少年が得られた日常
日が出て間もない早朝。
亜人の国、ガルガニア帝国のとある田舎町の外れにある広場で、息を切らしながら顔中から汗を流す少年がいた。
おおよそ十二歳くらいのその少年は構えを取り、目の前で余裕の表情と態度を取る父親に飛び掛る。
「しっ!」
とても十二歳とは思えない身のこなしからの鋭い突きを軽く捌き、同じく鋭い蹴りも何事もなく防御する。
「おらおら! もっと気合い入れろ!」
口先で言うだけでなく、自身も気合いを込めた声を発しながら叱咤する。
それに応えようと、少年は気合いの籠もった拳を突き出した。
「だあぁぁぁっ!」
しかし、そこはさすがに大人と子供。渾身の一撃は片手で受け止められる。
だが、受け止めた瞬間に発せられた音は、その日の中で一番いい音を発していた。
「よし、いい一撃だった。今みたいのを、繰り出す攻撃全部で出せるようになれ」
「分かったよ、親父!」
返答しながら身を捩り、背中に生えている尻尾で追撃する。
ところが、この不意打ちのような一撃にも父親は容易く反応し、尻尾を掴んで受け止めた。
「甘ぇっ!」
少年の甘さを指摘しながら、尻尾を掴んだ腕を振り上げる。
宙に浮いた少年は逃げる事もできず、地面に叩きつけられた。
「がっふっ……。げほっ、ごほっ!」
叩きつけられて息が詰まった少年は起き上がれず、ここで今回の修業は終わった。
「はっはっはっ! 今のも悪くはねぇが、考えも動きも甘かったな」
尻尾を解放して腕を組む父親に、少年は苦悶の表情を浮かべながら息を整えて上半身を起こし、悔しがる。
「ちっくしょう。やっと一撃は入れられると思ったのに!」
不甲斐なさと怒りから地面を拳で叩く。
少年の頭からは二本の赤い角が生えていて、金色の瞳を持つ瞳孔は縦長に割れており、背中から伸びている尻尾と両腕と両脚、そして額が赤黒い鱗に覆われている。彼こそ、十二年前に人間同士から取り替え子として生まれた、竜人族のエディオンだった。尤も、本人は自分が取り替え子であることも知らない。
指導をしている父親は十二年前に彼を引き取った、竜すら素手で退治した亜人最強の戦士、白虎人族の探検者ルーディアン。
彼の故郷であるガルガニア帝国の西方に位置する、ノヴィド王国との国境から歩いて二日ぐらいの距離にある、農業が盛んな町ラックメイア。そこがルーディアンの拠点であり、この親子の住む町である。
「まだまだ、お前には一撃も入れさせてやらねぇよ」
「言ったな! 絶対に一撃どころか百発は叩き込んで、その顔歪めさせてやる!」
悔しそうに地面を蹴りながら立ち上がって、ルーディアンと共に帰路へ着く。
町外れに建つ自宅の近くにある井戸まで移動して水を汲むと、二人揃って上半身裸になる。
汲み上げた水を頭から浴びたエディオンは、頭を振って、赤い角と伸び気味の黒髪から水滴を飛ばす。
「ぷはっ! 気持ちいい!」
水を浴びた気持ちよさからか、さっきまで苦々しかったエディオンの表情は晴れ晴れとしている。
「がはははっ! 修行後のこれは、何度やってもやめられねぇぜ!」
同じように上半身裸になったルーディアンも水をかぶり、適当に整えただけの白髪をかき上げながら水浴びを楽しむ。
長年に渡る修行と実戦で鍛え上げられ、所々に戦いの傷跡が残っているルーディアン。
まだ十二歳の子供ながら、少しずつ筋肉がついてきて引き締まって見えるエディオン。
そんな二人の水浴びをする姿に、通りすがりの人々。特に女性は熱い視線を向ける。
「どっちがいい?」
「私はやっぱり鍛え上げられたルーディアン様が」
「あたしはエディオン君ぐらいのが」
「アンタは少年ならなんでもいいんでしょうが、このショタコン」
通り過ぎる女性達が小声で二人の体つきを観察している最中、一台の馬車が近づいてきた。
馬車は徐々にスピードを緩め、やがて止まる。
すると馬車から一人の女性が降りてきてルーディアンとエディオンの下へ走り出す。
「コラーッ!」
突然の怒号にルーディアンとエディオンは、聞き覚えのある声に面倒そうな表情を浮かべ、二人に見蕩れていた女性達はハッと正気に戻る。同時に、自分達は何をしていたんだと自覚して、顔が真っ赤にしながら足早に去っていった。
一方の声の主は、二人の前で立ち止まって仁王立ちし、声を荒げて叫ぶ。
「こんな朝早くから天下の往来で何て格好をしてるのっ! それも親子揃って!」
現れたのは、三つ編みにした金髪と尖った耳が特徴的なエルフの女性。
