プロローグ
深夜ということもあり、静まり返った町。明かりが点いている家や建物はまばらで、道行く人は酔っ払いと街娼と巡回中の警備兵ぐらい。
そんな深夜にも関わらず、町で一番大きな領主の館には、まだ明かりが灯っていた。
館の中では主である伯爵が腕を組み、不安そうにしている。
彼が立ち入らないよう言いつけられた部屋に、数名のメイドがバタバタと駆け込んでタオルやお湯、明かりを増やすための蝋燭を持ち運ぶ。
その部屋の中では、伯爵の妻が出産に挑んでいた。もしも男の子が生まれれば次期当主ということもあり、使用人達も慌しく動いている。
初めて立ち会う出産という場に、何もできず妻と子の無事を祈ることしかできない伯爵は、とにかく祈り続けた。
それからどれだけ時間が流れたのか、ようやく部屋の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「おぉっ! 生まれたか!」
「おめでとうございます、お館様」
傍で付き添っていた老執事と握手を交わし、喜びを露にする伯爵。
ところが、その喜びは続けて聞こえてきた悲鳴によってかき消された。
「きゃっ!?」
「どうした、何があった!」
殴るように扉を叩きながら、中にいる医者とメイド達に呼びかける。
子供の泣き声がまだ聞こえることから、伯爵は妻に何かあったのではと気が気ではない。
とにかく何があったのか知りたくて、夢中で扉を叩いて中に呼びかける。
「おい! どうしたというのだ! 答えろ、誰か!」
老執事が止めに入ろうとした直前で扉が開き、伯爵家お抱えの医者が顔を出す。その表情は曇っていた。
「おいモルゾフ! 今の悲鳴は何だ! 妻に何かあったのか!?」
「お館様、落ち着いてください!」
医者の襟を掴んで迫る伯爵。医者の苦しそうで、とても喋れなさそうな状態に、今度こそ老執事は止めに入る。
力の籠もった手をどうにか襟元から外し、医者を解放する。
「はあぁっ、はぁっ。ご、ご安心を、奥様はご無事です」
「ならば、今の悲鳴は何だ!」
「そ、それはその……」
睨み付けて迫る伯爵の気迫に医者は言いよどむ。
「えぇい、どけ!」
埒が明かないと判断した伯爵は、医者も老執事も押しのけ部屋に入る。
部屋の中には疲れきった様子でベッドに横たわり、顔を真っ青にしている妻。そして驚きの表情を浮かべ、近くにいる者と小声で会話をする、手伝いとして医者に貸したメイド達。
彼女達は一様に、生まれた子供がいるであろう寝台の上を見ている。
「どうした! 子供に何かあったのか!」
伯爵の質問に誰も答えない。
ならば自分の目で確かめるしかないと、群がるメイド達を押しのける。
奇形か、それとも何かしらの障害があるのか。あらゆる可能性を考えながら、泣き声を上げている自身の子を見る。
「こ、これはっ!?」
大きさと泣き声は普通の赤子と変わらない。
だが、伯爵にとっての普通とは大きく逸脱している点があった。
頭には小さいながらも二本の赤い角が、背中から分かれて伸びているかのような尻尾が腰辺りにあり、耳は先端が鋭く尖り、薄く開いている目には縦に割れている瞳孔がある金色の瞳がある。
そして尻尾や手足、背中に額と、体のいたる所が赤黒い鱗に覆われていた。
「ご、ご覧の通り、ご子息は……その、取り替え子です。見た目から、おそらくは竜人族ではないかと……」
取り替え子。
詳しい理屈は分かっていないが、隔世遺伝で親とは全く違う種族として子供が生まれる、チェンジリングとも呼ばれる現象。
よくあるのはエルフやハーフエルフだが、それ以外が生まれることも決して珍しくない。
しかし、ここで問題になるのは、生まれた子を親がどう扱うかであった。
例え取り替え子であろうと、腹を痛めて産んだ大事な子だからと育てる親。
種族的に自分達の手には余ると判断して、里親を探す親。
気味が悪いから育てたくないが、金にはなるだろうと奴隷商に売り飛ばす親。
そしてこの、生まれたての竜人族の子の親である伯爵は。
「ふざけるなっ! このような汚らわしい物が、私の子であるものか! 即刻処分しろ!」
その場で自分の子を捨てた。
