと心の底から思った。
自分が狙った相手がよりによって、最も警戒していた相手の息子だったのだから。
怒気が増した理由もそこにあるのだとしたら、もしも本人がここにいたら間違いなく殴り殺されていただろう。
「なるほど、どうりでブラッドベアを一撃で倒したはずです。あなたの息子さんだというのなら、納得です」
「御託はもういい。これ以上何かするってんなら、テメェの居場所を暴いてぶっ飛ばす」
今にも殴りかかりそうなほど拳を握り締め、目つきと表情が変わる。
「ご、ご安心を。ちょっとした仕返しのつもりでしたから、もう手は出しませんよ」
居場所も知られていないのに、何故かそれをやってしまいそうな雰囲気が今のルーディアンにはある。
遠く離れている本体を見つけ出し、ぶっ飛ばす雰囲気が。
「言ったな。先に言っておくが、お前の気配は覚えた。何かバカな真似をするなら、テメェの顔が陥没する覚悟を決めてからやるんだな」
最後の脅しにマントの男は大人しく頷くしかなかった。
「勿論です……。では、失礼」
「待て、テメェせめて名前を」
名前を聞きだす前に魔法の行使を終了させたのか、分身は消えて影に戻る。
周囲に気配が完全に消えたのを確認したルーディアンは、今度はエディオンの気配を探してそっちへ走り出す。
だいぶ近づいて頃には他の気配を感じ、木の陰に隠れながら様子を見る。
ちょうど救援が到着したようで、武装した警備隊員や軍人が複数人と、案内してきたらしきフィリア達の姿もあった。
バレルとモレットと大人達は額を割られて絶命しているブラッドベアに驚き、フィリアとウリランはそちらには目もくれずエディオンに抱きついて無事な姿に泣いていた。
「どうやら、俺の出る幕は無さそうだな」
後は一緒に来た大人に任せることにしたルーディアンは、今度は町の方、正確にはミミーナの屋敷へ向かう事にした。
つい先ほど対峙したマントの人物との事を伝えるために。
奴隷商の件については深く知らない。
しかし、分身と魔物を呼び出す二種類の召喚魔法、使い魔を通じての遠視。それだけの魔法を使う相手が私共と言った以上、何かしら偉い人物が絡む組織が何かをしようとしているんじゃないかと考えて。
「とにかく、あいつに伝えねぇと。俺じゃあ手に負えねぇや」
結局マントの人物についてルーディアンが分かったのは、何らかの組織の一員である可能性があること、声色からして男であること。そして強力な召喚魔法の使い手であることの三点。
今回はブラッドベアを召喚していたらしいが、魔物を召喚できる以上はかなりの腕前には違いない。
そんな相手がまたエディオンに何かしてもいいように、修行をもう少し厳しくやるかと心の中で決めた。
一方で分身を作り出したマントの男は、分身を召喚する魔法を解くと同時にその場に崩れ落ちた。
「はあっ! はあぁっ!」
周囲を石造りの壁に囲まれた室内で荒い呼吸を繰り返し、額に滲んだ汗を袖で拭い取る。
「まさかあの子供が、ルーディアンの息子だったとは。どうやら、これ以上は関わらない方が良さそうですね」
分身と同じく暗い緑色のマントを羽織りフードを被った男は、自身の中でエディオンを注意人物にした。
下手に手を出せば、面倒な相手が絡んでくると。
おまけにエディオン自身の強さも侮れない。
攻撃しろと命令しているにも関わらず、ブラッドベアが警戒して攻撃しなかった。
それはブラッドベアの本能が、自分とエディオンとの差に気づいて攻撃を躊躇っていた事を示している。
当のエディオンは、緊張からブラッドベアとの力の差に気づいていなかったが。
「しかし、いくらルーディアンといえど、ここを突き止めることなんて」
「できるかもしれないぞ。あの男なら」
話に割り込んできたのは、壁に寄りかかっている、同じくフードで顔を隠した紅のマントを羽織った人物だった。
その人物は体格は緑マントの男よりも一回り大きく、こちらも声色からして男と推測できる。
「あの男はそういう男だ。常識なんてものを平然と壊し、やれるはずがないと誰もが思う事をやってのける。ルーディアンとはそういう男だ」
まるでルーディアンの事を知り尽くしているかのような話しぶりに、緑マントの男はフードの下で微笑む。
「さすがですね。かつて彼に敗北した経験がある方が言うと、説得力が違う」
皮肉を込めた言葉にも紅のマントの男は言い返さない。
だが、彼の脳裏には蘇っていた。当時はまだ若かった、自分を倒した男の姿が。
「おや、言い返さないのですか?」
「事実は事実だ。屁理屈や言い訳を並べたところで、結果は変わらん。結果には、結果で返すしかない」
「なんともあなたらしいですね。では、私はこれで」
緑マントの男はそれだけを言い残し、魔力を多く消費して疲れた体を休めるため奥へ引っ込んでいった。
一人残った紅のマントの男は寄りかかっていた壁から離れ、思い出す。
先ほど緑マントの男がルーディアンとの会話中に発した言葉を。
「奴の息子……か」
ポツリと呟いて男は室内に足音を響かせながら奥の方へ歩いて行った。
最後に指を鳴らし、部屋に灯っていた明かりの火を消しながら。