来ている服装は優雅な雰囲気を漂わせているが、当の本人は怒り心頭な様子でいる。
周囲にいる見物人達は、そのエルフが誰なのかが分かると、まるでいつもの光景のように流して歩き出す。
「なんだ、領主様か」
「毎度の事ながら領主様は、ルーディアン殿の事になると人が変わられるのぉ」
「普段は冷静で理知的で素晴らしい領主様なのにねぇ」
現れた女性の名前はミミーナ・ラックメイア。この町と、周辺にある複数の小さな町や村を管理する領主を務めている、ラックメイア子爵家の現当主。
そんな人物が目の前に現れたにも関わらず、ルーディアンは平然と普段通りの態度で接する。
「うっせぇな。俺がどこで何をしようが、お前には関係ねぇだろ」
「大有りよ、このバカチン! こんな公衆の面前で、そんな、そんな格好なんかして!」
文句を言いつつ恥らうミミーナの視線は、ルーディアンの体に向いたり外れたりを繰り返している。
「別に下まで脱いでいるわけじゃねぇんだ。上着ぐらい脱いでもいいだろ」
「もう! こんな場所で水浴びせずとも、私の屋敷に住めばお風呂ぐらい準備させるのに」
「やなこった。誰が好んでわざわざお前の屋敷に住むかってんだ。俺には俺の家があるんだぜ」
「アンタはいつもそれね。いい加減に観念して、私と結婚して一緒に住めばいいのよ!」
突然の求婚にも関わらず、周りにざわつく様子は無い。
なぜなら、彼女がルーディアンに惚れ込んでいるのは町の皆が知っていることで、このような求婚も一度や二度じゃない。
毎回ルーディアンに断られているが、彼女は決して諦めずに今回も何度目か分からない求婚をした。
「ふざけんな。んなことしたら、面倒なだけの貴族社会に仲間入りしちまうだろ。心の奥底から断る。第一、俺はババアは趣味じゃねぇ」
「だ、誰がババアよ! 私はまだ百七十六歳よ!」
「充分ババアじゃねぇか、このババア」
「二度も言わないでよ! 千年生きるエルフにすれば、百七十六年なんて些細なものよ!」
その発言の通り、ミミーナの外見はとても百歳を越えているようには見えない。
まだ十代後半の少女のような見た目をしている。
だがそれが、彼女が千年は生きるエルフという種族だからこそ。
亜人は種族によって寿命はまちまちだが、エルフは特に群を抜いている。
ちなみにルーディアンの白虎人族ような獣人は百五十年。エディオンのような竜人族は百七十年ぐらいが寿命と言われている。
「んじゃ、まだまだガキだな。俺はガキは趣味じゃねぇ」
「誰がガキよ! エルフは百歳越えれば充分に大人なの! 百七十六歳の私は、ちょうどいいくらいの大人なの! 獣人族で言えば二十歳前後ぐらいよ!」
まくし立てるように詰めよるミミーナに対し、ルーディアンは興味無さそうに、あっそう。と素っ気無く返す。
「もう! 私のどこが不満なのよ! 自慢じゃないけどスタイルも悪くないし、見た目だってそれなりに自信はあるし」
「何度も言ったが、貴族社会に仲間入りするのが嫌なんだよ。爵位捨てて一人の女になったら、考えてやるよ」
その言葉にミミーナは押し黙る。
これまでにミミーナは、竜撃者として名を挙げる前から何度もルーディアンに求婚をしてきた。
貴族じゃないからと親戚筋に止められていたが、竜撃者として名を挙げた途端に親戚筋は掌を返すように応援しだした。
竜撃者という、貴族になって当然の名誉を得た国一番の戦士ならば文句は無いと。
結局貴族の話はルーディアン自身が断ったものの、その名誉から貴族からの婚姻の話は多くあった。
だがそれを全て断り、現在も独り身を貫いている。
名誉を得て十三年経った今となってはどこの貴族家も諦めており、求婚を続けているのはミミーナ一人だけ。
断る理由はミミーナも知っていたが、こうして改めて面と向かって言われると困ってしまった。
「無理よ。私には、この領地を守る義務があるもの。あぁ、でも……」
頭を抱えて悩んでいると、馬車からキチッとした背広のような服装をしたエルフの女性が降りてきた。
彼女は駆け足でミミーナに近寄って声を掛ける。
「ミミーナ様、そろそろ出発しないと会合に遅れてしまいます」
エルフの女性にそう言われたミミーナは、隣の領地の領主との会合に向かう途中だったのを思い出す。
「そ、そうだったわね。遅れたらアンタのせいだからね! 責任とって結婚してね!」
「なんでだよ! おい御者! 死んでも間に合わせろ!」
駆け足で馬車に乗り込む二人を気にせず、御者を睨みながら叫ぶと御者は怯えながら馬車を走らせた。
