第六章 将来を誓う相手
あの幼い日。
もう二度と会うことはないと思っていた黒髪の皇子はまっすぐに語った。
帝国を手中に収めることでもなく、敵国をなぎ倒すことでもなく、たった一人の少女をその腕に抱きたいと。そのためになら、どのようなことも成し遂げてみせると。
それは忘れもしない春の日のこと。
「姫様、たいへん、たいへん美しゅうございます。」
「この世のものではないかのような美しさですわ。」
何人もの侍女が新たにユークリックにやってきたばかりの銀の髪の姫を取り囲んで華やかな声を上げている。全てガランドール語でなされる会話はリーシャを気遣ってのこと。リーシャ付きの侍女たちは程度に差こそあるものの、一通りのガランドール語を扱える者ばかりだ。
姫・・・リーシャはなされるがまま綺麗な笑みを浮かべている。主が着飾ったときに褒めるのは侍女として当然のことではあるが、それだけではない熱意でもって侍女たちは声を上げていた。はじめのうちは銀の髪に青い瞳という異彩を纏ったリーシャに遠慮をしていた彼女たちであったが、皇帝に謁見するべくふさわしいドレスを選んでいるうちに遠慮などというものは遥か彼方に投げ飛ばしてしまったらしい。
その光景を目の端にいれながら筆頭侍女であるアイリスは、無理もないかと軽く息をついた。そして足元に積まれた衣装ケースに目をやる。何台もの馬車を占領していた色とりどりのドレス、装飾品。どれもこれもが「ロード」の中心地であるガランドールの名に恥じない一級品。華やかさを兼ね備えながらも上品さは決して失わないようなつくりである。帝国の侍女といえどもこのような芸術品の山を目にすることはそうそうない。その上、飾りあげるべき主は装飾負けし得ない容姿の持ち主なのだ。どんなドレスをあてても似合ってしまう。これで目を輝かせずにいられる侍女はまずいないはずだ。アイリスでさえ心が躍るのを抑えられないでいた。
今、アイリスが手にしている装飾品もまた、価値が付けられないほどの品であった。ガランドール国王の愛情の深さの表れであるかのようにその宝石は輝きを放っていた。国宝級といっても差支えがないであろうその宝石は、拳大の純度の高い原石を、歴史に名を残すような名工が何年もの年月をかけて削ったことが容易に想像させた。それは大輪の蒼い薔薇の花。触れれば儚く散ってしまいそうなまでに薄い花びらが幾重にも重なり合っている。自然界には存在し得ない色彩を、永遠の輝きとしてとどめたもの。花の形を模した宝石はありふれているが、ここまで精巧で美しいものをアイリスは見たことがなかった。
リーシャの瞳の色とそっくりなその宝石は、満場一決で髪にあしらうことが決まった。
細心の注意を払ってその宝石を髪に飾る。侍女の誰もが息を止め、見守る。一転して静かになった部屋の中、数時間にも及ぶ傑作は完成した。穏やかに笑みを浮かべていたリーシャはあまりの美しさに声も出ない侍女たちの前で立ち上がり、嫣然と微笑んだ。
石の敷き詰められた道をリーシャは歩いていた。アイリスはそれを先導する形で、例外的に主であるリーシャの前を歩く。リーシャの履く高いヒールの靴のみが軽く、高い音を規則的に刻んでいる。
「この石は不思議ですわね。」
リーシャが口を開く。微かに声が反響して耳に戻ってくる。
「一見したところ、大理石に見えますが・・・少々違いますわよね。」
その石は石でありながらも冷たくはなく、若干の熱さえ発しているようであった。
「この石はユリシェスと申しまして、帝国の北に位置する鉱山でのみ採掘されるものですわ。」
「断熱性が良く、ユークリックの貴族のほとんどの館で用いられております。」