ここ、ノヴィド王国内において、竜人族やエルフのような亜人に対する反応は三つに分かれる。
手を取り合って共存していこうと考える穏健派。
亜人自体は好まないが、取り引き等の関係で有益な相手だからと交流する割切派。
そして有益だとかも考えず、徹底的に嫌う差別派。
この伯爵は亜人に対して差別派に属しており、彼にとっては亜人は汚らわしい物。物、つまりは生物としてすら扱っていない。
「しょ、処分、ですか?」
「そうだ! だが、屋敷をこんな物の血で汚すのすら腹立たしい。おい、お前! このゴミを即刻外へ運び出して処分してこい!」
その場にいたメイドの一人を適当に指差し、子供の処分をするよう命令した。
命令されたメイドは自分がするのかと戸惑い、オロオロとしている。
「何をしている! さっさとしろ!」
激怒する主人の声に、メイドは反射的に動いて産着姿の赤ん坊をタオルで包んで部屋から連れ出す。
部屋の中に残ったのは、怒りが冷めない伯爵と、亜人を産んで夫に何を言われるかと怯える妻、そして自分に子供の処分が言い渡されずに済んでホッとするメイド達と、何もできず立ち尽くす医者が残った。
一方で子供の処分を言い渡されたメイドは、言いつけ通りに外に出たものの、どうするべきか悩んでいた。
「無理、私にはできないわ……」
このメイドは二年前に子供を産んだ経験がある。
夫に先立たれ、女で一つで育てるのは難しいと判断して、故郷に戻り親を頼った。
子供が乳離れをしてからは、養育費を稼ぐためにかつて母親が働いていたツテを使い、伯爵家でメイドとして働いている。
それがまさか、こんな仕事をさせられるとは思ってもみなかった。
仕える主人が亜人差別主義者で、亜人関係の事になると普段のおおらかさが消えて激情する。そういった話を職場の仲間達からは聞いていたが、実際に目にするのは初めてだった。
「どうしましょう」
腕の中にいる子供に視線を向ける。
自分がこれからどうなるのか分かっていないからか、子供はたまに身動ぎをしながら寝息を立てている。
性別も種族も違うのに、その姿が産まれたばかりの頃の娘とかぶってしまう。
だからといって、あの屋敷に連れて帰ることなどできない。
自分の代わりに誰かが命令されて子供は死ぬし、自分は解雇されるかもしれない。
教会や孤児院に預けても、何の拍子に伯爵の耳に入るか分からない。
そう考えると、もう腹を括るしかないのかと彼女は思った。
誰もいない、寝静まった町中を歩き、たまに酔っ払いから街娼と間違えられて掛けられた声を無視して、屋敷から離れていく。
どうするべきかの結論が出せず、ただ夜道を彷徨う彼女の目に、ゴミ捨て場が映った。
「言われたのは、処分しろ。だから、私が殺さなくとも……」
震えながら、抱えた子供をそこへ置こうとする。
ここに放っておけば、後は凍えるか空腹かで勝手に死ぬ。万が一誰かに拾われても、それは自分のせいじゃない。自分はこの子を殺せとは言われていない。
自分自身に言い聞かせるような言い訳を頭の中で並べながら、子供をゴミ捨て場へ置こうと腕を伸ばす。
だが、あまりの緊張感と罪悪感から、周囲の確認を怠ったのは彼女のミスだった。
「おい女。テメェ何してやがる」
「!?」
突如掛けられた男の声に、体が驚きで跳ね上がる。
それでも子供は手放さなず、しっかりと確保していた。
彼女は声の主を確かめようと恐る恐る振り向くと、そこには自分の主が最も嫌う存在がいた。
「どんな事情があるか知らねぇが、ガキをゴミ捨て場に捨てるたぁ、母親どころか人としての風上にも置けねぇな」
二メートル半はある巨大な体躯に、暗闇でも分かる白い髪がたてがみのように見える、虎の耳がある亜人の男。
年季の入った防具を腕と胸部と脛に付けていて、見るからに鍛え上げられていそうな太い腕と脚。
殺気こそ無いが、その迫力に彼女は震えが止まらなかった。
ノヴィド王国は、国王を始めとする国の重鎮のほとんどが、亜人に対して友好的な穏健派に所属している。
おまけにこの町は亜人の国、ガルガニア帝国との境近くにある。
二国間の貿易拠点の一つとして賑わっているこの町としては、亜人の立ち入りを禁止するわけにはいかない。例えこの地の領主である現在の伯爵が、如何に亜人を嫌っていても。