まだちゃんと座っていなかったのか、馬車からミミーナの悲鳴が聞こえるが、ルーディアンの睨みに震える御者には聞こえずそのまま馬車を走らせて去って行った。
「ったく、あいつは分かっている癖に懲りねぇな」
「でもさ、親父。親父もあの人は嫌いじゃないんだろ? なんで毎回断って追い払うんだよ」
ようやく面倒事が終わったと頭を掻くルーディアンに、上着を着たエディオンはルーディアンの上着を手渡しながら尋ねる。
「そいつはあくまで、あいつ自身が嫌いじゃないって意味だ。俺はあいつ自身じゃなくて、貴族っつう身分が嫌いなんだよ」
受け取った上着に袖を通しながら、如何にも面倒そうな声色で返事をする。
「貴族って身分が色々と面倒だから?」
「当たり前だ。というか、それ以外に貴族を嫌う理由がいるか?」
「いらない」
「だろ?」
あまりにもシンプルかつ単純な理由だが、ルーディアンにすればそれで充分な理由だった。
嫌いなのはあくまで貴族という身分であり、人物そのものは嫌いじゃなければ、貴族社会に巻き込まないという条件で付き合いを持つ。それがルーディアンの貴族に対するスタンス。
エディオンもそれには同意見で、同じようなスタンスを貫くつもりでいる。
(まっ、親が貴族かもしれねぇこいつを引き取ったのは、巻き込まれないって分かっていたからだがな)
角に付いた水滴をふき取るエディオンを見ながらふと思う。
仮に予想が正しかったとしても、親が亜人差別者という時点で貴族社会に巻き込まれることは無い。
そういう親は、子供を死産として既にいないことにしているはずだからだ。
いない子供を利用するなど、よほどの考え無しでしかやるはずがないのだから。
「あいつもなぁ。さっきも言ったが身分を捨てて結婚、っつう話なら俺も頷くけどよ。妙に責任感が強いから、領主って立場を放棄できねぇんだよ」
そう告げる様子から、ルーディアンもミミーナとの結婚を心の底から嫌がっている訳ではないことが窺える。
だが、直接そこを指摘することはしない。そんなことをすれば、彼女が責任感と恋愛感情の間で揺れ、激しく悩む事になると長年の付き合いで分かっているから。
年齢の事を挙げるのは、あくまで適当にでっち上げた言い訳に過ぎない。
「それによ、俺とあいつじゃ寿命が違う。嫁を残して先に逝って、悲しませたくねぇ」
千年生きるエルフとは違い、白虎人族を始めとする獣人族系の寿命は人間とそう変わらない。
竜人族であるエディオンですら、それは同じ。
唯一、エルフ系の種族だけが長い寿命を持っている。
「領主様の場合、親父が死んだら一緒に死ぬって言って、自分で命を絶ちそうだけどな」
「うわっ、やべぇ! なんかそんな光景が簡単に想像できる! さすがは俺の息子、大した想像力だ」
シリアスな空気が一瞬で霧散して、打って変わっておどけた空気になった。
そんな笑いの込み上げるような空気の中、親子は自宅に入る。
早朝の修行を終えて水浴びした後にするのは、朝食を取ること。
だが、この親子はさほど料理はできない。
せいぜい自分達で狩った動物の肉に塩を振って焼いた物に、黒パンと塩で味をつけただけの野菜スープを付ける程度。
後はたまに採取してきた果物を洗っただけで齧るのが、ルーディアンとエディオンの食事風景。
事実この日も、塩味だけの焼いた大量の肉と黒パンが五、六個に採取して保管していた果実の朝食がテーブルに並んでいる。
「おい、さっさと食えよ。遅刻すっぞ」
「大丈夫だって。いざとなれば、全力疾走すりゃ二十五秒で着くんだからさ」
二十五秒と言っても、家から学校までの距離は結構離れている。
ここで出てきた全力疾走とは、普通に走るのではなく魔力で身体強化し、なおかつ人家を屋根伝いに全力で駆け抜けた場合の事を言う。
ちなみに普通の道を強化せず普通に走った場合、エディオンは歩いて二十分の距離を二分半で到着できる。
「なんだよ、二十五秒も掛かるのかよ。俺ならあの程度の距離、四秒で着くぜ」
「今の俺と親父を一緒にするなっての。んじゃ、行ってくる」
食事を終えたエディオンは鞄を手に家を出る。向かう先は、学校。
ガルガニア帝国は国力強化のために、貴族だけでなく一般庶民にも十歳から十五歳の間は教育を受けるよう義務づけ、そのための法律や制度もある。
そのため、就学前でない限りは誰もが読み書き計算をし、魔力という魔法を行使したり身体能力を強化したり、魔道具という特殊な道具を使うための力を最低限扱えるくらいはできる。