後ろに控えていた侍女たちが口々に進言する。決して明るいとは言い難い通路に花が咲いたかのような華やかさが満ちる。
「北・・・と申しますとかの有名なマイン鉱山のことかしら?」
「姫様は博識でいらっしゃいますわ。そのマイン鉱山のことでございます。」
話題は尽きない。陰鬱としているとすら表現できた道のりは遥かに短いものとなり、想像以上にはやく目的地に着いた。
それは通路から続いていたどの扉よりも荘厳で立派であった。リーシャたち一行に気がついて扉の前に控えていた兵士たちが頭を下げる。
アイリスがリーシャに向き直り、頭を垂れる。心持声を潜めて告げた。
「ここが謁見の間でございますわ。皇帝、皇太子をはじめユークリック帝国の重鎮、ならびにリーシャリア様とともにいらっしゃったガランドール王国の方々がおそろいになっております。」
アイリスはリーシャを窺った。緊張してもいなく、気がはやっているわけでもないその表情。リーシャはまさに平静そのものの微笑をうかべていた。
自らが嫁ぐ国の最高権力者と相手に初めて出会うにしてはいささか淡白であるとすら言える表情であった。アイリスの心の中で不安という名の黒き生物が頭をもたげた。この少女がかの少年が語っていた者なのか。彼の語った「銀色の髪の少女」とリーシャが異なるものに見えて仕方がなかった。
アイリスはその思いに蓋をする。
銀色の髪に青い瞳といった特徴を持つ人は極端に少ない。リーシャはやはり「銀色の髪の少女」なのであろう。わずかな疑念には気づかぬふりをし、気持ちを押し殺す。
「私たちはあちらのほうで控えさせていただきますので、リーシャリア様は中へお進みください。」
残るのは嘆願にも似た望みのみ。
重い扉は開かれ、リーシャは一人、前に進む。作法は聞かされていないため、ガランドール周辺の諸国の作法を用いればよいのだと解釈し、自らの名を読み上げられた後静かに歩き出す。
広い謁見の間には人は少なく、本当に皇帝とその近しい人々しかいないことが分かった。しかし少人数とは言えども国の重鎮。それらの与える圧迫感は壮絶なものであった。誰もが未来の皇妃となる人物の一挙一動に注目し、不躾なまでの視線を向けてくる。まるであら捜しをされているかのようなその視線に、リーシャは怯えることなく、反抗心を見せるわけでもなく、ただ受け流した。
考えようによっては、これはまたとない機会。自分を・・・ガランドールをユークリックに見せ付けるのにこれ以上の舞台はなかった。
リーシャは蒼を纏い、進み、皇帝の玉座の下で深くお辞儀をする。何一つ無駄な動作をせずに、その状態を保つ。
「面を上げよ。」
よく響く壮年の低い声が沈黙を破る。紡ぎだされたのは当然、ユークリック語。
広間に緊張が走る。
婚約を受け入れてから、ガランドール王国は異例のはやさでその王女を旅立たせた。ガランドールとユークリックの距離を考えると、いくら風習はあるとはいえ、あまりにもはやい旅立ちであった。おそらく姫にはユークリック語を学ぶような時間はなかったに違いなかった。
リーシャは広間の空気が同情的なものに変わるのを感じた。たとえここで自分が悲憤のあまり涙を流しても、非難されないであろう雰囲気。むしろ哀れにもさらし者にされた姫ということで好意的な感情すら抱かれそうである。
しかし、それでは到底足りない。
リーシャは十分に視線をひきつけてからゆっくりと頭を挙げ、微笑んだ。
皇帝その人までもが驚きを示したことで空気が震えた。誰もがリーシャの機転に賞賛の目を向けている。そう、それはあくまでも機転が利いたという行為にしか受け止められていなかった。
まだ、足りない。
ガランドールの作法に従えば、頭を挙げることを許された者は・・・
