第七章 闇の慟哭
第七章 闇の慟哭
青い目と異彩を持つ瞳が絡み合い、ほどかれた。呆然とした青の瞳を見たくないとでも言うかのように、ディアスが視線をはずしリーシャの横を音もなくすり抜けた。生じた僅かな風によって、蒼い欠片はリーシャに降り注ぎ、その髪を彩る。
自らの落とす赤い雫の中を、振り返ることなくディアスは立ち去った。
沈黙を作った主は、沈黙を晴らすことなくさらに困惑と驚愕の種を植え付けて姿を消した。
ある者はユークリックとガランドールの国交を憂え、息を呑んだ。
ある者は皇子のあまりの対応に心を怒りに染め、ある者は婚約者である相手から敵意を向けられた王女に憐憫を抱いた。
そして、皇子の唯一つの望みを知る者たちは、全く、何が起こったのか分からなかった。
現実を疑い、過去を想い、絶句した。
沈黙は連鎖し、誰一人として音をたてることはなかった。誰もがその沈黙を破ることを躊躇し、壊れ物を扱うかのように静かに、しかし決して目をそらすことなく渦中の王女を見つめた。
かの少女は失神するであろうか。いやそうなったとして誰が彼女を責められよう。はるか遠く春の国から皇太子妃にと望まれやって来た少女。その可憐で華奢な姿は北の凍えるような寒風にさらされることになどなかったに違いない。
大部分の重鎮たちは息を殺して立ち尽くす王女を見た。
声を発すればその姿はもろく崩れ落ちるかもしれないという、妙な強迫観念にも似た思いがあった。
しかし、リーシャはそれだけの、ただ守られているだけしかない姫ではない。いや、このようなところで砕けるだけの覚悟しかしていなかったわけではない。守りがないことなどはじめから知っていた。血がにじむような風にさらされるかもしれないということは、はじめから予測していた。
こんなところで負けるわけにはいかない。負けられない。
あまりのことに麻痺したリーシャの脳裏をじわりじわりと犯すように染みが生まれる。浸透していくとともに唇を噛み切りたくなるほどの怒りと嫌悪を感じた。
あれほどの決意をしたのにもかかわらず、婚約者である皇子のたったあれだけの行動に思考が止まってしまうほど動揺した自分をののしりたくなった。
気付かぬうちに噛み締めていた歯を緩め、全ての誇りと意思でもってリーシャは唇に弧を描かせた。
二度と同じ過ちを繰り返すことのないよう、思いのナイフで心に刻みつけろ。
しかし、それは今すべきことではない。
未だに半分ほど機能していない頭に必死に動作を叩き込む。縫い合わせたかのようにかたく引き結ばれた口をリーシャは開いた。
「相違、ございません。」
その言葉を理解できた人間は本当に一握りだけであった。他の人間は話の脈絡をつかむことができず、ただ声を発した王女を見つめていた。その一握りに入っていた皇帝はリーシャへ問うような眼差しを向ける。
呆然とした表情で呟くように発した先ほどの言葉とまったく同じものを、今度は皇帝の瞳を見据えて玲瓏と放った。
「相違ございません。リーシャシア・ティン・ガランドールは貴国の皇太子の婚約者の名を謹んで拝命いたします。」
一度目のように嫣然とした笑みとともにではなく
二度目のように熱に浮かされたようではなく
強い意志と誇りを露にして、リーシャは宣言した。
皇帝の瞳が深くリーシャを覗き込み、わずかに緩められた。
そして、婚約の成立が宣言された。
今は使われることのなくなった地下牢よりも更に深くへ続く階段。この世ではないところへ続いていくかのように途切れなく道は続く。ユークリック城内でも片手で数えられてしまうほどの人間しかその存在を知らないその先に多くの鍵穴を備えた小さな扉がある。
もはや陽の光の恩恵が与えられるはずのないその部屋は、喧騒どころか生命の息吹すら感じられないほどの静けさをまとっていた。部屋はひどく埃にまみれ、陰湿な空気を漂わせ、しかし調度品は帝の間と比べても遜色がないほど高価なもので揃えられていた。まるで牢獄に無理やり財宝を詰め込んだかのようなその光景は、初めてみる者ならば吐き気を覚えるほどの違和感と混沌を内包していた。
その中央。厚く豪奢で埃を被った織物をふんだんに使った天蓋の付いた寝台に、壊れた人形のようにして黒髪の少年が手足を投げ出していた。寸前まで国の中枢にその存在感を知らしめていたとは思えないほど、その体には生命力といったものが欠けていた。ある意味、その部屋にこれ以上ないほど溶け込んだその姿はここ数年間、見られることのなかった皇太子のものであった。
微かに灯された光の中の、無数に煌く埃をその二色の瞳に映しながら、ディアスは過去に思いを馳せる。寒さ故にか、思考がひどく遅い。
ここに最後に来たのはまだディアスが皇太子ではなく、皇子という肩書きを冠している時であった。いや、それすらもなきに等しいものであった。差し詰め優秀な兄のあとに生を受けた無用の存在、といったところであろうか。
――それでもまだ上等すぎるな。
ディアスは少しずつ過去の記憶を引きずり出しながら自嘲した。想像をはるかに超えた身を焦がすような痛みがともに蘇ってくる。もう慣れたと、そう思っていた、思い込んでいた記憶は温度の炎のようにその心を焼き、醜い痕をつくる。ディアスは傷跡を見つめ、そして抉った。
――眼をそむけるな。思い出せ。帝国の闇と呼ばれていたことを。悪魔の子と蔑まれていた時のことを。