より高度な学習ができる高位学園という学校は大きな町にしか建てられていないが、基礎的な勉強を教える学校は、どんなに小さな町や村にも規模は違えど建てられている。
といっても、田舎の小さい村では、国からの教育助成金で仕事をリタイアした老人を雇い、改築した空き家を学び場にして子供達を教育するのも珍しくはない。
一応は領主が住む町に建てられているエディオンが通う学校は、それなりの規模を誇り、大きさではラックメイア領内では一番大きく、生徒も一番多い。
そこへ歩いて登校中のエディオンの背後に、本人なりにこそこそしながら近寄る人物。気配は感じているが、悪意は感じないことからエディオンはそのまま放置する。
「え~い」
近寄っていた人物のものと思われる緩い感じの声と共に、柔らかい感触がエディオンの背中に当てられる。
それだけで、誰が背中にくっ付いてきたのか理解した。
「えへへぇ、おはよぉ」
顔だけを後ろに向けると、やたら大きな胸を押し付けてくる牛の角と尻尾を生やした、肩までウェーブのかかった白髪の少女が緩い笑みで挨拶してきた。
「よっ、ウリラン。今日も熱烈かつ気持ちのいい接触をありがとう」
お礼と一緒に押し付けられた胸の事を告げるが、当のウリランという少女は気にした様子は無い。
むしろ、笑顔のままさらに胸を押し付けてくる。
「うふふん。ディオ君を、ゆ~わくできたかなぁ?」
「されたされた。どう? 今日は俺のうちに泊まりで遊びに」
「コラーッ!」
会話をする二人に怒りを露にした叫びがかけられた。
声の主が誰なのか、すぐに分かった二人は土煙を上げながら駆け寄ってくる人物を待つ。
「ああああ、あなた達! 朝から何をしているの!?」
先ほどの声の主である少女が、くっ付いたままの二人の手前で土煙を巻き上げながら急停止する。
ビシッと指で差しながら二人の状態を指摘するのは、狼の耳と尻尾に灰色の髪をショートカットにしている、二人にとって同い年の幼馴染に当たる少女。
半そでシャツにショートパンツという格好のため、ほとんど晒している脚部は子供ながら見事な脚線美で、とても土煙を上げるほどの脚力を持っているようには見えない。
残念に思うのは、ウリランとは正反対の平坦な胸くらいだろうか。
そんな彼女は怒っているせいか、耳と尻尾がビンビンに立っている。
「何ってぇ、ディオ君をゆ~わくしてるのぉ。にへへ~」
「ゆ、誘惑って……!」
「フィーちゃんもすればぁ? ほら、ディオ君の胸は空いているよぉ」
フィーちゃんと呼ばれた狼人族の少女。名はフィリア。彼女は顔を真っ赤にしつつも、エディオンの胸元に視線が行く。
立っていた耳と尻尾は徐々に垂れていき、強気な態度も弱々しくなっていく。
その視線とウリランからの誘い、そしてウリランの様子をただ見逃すエディオンではない。
「よっしゃ、いつでもこい」
両腕を開いて胸で受け止める体勢を取ると、フィリアの顔色はさらに赤くなる。
耳も尻尾もすっかり垂れ下がり、力なく下を向いている。
「あう、あう……」
反応に困って言葉さえも上手く出ない状態になってしまい、怒ってその場を去ろうとも胸に飛び込もうともしない。
それを見かねたエディオンはウリランとアイコンタクトを交わし、二人同時に頷いて行動に移す。
「「せーの、ドーン!」」
「はうあぁぁぁっ!?」
背中から離れたウリランとタイミングを合わせ、二人同時にフィリアに飛び込み、エディオンが二人をしっかりと抱きしめる。
突然抱きしめられたフィリアは、悲鳴なのかよく分からない声を上げた。
両手をワタワタと動かし、振り払おうとも押しのけようともせず、ただ慌てるのみ。
しかし、嬉しいことは嬉しいのか、耳と尻尾がパタパタと勢いよく動いている。
「えへへぇ。フィーちゃんも一緒にディオ君をゆ~わくだねぇ」
緩い口調と笑みが特徴的なウリランと、こういった事に対する耐性が低いフィリア。どちらもエディオンとは同い年の幼馴染で、本人達はあだ名で呼び合うほど仲が良い。
双方ともエディオンに気があり、それをお互いに知っていても取り合うことなく、どっちが気に入られるかで堂々と勝負するくらい。
といっても、先手先手を仕掛けるウリランが、平等な勝負をするためにフィリアを巻き込む、ということが多い。
「ゆ、誘惑って、アタシはウリちゃんほど胸は……」
「安心して、フィーちゃん」
「へ?」
珍しく真剣な表情をウリランがしたため、何事かと思わずフィリアは身構える。