「リーシャリア・ティン・ガランドールと申します。お初に御目文字仕りますわ。」
発言権が与えられる。
紡ぎだされたのは流暢なユークリック語。文法も、発音も何一つ間違えていない、手本にすらなるような言葉。
広間に一瞬ざわめきが走る。静まりはしたものの、依然として騒ぎの種はばらまかれたまま。
リーシャはすばやくあたりを観察する。広間の誰よりも高い位置に座っているのは皇帝その人。黒髪黒目の壮年の男。白いものが混じり始めた髪をしたその人と後ろに一人の青年と思しき者がたっている。ビロードの幕に隠れて顔はよく見えないが、たち位置からして彼が皇太子であろう。
「はははは。噂通りの聡明な姫君だ。」
ざわめきを断ち切ったのは皇帝その人の豪胆な笑い声。
「文法が無駄に難解なこの言語を短時間で習得するとは、さすがは『ガランドールの至宝』と呼ばれた姫君といったところであろうな。」
リーシャはふざけたような台詞を放った皇帝の目をまっすぐと見つめる。本来不敬にすらあたるその視線に、皇帝は気分を害した風もなく視線を返す。
帝国を束ねる皇帝はやはり一筋縄ではいかないようだ。何を考えているのかまったく瞳から読み取ることはできなかった。微かな嫌な予感とも言うべき感情がリーシャの中に芽生えたが、こちらもよりいっそう笑みを深くした。
「非常に優美で論理的な言語で驚嘆いたしましたわ。付け焼刃な状態で恥ずかしい限りですわ。間違えがございましてもご容赦くださいませ。」
二人とも実によい笑顔を交わしている。
アイリスはその会話を頭を垂れた姿勢で聞いていた。彼女の心を支配していた言葉、それは「狐と狸の騙し合い」というもので、非常に正しいものであった。
周囲の人々が内心逃れ去りたいと叫ぶなかで、二人はいまだに微笑みあっている。
この二人、間違えなく同類。
「冗談はこの程度にして、婚約の件だが」
冷戦とも言うべき時間は皇帝の一言であっさりと終わりを告げた。終始笑みを浮かべていたその顔はまじめそのものになってリーシャに語りかけた。
「ガランドール国王ユース・フォン・ガランドール殿の意思とそなたの意思に相違はないな?」
この婚約が意に染まぬものであるなら、破棄してもよいのだ。
そう意味を込めて皇帝は尋ねる。これが婚約を破棄する最後の機会。
予想外に選択肢を与えられたリーシャから一瞬笑みが霧散する。ほんの一瞬、しかし緊張が広間に奔る。
そして、リーシャは嫣然と笑みを浮かべて迷いをまったく感じさせない口調で告げた。
「相違ございません。」
皇帝は満足げに目を細め、宣言する。
「ではここに、正式にガランドール王国王女リーシャリア・ティン・ガランドールをユークリック帝国皇太子ディアス・ベル・ユークリックの婚約者として迎え」
いれよう。
そう続くはずであった。
今まで身動き一つしなかった人影が、玉座の後ろから歩み始めた。皇帝の目前の階段をゆっくりと下り、リーシャの前に降り立った。
重鎮たちのみならず皇帝ですらもその行動に言葉を失っている中、王女と皇太子は目を合わせた。
リーシャの青い瞳が驚きでかすかに見開かれる。
黒髪の皇太子・・・ディアスの瞳は金色であった。否。爛々と剣呑な雰囲気を漂わせているその双眸は、一つがかすかに翠を帯びていた。
色彩の異なるその瞳は忌々しげにリーシャを捉え、にらみつけた。
誰もが動けずにいる中、ディアスはリーシャに手を伸ばす。その手は顔をすり抜け銀髪に触れ
蒼い花の宝石ごと荒々しく銀のきらめきを掴んだ。
軽すぎるまでの音を立て花は儚く砕け散り
蒼の煌きと血の赤が舞い散る中、ディアスは憎悪すらこめて吐き捨てた。
「お前は、誰だ。」