Adorable ―after that
俺が、彼と彼女について知っていること。
毎朝6時43分に発車する電車に、俺と乗り込む彼女が迷うことなく、ある青年の隣に座るということ。
乗り込むのは必ず、前から2番目の車両、後方の入り口。
おそらくカップルなのだろうけど、ふたりは電車に乗っている間、とても静かに過ごしていること。
決まって青年の方が先に電車を降りること。
彼女はいつも、持っている小さな手提げ袋の持ち手の部分を何度も握り直し、何か言いたそうにしているが、しかし結局そのまま彼の降車駅に着いてしまうこと。
そして、なんだか幸せそうに微笑んでいる彼はその様子に気づいていないらしいこと。
俺はこの知り合いでもなんでもない一組のカップルを見ていると、なんだか、もどかしいような微笑ましいような気持ちになるのだ。
*
「へえ、かわいいカップルですね」
入社3年目、社内イントラや諸々の顧客対応用システムから諸々、情報処理のことならなんでも取り扱う我が情報システム課(社内ではもっぱら簡単に「システム」とだけ呼ばれている)の紅一点。俺が初めて新人の指導スタッフとして受け持った後輩女性がその長いまつげを瞬かせた。ちなみに彼女はマイカー通勤である。
「大学生ですよね?しかも一緒に通学するために朝早い電車に乗ってる、っていうのが健全でいいですよね。すがすがしい」
時折、理系らしからぬ独特な表現をする彼女はもう一度「すがすがしいです」とほほ笑んだ。
健全で、すがすがしい。
彼らを表すのにふさわしい表現だ、そう思った。
*
今日も今日とて、彼女は小さな手提げ袋を持ち、教科書や本が入っているらしき黒のバッグを肩から下げている。
いつも通り青年の隣に座り、少し話をしたりバッグから取り出した本を読んだりしている。
ぎゅ、と手提げをにぎりしめる白い手。
ちょうど弁当箱が入りそうなほどの大きさの手提げ袋だ。
「あの…」
彼女がようやくその手提げについて話し出すと、彼はしばらく口を開けたまま呆けたようにその話を聞いていた。
やがて、正気に戻ったらしい彼は何度も頭を下げながら、彼女の肩を撫でていた。まるで今まで口に出せなかった彼女のことを慰めるように、詫びるように。
きっと彼は今日の昼、俯いたまま頬を染めていた彼女のことを思い出すのだろう。
手提げ袋には弁当箱とタンブラーが入っているのでよかったらお昼ごはんにどうぞ、ということを彼に伝え終わった、彼女ははにかんでいるものの満面の笑みを浮かべていた。
なんだかまぶしい。
早朝からなんだか中てられた気分になった俺は、会社の最寄駅に到着すると、足早に電車を降りたのだった。
*
「へー、女の子、お弁当ちゃんと渡せたんですね。よかった」
始業前だというのに、淹れたてのコーヒーを持ってきてくれた後輩に軽く頭を下げる。
いくら新入社員が配属されず、3年目を迎えても未だ課で一番の新人だといっても、こんなに朝早く来る必要はないのだが。いい心掛けなのでそのことについて触れたことはなかったが、後輩は意外に「気にしい」なので、不必要に早く来なくても、と言ってやるべきだろうか。
俺は通勤ラッシュを避けるために早めに来ているだけなので、いいのだが。
始業前にゆっくり一服する時間もあるわけだし。
「…さん、―…さん!」
ぼんやり考え事をしていると、件の後輩女性から名前を呼ばれていた。
「カップ持ったままぼうっとしてたら危ないです。ネクタイ、コーヒーに入っちゃいますよ」
「ああ…?あー、ごめん。ありがとう」
「今朝の大学生カップルのことでもうらやましがってたんですか?」
悪戯な口ぶりで尋ねられた。
「…なんだか私も少し分かるような気がします」
「…なにが?」
「好きな子のために早起きする気持ちです」
「……一番年下だからって別に俺に気を使って、俺より早く来なくてもいいんだぞ」
彼女は一瞬きょとんとした後、朗らかに笑った。
「先輩はなんで早くいらっしゃるんですか?」
「電車が混むのが嫌だから」
「私もです」
「お前車通勤だろ」
はい、笑ったままそう答えた彼女は、自分の分のカップを片手にデスクへ向かった。
今朝の彼に『せっかく弁当作ってきてくれるのに気付いてやれよ』とやきもきしていたが、俺も他人のことを言える立場じゃないのかもしれない。
とはいえ、俺は彼ほど初々しくはない。
体温が上がったような気がするのは、受け取ったばかりのコーヒーのせいではないだろう。
そういえば後輩の私用携帯の連絡先は知っていたっけな、と思いながら、パソコンの電源を入れる。
こうして、今日も長い1日が始まった。
自サイト「Naughty Cat」にWEB拍手お礼として置いていたSSです。