「フィーちゃんにはこの、それはそれは見事な脚があるからね~」
一瞬で表情をいつもの緩い笑みに変えたウリランは、晒されているフィリアの太ももに触れて撫でる。
「ふひゃあぁぁぁっ!?」
驚きと何故か走った快感が入り混じった声を上げたせいか、周囲にいる人々が思わず振り返る。
主に反応しているのは、エディオン達と同じく登校中だった少年達や、仕事に向かう途中の男達。
「ほらぁ、ディオ君も触ってみなよ~」
「よしきた。どれどれ?」
「ふわああぁっ!?」
同じようにエディオンも太ももに触れて撫でると、相手がエディオンということもあってか、先ほどより大きな声が上がる。
さすがに二度目とあって振り返る人はいなかったが、耳を傾けているのは大勢いた。
「ふむ、確かに。胸はウリランの方が圧倒的だけど、フィリアのこの脚は見た目も触り心地も見事だな」
平然とした様子で高評価をするエディオンに対し、触られてるフィリアは耳まで真っ赤になっていく。
「な、何するのよ、あなた達は!」
変な声を上げてしまった羞恥心と、了解も無く脚を触った事に対する怒りに身を任せ、拘束から脱出して全力の回し蹴りをする。
狼人族は脚力が強く、それは走るスピードだけでなく蹴り技にも生かされている。
結果、とても十二歳の少女とは思えないほどのスピードと威力が、その回し蹴りには込められている。
だがそれも、当たらなければ意味が無い。
「危ねぇな。俺ならともかく、ウリランに当たったらシャレにならねぇぞ」
普段からのルーディアンとの修行の賜物か、エディオンはまるで何事もないかのように回避していた。
しかも避けられないであろうウリランを、ちゃっかりお姫様抱っこで救出した上で。
「あっ、ご、ごめ」
「にへへ~。ディオ君のお姫様抱っこだぁ」
だらしない笑みを浮かべてエディオンの胸元に頬ずりするウリランに、蹴られそうになった事に対する怒りも恨みも無い。
親友の性格上、こうなる展開は予想しており、近くにいるエディオンが必ずそれから救ってくれると信じていたからである。
それが予想通りに実行されたらされたで、信じていた通りだと嬉しくなり、胸を押し付けながら頬ずりをしてちょっとばかりサービスしてあげた。
「よし、ウリラン。もっとしっかり捕まっておけ」
「は~い」
思わず蹴ろうとした事を謝ろうとしていたのに、想い人と想い人の隣を競う仲の親友がイチャつきだした。
収まっていた怒りが再燃し、フィリアは二人に次から次へと蹴りを繰り出す。
「いい加減に、しなさい! 人が恥ずかしいと、思ってること! 平気で、やっちゃうなんてさ!」
それらの蹴りをウリランを抱えたまま避けながら、エディオンはフィリアの言葉に耳を傾ける。
「そりゃアタシだって、もっとくっ付いたり、誘惑したり、したいけど、さ! 恥ずかしいんだから、仕方ないじゃない!」
喋った内容は、積極的になれない自分への愚痴。
半ば八つ当たり的に蹴られそうになっている理由はそれかとエディオンは気づき、どうしたものかと考える。
抱えられているウリランは、楽しそうにキャーキャー言いながらエディオンの首にしがみ付いていて、フィリアを止めようとしない。
「落ち着けって」
「無理に決まってんでしょうが!」
怒り任せの攻撃は徐々に大振りになり、回避が容易になっていく。
それを見抜いたエディオンは次の攻撃を避けず、右足の裏で受け止める。
「へっ?」
受け止めるとは思っていなかったフィリアの気が一瞬抜ける。
「ほいっと」
「えっ、うわっ!?」
ちょっと力を入れて押し返すと、そのまま倒れてしりもちをつく。
痛そうに尻を擦っている間に抱えていたウリランを下ろすが、名残惜しいのかウリラン自身が離れようとしない。
「ねぇ、もうちょっとぉ」
「分かった。期待に応えよう」
腰に左腕を回してしっかりと抱き寄せる。
そして空いている右手をフィリアに差し出した。
一見すれば微笑ましい光景のように見えるが、手を差し出す側はだらしない笑みを浮かべ、「うへへ~」と気味の悪い笑い声を発している女性の腰に手を回して抱えている。それが微笑ましい光景を台無しにしている。
「あのねぇ……」
怒った原因が現在進行形で続行されている様子に、転ばされて一度吹き飛んだ怒りが再燃してくる。
「ん? どうした?」
「どうした? じゃなーい!」
差し出された手を取らずに立ち上がったフィリアが両腕を上に突き上げながら叫ぶ。
如何にも怒っている態度だが、最たる原因のエディオンは意味が分からず首を傾げる。