そのため、この場に亜人がいること自体は何ら問題ではない。彼女にとって問題なのは、抱えている子供を捨てる現場を見られたことだ。
「悪い事は言わねぇ。育てられねぇのなら、孤児院とか然るべき場所によ」
「そ、それじゃ駄目なんです!」
「あぁ? どういうこった」
彼女は思わず言い返してしまった自分を恨んだ。
これで、捨てようとした理由を言わないわけにはいかなくなってしまった。
せめて仕える主人の事はどうにかはぐらかせないかと、少しだけ冷静になった頭で説明を組み立てる。
「実は、この子は取り替え子なのです。でも、この子の親は亜人差別者でして」
「あぁっ!?」
「ひぃっ!?」
怒気の籠もった声と眼光に思わず怯んで腰が引ける。
恐怖感に駆られた彼女は、慌てるかのように言葉を紡ぐ。
「ちちち、違います。私ではありません! 私がお仕えしている、さるお方でして。そのお方が、この子を私に処分しろと命じたのです! それで仕方なく……」
それでも、捨てようとしたのは彼女自身。
これは説明であると同時に、彼女にとっての責任回避の言い訳。
悪いのは処分しろと命じた主で、自分はそれに従っているだけだと。
「だから、ゴミ捨て場に放置しようとしたってか?」
「は、はい。そうすれば処分しろという命令は守れますし、仮に誰かに拾われても、私がそうさせた訳ではありませんし」
苦しい言い訳だと分かっていても、ここまできたら貫くしかなかった。
説明を終えて黙る彼女に対し、亜人の男は抱えられている子供を覗き見る。
(竜人族か……)
特徴的な鱗や尻尾、角から種族はすぐに分かった。
続いて目の前にいるメイドに目を向ける。
睨まれたとでも思ったのか、身を縮こまらせながら腰が引けている。
そんな事を気にせず、亜人の男は目の前にいるメイドの主というのが誰かを推測する。
(メイドっつーことは、このガキの親はそこそこいい身分の奴か。ひょっとしたら領主ってこともあるな)
この町に滞在中に、領主の亜人嫌いは噂で耳にしていた。
貿易拠点だから滞在は致し方ないと思っているものの、亜人が自分の領地で当たり前のように生活する姿を見たくない。そのため、町の視察にすら現れず、代理の者に視察を任せるほどに筋金入りの亜人嫌い。
それがこの町を治める領主である、現在の伯爵なのだと。
先代や先々代はそんなことはなかったのにという愚痴と共に。
(まっ、このガキの親が誰であろうが俺には関係ねぇ)
おおよその予想をしたところで、赤ん坊の親について考えるのをやめた亜人の男は悩む。
見過ごせない現場を目撃して声をかけたものの、こんな展開になるとは思っていなかったからだ。
ちょっと諭して孤児院か教会にでも連れて行けばと思ったが、どうやらそんな簡単な話ではなかった。
どうするかと頭を掻いていると、メイドの腕の中にいる子供が欠伸をしながら目を覚ました。
「ふぁ……うっ?」
最初に目に入ったのは、メイドの顔。
次いで横を向き、亜人の顔を見る。
亜人の男は目が合った瞬間に何か気まずそうな表情になるが、対する赤ん坊の方は興味深げにじっと見ている。
やがて何か玩具でも見つけたかのように、笑みを浮かべて亜人の方へ手を伸ばしていた。
「おっ、おぉ?」
赤ん坊の反応が予想外だったのか、亜人の男の方が戸惑う。
ゆっくりと触れられる位置まで手を伸ばしてみると、その指を握って赤ん坊は笑っていた。
「こりゃ大したタマだ。これまでに俺を見たガキは、怯えるか怖がるかだってのによ」
決して人相がいいとは言えないのは、彼自身が一番分かっている。
だからこそ子供に怯えられたり怖がられても、仕方のないことだと思っていた。
ところが目の前にいる竜人族の赤ん坊は、怖がりも怯えもせずに、むしろ楽しそうに彼の指をペタペタ触っている。
その様子を見ている亜人の男は、これまでの人生を直感で生きてきたのと同様に、こいつは面白そうだという直感で判断を下した。
「いいだろう。こいつは俺がもらってやる」
「へっ!?」
急な事態の変化にメイドはついていけず、妙な声の返事をした。
