1.始まりの記憶
それは、終わりの記憶。
「―――はぁ、…はぁ、………っ」
何度も荒い息を零しながら、年幼い少年が座り込んでいる。切りそろえられていたであろう黒髪は乱れ、煤だらけの手をコンクリート製の床に押し付け――その押し付けた先からは光のような何かが滲み出て、同じように座り込んだ少女の元まで伝っていた。
ボロボロな面持ちの少年が顔を上げると、その瞳が少女の姿を捉える。
ひぅ、と少年の喉から掠れた音が漏れた。
少年は痛みを訴える体を引きずって、立ち上がる。少年と少女だけがこの空間にいるわけではない――近くには四人の戦士が倒れている。
皆息もあるし、意識はある。しかし使いつくされた体は動かない。それは少年とて同じことだった。
――けれど、この光が引力を思わせるかのように、少女の元へ行くためのなけなしの力を与える。
「……、くっ」
体が地に伏せても、と、倒れていた一角の青年は体をかろうじて起こしながら声を張ろうとした。行かせてはならない、黒髪の少年を少女の元にまでは――それは予感のようで、だからこそ彼は自分の恵まれた力、≪歌詠詞≫たるものの発動を試みた。
「―――か、は、」
しかし、口から出てきたのは荒いものだけ。喉は当に潰されるほど歌いつくされた後なのだ。
「いく、な…」
だからこそ、≪歌詠詞≫の代わりに青年は呻く。それが――少年の歩みを止める言葉にもならないとわかっていながら。
少年は言葉が聞こえているか――もしくは、聞こえていないのかわからないが、やはり歩くのをやめず、一歩一歩と足を進め、少女の元までたどり着いた。そこまでの距離はそう遠くないものではなかったけれど、少年たちにとって長く永遠のように感じられた。
「―――”愚鈍、なる、は”」
そして少年は――詠唱する。
少女が微笑む。
「”理が、紡ぐもの”…」
「ね、殺して」
びくりと少年の肩が震えた。少女は優しささえ浮かべたような表情で少年を見上げている。
愛おしそうに、揺れる少年の瞳を受け入れている。
「あ、ああ、あ」
「嫌よ、そんなの。……貴方なら、わかるでしょう……?」
少女の指先が――といっても、炭化してほぼ残りカスのような危うさを保った何かだったが――少年の頬に当たる寸前、発火した。
火はそう回らず、少女の指先を燃えつくすだけに終わった。
「ち、がう、違う違う、違う!お前は、お前はマインじゃない!!!!」
少年の絶叫が響き渡る。≪歌詠詞≫の少年は動かないわが身を呪った。そしてそれは他の三人も思ったことだっただろう。
幾度も燃えカスが残っているこの部屋は、全て少年のものだった。少年が少女に叩きつけたものだった。
こんなことが、あってたまるものかと。
勇者一行。
それが自分達に課せられた言葉。
魔王、『シセルエルム』と呼ばれる魔物の王を倒し、世界を平和に導く。
そのために自分たちはここまで来て―――それなのに。
全て順調だったはずなのだ。
――仲間の一人、勇者と呼ばれる少女マインさえ、彼女の肉体が魔王に乗っ取られなければ。
…全て、何事もなく、終わったはずだったのだ。
だから今、彼女が紡ぐ言葉は魔王によって伝えられた偽りでしかなく、賢い――否、賢すぎる黒髪の少年にはわかっていることだろう。
だが。
…いや、だからこそ、受け入れ難い。
少年は、幼い子供なのだから。
割り切る、…なんてこと、できなくて当然なのだから。
誰だって、…大切な人を傷つけたくはないのだから。
「…とても乱暴な子ね、―――。」
「黙れ、その声で、俺の名前を呼ぶな、その顔で俺を見るな!」
憤りを隠そうともせず、悲鳴のように少年は拒絶する。
それに呼応するかのように、少年を包む光が強くなっていく。
「―――”今、ここに”」
す、と少年は叫ぶ。
「―――”具現せよ”!!!!!!!」
詠唱が終わると同時にけたたましい轟音が響き渡り、火の粉が舞い散った。ただそれは、相手を傷つけるための炎ではない。
「愚かな、…私は、目覚める……この世界がまた、悪しき心に満ちたそのとき…私は、再びこの地に」
哄笑が部屋の中に響き渡る。その間、少年はまたもその場に座りこんでしまった。もう――力が入らなかったから。
誰よりも愛しい人に、幾度手を掛けたのか。それさえ思い出せないぐらい、疲労していた。肉体よりも、精神が。少年がこの部屋で少女を見つけた、否、少女だったものを見つけた時から少年は逃げたかった。
――ようやく、終わるのだ。
「…だが」
哄笑が止まった。
焼け落ちた指とは違う手で、座りこんだ少年の頭上に掲げる。
「…置き土産だ、貰っていくといい」
虚ろな瞳で、少年が顔を上げ―――。
―――いつまでンなとこで座りこんでんだ!!!
誰が、叫んだのか。
――自分、かもしれない。
≪歌詠詞≫は―――歌えない歌を、心の内で奏でた。歌えなければ届かない、されど自分の身であれば――いや、といっても先程は失敗したけれど、まぁ、動かすぐらいなら全力を出しても問題はない、な。
なんてことを――一瞬の内に判断して、またこれは幸いだったというべきだろう、自分が倒れていた場所はたまたま偶然、はたまた必然かのように、黒髪の少年のすぐ近くだったのだから。
「―――だいじょーぶ」
あ、と腕の内の幼い命が声を漏らした。絞り出した声はガラガラで、美声、などと唄い唄われた武器は全く自分としても不甲斐ない。涙でぬれた瞳を見て、≪歌詠詞≫ははにかむ。
歌えずとも、盾にはなる。
(……だろー、マイン)
頬に当たった黒髪の感触と、迫る強大な力の渦に―――彼は、たった一つの尊き命を想いながら、目を閉じた。
遠く、遠く。メンバー六人、笑いあって、時には泣き、悔しく思い、そして歩き続けた――輝かしい日々が遠ざかっていく。
(………あー、あ)
儚かったのだなぁ、なんて。
もう見ることも叶わない、そんな過去の光に、届きもしないのに伸ばしてしまうのだ。
ちょこちょこ書いていきます。よろしくお願い致します。