その事に再度怒ろうかというタイミングで、学校の鐘が鳴った。
「ヤバッ。急ぐぞ」
遅刻を回避すべく、エディオンは抱きしめていたウリランを持ち上げて肩に担ぎ、フィリアも強引に引き寄せて脇に抱える。
これまでのおちゃらけた雰囲気は消えて、真剣な表情になって駆け出す。
特に身体強化の魔法を使ったわけではない。単純に魔力で脚力を強化しただけ。
それにも関わらず全力で走る馬以上の速度を出し、周囲の人々に迷惑が掛からないように避けながら走り、あっという間に学校へと到着する。
日々ルーディアンからの修行を受けているエディオンからすれば、同い年の少女を二人抱えたままでも
「あ~、楽しかった。明日もこれで登校しようよ~」
「俺はいいけど、フィリアは大丈夫か?」
「はにゃあ……」
強引に抱えて連れて来られた二人は、ウリランは楽しめたようで喜んでいるが、フィリアは突然抱きかかえられた事と猛スピードのショックで意識が飛んでいた。
反応が無いのを大丈夫かと思いつつも、とりあえずは教室に連れて行こうと二人で片腕ずつ握り、フィリアを引きずって教室まで連れて行った。
****
「はあ……。毎度のことながら、ディオとのやり取りはキツイわ」
「でも楽しいでしょう? それに抱えられたとき、嬉しそうだったしね~」
「まあ……否定はしないわ」
ポツリとそう呟いて、楽しそうにクラスメイトの猫人族の男子と喋るエディオンを見る。
視線は自然と腕の方に集中し、さっきはあの腕に抱かれたんだよねと心の中で呟く。
「にゅふふ~。分かる分かるよ。ディオ君に抱えられるのって、何故かスッゴク気分がいいんだよね」
「えっ!?」
親友の言葉に心を読まれたかとフィリアは驚く。
「フィーちゃんは気に入ったものをじっと見る癖があるからねぇ。ディオ君の腕に熱い眼差しを送っていれば、すぐに分かるよ」
そんな癖があったのかと、恥じらいから頬を赤くして視線を他所へ逸らす。
如何にも誤魔化している感があるが、そういうところが可愛いんだよねとウリランは密かに思っていた。
「もうちょっと素直になりなよぉ。もっとこう、ディオ君の腰にしがみ付くとか胸に飛び込むとかさ」
「寧ろ、なんでウリちゃんはそうホイホイくっ付けるの……」
「? 好きな人にくっ付きたいのは当然でしょう? えへへ~」
いつものだらしない笑みを浮かべる姿を見て、尋ねた自分が馬鹿だったとフィリアは俯いた。
この親友は、時折長い付き合いの自分ですら予想しない、斜め上の言動を平気でする。
同じくらいの付き合いの想い人はまだ予想できるが、親友の思考回路には未だに理解が追いつかないでいた。
「ホント色々と自由よね、ウリちゃんは」
「子供から自由を取ったら何も残らないよ~」
そんな、普段の何気ない会話の最中、教室の扉が勢いよく開かれる。
「オラァッ! エディオンはいるかぁ!」
まるで荒くれ者のように現れたのは数名の上級生。
やたら殺気立っているが、教室内にいる生徒は誰一人として怯えた様子は見せない。
「はぁ……。何か用っすか、先輩方」
クラスメイト同様に、そんな殺気をものともしないエディオンが溜め息混じりに歩み寄る。
「今日こそはケリつけてやらぁ! 表出やがれ!」
本当にチンピラのような先輩達に連れられて、エディオンは外へ向かう。
その後ろを、少し間を開けてクラスメイトが追う。
さらに他所の教室からも人が出てきて、後をついていく。
校庭に出ると、先輩どころか後輩や同学年が入り混じった、同じ志を持つ数十人からなる団体が待ち構えていた。
案内してきた先輩方もそちらに加わり、エディオン一人に対して数十人が対峙する。
ついてきた無関係な生徒達は、エディオンの後ろから遠巻きに様子を窺っている。
「よく来たな! 今日こそテメェに引導を渡してやる!」
腕組みをして集団の先頭に立つ、虎人族の最上級生が吼える。
「今日のこれの理由もいつもので?」
「当たり前だぁ! 俺達のアイドル、ウリランちゃんとイチャイチャベタベタしやがってぇ!」
彼らは自称ウリラン親衛隊。
牛人族ゆえに十二歳とは思えない胸や尻をしているウリランを愛し、悪い虫から守り、平等に愛そうという目的で結成されたおよそ五十人ほどの隊。
彼らが最も目の敵にしているのは、幼馴染であり、毎日のように引っ付かれて彼らの最も愛する胸を押し付けられ、それを平然と受け入れているエディオン。
例えそれがウリラン自らが行っている行為だとしても、彼らは認めない。