「安心しろ、俺の勘はそうそう外れねぇ。その俺の勘が、こいつが俺の人生を楽しませてくれるって言ってるんだ。捨てるつもりだったんだ、別に引き取っても問題無えだろ?」
男はそう言ってひったくるように子供を手にする。
乱暴に扱われたのに子供はまるで気にせず、むしろ楽しそうに笑いだした。
(まっ、仮にこいつの親が本当に貴族だったとしても、亜人嫌いなら何もしねぇだろ)
あまり貴族を好んでいないのであろう亜人の男は、頭に浮かんだ心配をすぐに切り捨てた。
「あの、本当によろしいのですか?」
「いいつってんだろ。テメェの耳は節穴か」
「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
子供が助かったと分かると、メイドは夜中にも関わらず声を上げてお礼を言いながら頭を下げる。
「うるせぇ! 何時だと思ってやがんだ!」
どこかの家から響いた文句で、時間を失念していた事に気づいたメイドは口を押さえた。
自分の子供でもないのに、そこまで喜べるなと思いつつ、亜人の男は用が済んだと自己完結してその場を去ろうとする。
「あ、あの、あなたのお名前は?」
恩人の名前を聞いておきたいメイドの問いかけに、亜人の男は振り向かずに答えた。
「俺の名前か? ルーディアンだ。別に覚えておかなくてもいいぞ」
「ルーディアンさんですか。ん? ルーディアン?」
その名前には聞き覚えがあった。
昨年、亜人の国であるガルガニア帝国に、怒り狂った巨大な竜が北方に隣接する竜の聖域を越えて現れた。
派遣された帝国軍すら退け、破壊の限りを尽くしながら侵攻するそれに、同じ聖域から止めに来た竜達さえも敵わなかった。
そこへ現れたのが、一人の白虎人族の男。
その男は、魔法も武器も使わず、特別優れている防具も無しにたった一人で挑んだ。
あまりの光景に帝国軍の斥候部隊も言葉を失い、ただその戦いに見とれてしまうほどの激戦は二日に渡って続き、遂に白虎人族の男は勝利した。
国を滅亡の危機に追い込みかけた竜をたった一人で、しかも素手で退けたその男は、どこにも所属せず己の腕一つで生きることを生業とする探検者。名はルーディアン。
この功績に、皇帝から竜撃者という称号を与えられた。
その名は隣国ノヴィド王国にも轟くほどで、史上最強と名高い亜人の戦士である。
「な、なんで、そんな人がここに?」
思わぬ人物との出会いに、呆然としながら見送るメイド。
彼女は知らない。彼がこの町にいるのは、ここ最近付近の森の沼地で目撃されるようになったという、大鰐を捕まえて食いたかったからという事を。そしてちょうどその目的を達し、帰ってきたところだという事を。
一方のルーディアンの方は、自分の名前を聞かれた時にふと思った。
「そうだ。テメェの名前も決めなきゃな」
考えるより直感で物事を決めるルーディアンは、名前すらも直感で決める。
脳裏に浮かんだのは、これまでの人生で一番の恐怖と興奮と歓喜を覚えた戦いを繰り広げ、図らずも己の名を広めるきっかけとなった一体の竜。
抱えている赤ん坊とは違い鮮紅のように真っ赤な鱗をした、過去に戦った中で最も強い相手だったその竜が頭に浮かぶ。
名前は後ほど、同じ聖域から謝罪に来た別の竜から聞いていた。
その名前をちょっとひねって子供につける。
「よし、お前の名前は今日からエディオンだ。あの竜、エンデュミウォンと同じくらい強くなれよ」
ニヤリと笑う顔すら恐ろしく見えるが、エディオンは恐怖など微塵も感じないのか笑っている。
その豪胆さを気に入ったルーディアンは、深夜にも関わらずエディオンを抱えて国境を越えるための帰路に着いた。
例え子供を抱えていても、道中でのトラブル程度ならわけもないという自信と、それに見合う力を持っているからこその行動だった。
だが、彼はまだ気づかない。まだ赤ん坊のエディオンを育てるのが、如何に大変だということかに。
その後、子育てという未知の戦いの領域に踏み込んだルーディアンは、子育て経験のある周囲に助けを請いながらエディオンを育てていくことになった。
この時ばかりは、自身の思い付きでの行動をちょっとだけ恨んだ。