15年前、まだディアスがここに部屋を与えられてはいなかった頃、世界はようやくユークリック帝国で最も尊い血を持つ幼い少年にその全容を見せた。帝国には闇が巣食い、腐敗し、崩壊を目前に控えていることを誰もが認識しているような状態であった。もはや帝国とは名ばかりで、周辺の国々に領土は侵され、富を喰われている状態でしかなかった。それは、帝国が古くからの因習にこだわり続けた結果であり、それも、誰もが知っていたことであった。
しかし、現実を直視できるほど弱った帝国に生きる人々は強くなかった。とてもではないが、 自分達の生き方が悪かったのだと認識することはできなかった。
彼らは自らの代わりに、祖先が犯してしまった過ちを擦り付ける贄を求めた。
自分達は悪くはない。悪いのは全てこの国の第二皇子だ。彼の者を見よ。あの異形を見よ。父と母に生粋の漆黒を有する者を持ちながら、二色の瞳を持つあの罪深い者を。彼の持つ金色は希望を切り裂く刃のごとく不吉な光を放ち、もう一つはこの世のものではないかのように怪しげな緑を纏っているではないか。彼の者が生を受けたことによってこの国は呪われてしまったのだ。あの悪魔が生まれ出でたことによって神は我々を御見放しなされたのだ。
叫びが、視線が、身にこびりついて離れない。
恐怖し萎縮することしかできなかった幼い日の自分は何を思い生きていたのか。
鮮烈に思い出されるのは他者の敵意で、自分の事に関してはひどく曖昧であるということにディアスは気がついて幽かな笑いを口元に浮かべた。
わずかに身じろぐと、右手が硬いものに当たった。
それは古ぼけた一冊の分厚い本。表紙を飾る文字は、利便性の関係で今は使われなくなって久しい装飾の多いもの。
ディアスはそれを引き寄せたが、開こうとはしなかった。
彼は知っている。その本のとある一部分のみが重ねてきた年以上に古ぼけ、何度も何度も繰り返しめくった痕があることを。そして、もはや考えることすら必要としないほど自然に、一字一句口間違えることなく口をついて出てくるということを。
この本にどれだけ救われたことだろう。
この本は確かにディアスの生きる糧であった。
そして、それをディアスにもたらしてくれたのは、彼より二回りも小柄な少女であった。
今でもその時のことがまったく色あせることなくディアスの心に残っている。
その少女は綺麗で珍しい銀色の髪を有していて、空を映したかのような青い瞳をしていた。 その姿は自分とはかけ離れたひどく神聖で美しいものであるとディアスには思えた。凍える闇に慣れた皇子にはあまりにも眩しかった。自分がひどく汚いもののように思え皇子は年に似合わぬ深い嘆息をついた。彼の春の色をまとった少女をいったい誰が忌み嫌おう。
暖かな春の日であったのに、自分はやはり闇に捕らわれたままだと、決して抜け出すことはできないのだとディアスは思った。いったん意識してしまえば、足元から闇に絡め取られるような気持ちの悪さを覚えてディアスは踵を返そうとした。
そして、その瞬間に青の瞳と異色の瞳がかち合った。
あの春の日に、多くのものを諦めてきた闇に染まった皇子は、はじめて願いを持った。
暗く寒い闇濃い部屋で、ディアスはその部屋に不釣合いな柔らかい笑みを浮かべた。それはかつて悪魔とすら指差された人間のものとは思えないほど優しいもので、少女がディアスにくれたたくさんのものの一つ。見る者のいないことが悔やまれるような希少な笑み。彼の少女を思えば、自分の取り繕った無表情も何もかもが剥がれ落ちていくのをディアスは知っていた。
生まれてはじめて心より何かを願った。その願いはディアスの全ての根幹であった。
ようやく叶う、そうディアスは思っていた。
全てを拒むような強い拒絶を宿した青い瞳。美しく整えられ、誇りと気品を漂わせた銀色の髪の婚約者。まっすぐで鋭い瞳はディアスの異彩を怯えることなく見つめ、一寸の隙もなく存在感を振りまく少女。
その迷いのない瞳はディアスの記憶とぶれを見せ、そのことがひどく不快に感じられた。まるではじめて見るかのようにディアスに向けられたまなざしは、ディアスではなくもっと遠くの何かを見ていた。
耐えられなかった。
ディアスはようやく気がついた。ここ数年間ではじめてこの部屋に足を踏み入れたわけと、過去を思い出して感傷にひたった理由。
それは、自分が確かなものだと、そう信じていたものが崩れ去ったから。
それは、ようやく手に入るはずだったものが掌から零れ落ちたから。
自覚はしていたが、これほどにまで彼の少女に自分が依存していたとは気がついていなかったディアスは乾いた笑いをもらした。
喉を鳴らして、腕で眼を覆う。カビと埃が入り混じったような、慣れた匂いが鼻をついた。
もう、自分の境遇を嘆くことは決してしないと誓った。だから、探せ。最後の一手がなくなるまで彼の少女を探せ。
闇の中、ディアスは新たなる誓いを立てた。誓いは彼の胸に。
「…リーシャ。」
静かに空気を振るわせたその名は10年前、銀の髪の少女がディアスに渡した大切なもの。それは最上級の贈り物。闇の中に光を灯すような温かな響き。
そして、ユークリック帝国が迎えたディアスの婚約者の愛称。気高く、遠くを見つめる少女の名。
それは二人の少女を指す名なのか、一人の少女に与えられた名なのか。
それすらもディアスには分かりえなかった。