見かけるたびにこうして呼び出しては、怒りと恨みと妬みを口にして集団で制裁を加えようとする。
「いくぞ同志達よ! 今日こそ奴に我らの鉄槌を下すのだ!」
『オォォォォォッ!』
大勢の少年達から暑苦しい雄叫びが上がる。
それにたった一人で対峙するエディオンは面倒そうに頭を掻き、目の前にいる少年達の持ち物を見る。
魔法を使う少年達の手持ちは初級どころか練習用の杖。近接タイプは剣や槍等を持っているものの、どれも刃を潰してある修行用。
ここが子供の通う学校という以上は、こうした物しかないのは仕方のないこと。だがエディオンにとっては、目の前にいる少年達程度ならもっと高位の杖や、刃を潰していない武器を持っていても問題じゃない。
なぜなら、彼に稽古をつけているのは竜撃者であり、歩く非常識とも言われるルーディアンなのだから。
「さあ、いざ制裁の時間だ!」
リーダーの掛け声に親衛隊員達が動き出す。前衛陣はエディオンを包囲しながら距離を詰め、後衛陣は魔法での支援攻撃を開始する。
前衛の間をすり抜けるようにして魔法がエディオンに降り注ぐが、傍観している生徒達ですら誰一人慌てていない。
彼ならこの程度、息をするように軽くなんとかしてしまうと分かっているからである。
「もうちょっとマシになってからやれよ。ったく」
めんどくさそうに虫でも払うかのように、飛来する魔法を素手で叩き落としていく。
属性が火だろうが水だろうが風だろうが土だろうが、形状が矢だろうが刃だろうが槍だろうが、魔力で軽く覆っただけの手で全てを防御する。
時折弾き返した魔法が接近する前衛や、魔法を放った後衛まで飛んで悲鳴が上がるが、特に気にせず払っていく。
「魔法止め! 全員で押さえつけろ!」
周囲の惨状も必要な犠牲だと割り切ったリーダーの指示で、周囲に展開していた前衛陣が一斉に飛び掛り押さえ込もうと迫りくる。
それに対して何の抵抗もしないエディオンは、彼らの計画通りに腕、脚、胴体、角、尻尾とあらゆる個所にしがみついて動きを封じられた。
さらに後詰とばかりに魔法攻撃を止めた後衛陣もそれに加わり、前衛陣の背中を押して中心にいるエディオンを四方から押さえ込む。
「はっはっはっ! これまで散々煮え湯を飲まされてきた我々だが、遂に年貢の納め時だな!」
後は押し倒し、数人がかりで物理的に制裁を加えるだけ。
高らかに笑いながらそう考えていたリーダーの少年だが、肝心のエディオンが倒れない。
どんなに押しても引いても、しがみついている仲間達と息を合わせても倒れない。まるで足の裏から根が生えて、大地に根付いている大樹のように。
しかし人間に根が生えているはずがない。
「どどど、どなってんだ!? ようやく。三十六回目にして初めてお前を捕らえられたのに!」
「ちげぇよバーカ。捕えさせてやっただけだよ」
呆れながら呟いたエディオンは上半身を軽く捻る。
何人もの人がしがみついたままにも関わらず体を動かしたことに、しがみついている親衛隊員達は動揺する。
だが、これで終わりではない。
「というわけで、吹っ飛べや。加減はしておくからさ」
少しだけ魔力で体を強化し、捻った反動を利用して勢いよく回りだした。
その場でスピンしたことでしがみついていた親衛隊員達は振り回され、まるで武器代わりのようにされて周囲にいる仲間達を蹴散らしていく。
蹴散らされた親衛隊員がまた別の親衛隊員を巻き込み、さらに中心部が崩れたことで外側から押していた親衛隊員達は、支えを失って前のめりになって倒れ前方の仲間にのしかかる形になる。
しがみついたまま振り回されていた面々も、遂には回転の勢いに耐えきれず、エディオンを捕まえていた手を放す。
彼らは砲弾のように飛んでいき、地面に叩きつけられたり、起き上がろうとしていた仲間達を激突したり、既に倒れていた仲間達の上に落下したりする。
やがてエディオンが回転をやめた時には、親衛隊員達は全員地にひれ伏していた。
「くそっ! 何故だ、どうしてあんな状態で動けるんだ!」
うつ伏せの状態からのけ反るように上半身を起こし、悔しがって地面を叩くリーダーの少年。
そこへ歩み寄り、エディオンは簡潔に告げる。
「俺が親父に鍛えられたからだ!」
生ける伝説とも言えるルーディアンに鍛えられたエディオンならば、五十人に囲まれて押さえつけられても振り回せる。
それを目の当たりにした見物している傍観者達は、根拠の無いエディオンの説明にも妙に納得した。
特に幼馴染として一緒に過ごしていたウリランとフィリアは、納得どころかエディオンならあれくらい当然だと思っている。
「だ、だからって! あんな状態から」
「うっさい。これで懲りたろ、いい加減に毎回これやるのやめてくれよ。十三回目辺りから飽きて、どうやって全員倒すか考えて遊んでだからよ、こっちは」
気怠そうにこれまでの三十六回のうち、ニ十四回を遊んでいたという事実を伝える。
すると、リーダーの少年はショックでがっくり崩れ落ちた。
これまでの負け方のほとんどが遊びで負かされたと知り、ショックを受けたようだ。
さすがにこれで諦めたかと思ったが、彼は往生際が悪かった。
「くそっ! 俺は、俺は諦めんぞ! 我らが愛するウリランちゃんのため、貴様に鉄槌を」
最後の力を振り絞り、立ち上がってエディオンに襲いかかる。
誰もが思った。なんと無謀なことをと。そしてそれは現実になる。
「黙れ吹っ飛べ」
一歩踏み込んで突き出した右拳がリーダーの少年に命中し、後方へと吹っ飛んでいく。
「あぁぁぁぁぁ……」
エコーを残しながら吹っ飛んだリーダーの少年は、地面を数回バウンドし、最終的に学校の外壁に背中から叩きつけられて地面に倒れ込んだ。
「わぁっ! 凄いねフィーちゃん。私、人が地面を何度も跳ねて壁に叩きつけられるのって、初めて見たよぉ」
「いや、アタシも見たことなんてないから……」
どこかズレた感想を口にする親友に呆れつつ、あくびをしながら戻ってくるエディオンを見ながら思い出す。
(人が地面を跳ねるのはね……)
確かにフィリアは、人が地面を跳ねて壁に叩きつけられるところは見た事が無い。
ただ、熊が地面を跳ねて木の幹に叩きつけられたシーンは見た事があった。
今から四年前、ウリランとエディオンと三人で付近の森に遊びに行った時に、大型の熊と遭遇。突然の遭遇に驚いたウリランは失神し、フィリアは脚が震えて動けなかった。
しかしエディオンだけは違った。まるで何も問題が無いかのように平然と威嚇する熊に歩み寄り、熊の攻撃を掻い潜って腹部に拳を叩き込んだ。
殴られた熊は今回のリーダーの少年のように吹っ飛んで地面を一回跳ね、木の幹に正面から突っ込んで動かなくなる。
目の前で起きた光景にポカンとするフィリアだが、もっと驚くことになる一言をエディオンが言った。
『ちぇっ、まだまだだな。親父が殴ったら吹っ飛ぶんじゃなくて、拳が貫通するっていうのに』
熊を倒しておきながら、倒し方に満足していない様子にフィリアは言葉を失う。
後に聞いた話では、相手が吹っ飛ぶのは打撃を与えた時に力が分散して伝わるから。分散せずに力が伝われば、貫通くらい簡単にできるとルーディアンに教わったらしい。
『そ、そういうものなの?』
『実際に見たから間違いない』
思わずかつての出来事を思い出し、フィリアは改めてエディオンを見る。
親友に飛びつかれて色々と押し付けられてニヤニヤする姿には若干の怒りを覚えるものの、もはや見慣れた光景。
あれから四年経って想い人は強くなったが、自分達との接し方は変わらない事に安堵感を覚える。
強くなって調子に乗り、性格まで変わるのは珍しくないからだ。
想い人がそういう事にならなくて喜んでいると、未だに想い人と引っ付いたままの親友から声をかけられた。
「さぁ、フィーちゃんも勝利のご褒美にギューってしてあげてぇ」
「えっ?」
「いつでも来い。というか今すぐ来い。あいつらの相手は面倒だけど、勝てばこんなご褒美がもらえるならいくらでもやるぜ」
登校時と同じような流れになってきた事に、精神的な疲れを感じつつも、偶にはいいかとそっと腕に寄り添った。
しかし彼女は知らない。この後、もっと思いっきりとウリランに背中を押され、さらに受け止めたエディオンによって抱きしめられることになると。
直後、恥ずかしさからかフィリアの悲鳴が周囲に響き渡り、周囲はいつも通りのやり取りを生暖かく目で見送りつつ、各自の教室へ戻っていった。
これが、今のエディオンの送る日常。
自分の本当の親がどこの誰かも知らず、ただルーディアンの息子であり弟子として送る日々。
騒がしい周囲、何かとアピールしてくる幼馴染、諦めずに父親に求婚する領主。
そんな人々に囲まれたエディオンは、ルーディアンからの非常識とも言える修業を積みながら、目標へと歩き続けている。
竜の聖域で二番目に強いと言われていた竜を、たった一人、素手で倒した育ての父。ルーディアンを越えるという目標に向けて。