第五章 北の大地
ひらりひらりと雪は舞う。
アイリス・ランカは雪の降り積もった大地に足を踏み出した。軽やかな雪はユークリックの春を告げるものであったが、その足取りは遅い。
かじかむ手を口元に当てたくなる気持ちを抑え、城門をまっすぐに見つめる。後ろに控えるのは同じお仕着せを着た十数人もの侍女。
アイリス・ランカ。ユークリック帝国皇太子ディアス・ベル・ユークリックの幼馴染にして、若干17歳の皇太子妃付き筆頭侍女。皇太子直々の指名であった。
「ついにこの日が来た…か。」
アイリスは小さくつぶやく。目に浮かぶは異彩を有した少年。まだ見ぬ自らの主に思いをはせ、よりいっそう小さくつぶやく。
「どうか……」
その言葉は雪に溶けるようにして、消えた。
ギギギ…ギギ…
重厚感ある音にアイリスは一層背筋を伸ばした。
雪の日は固く閉ざされているべきその門がゆっくりと開いていく。何人もの人間の力で始めて動くそれはあまりの雪の重さに軋みながらも確かに開いていく。
それは雪深い国に春の国の姫君が足を踏み入れた瞬間。
華やかな音楽もなければ、花が振りかけられるわけでもない。風習通りの来訪であるが、あまりにも淋しい。アイリスは言い表しようのない寂寥感に囚われた。辺りは一面の白。色彩を欠いたその景色は春の国の姫君にどう映っているのであろうか。
何台もの馬車が綺麗に整列して並ぶ。隊列の中ほどにあった真っ白な馬が引く馬車が中央に進んでくる。やたらと体格のよい男性が馬車に並行して走っていたみごとな栗毛から降り、その馬車へと向かう。恭しく華麗な扉を開くその動作は彼が貴族階級、あるいはそれに類するものに所属していること感じさせた。当然といえば当然であろうか。至宝と謳われる姫君なのだから。
かすかな布ずれの音が響き、姫君が北の大地に降り立つ。
誰一人として、動け得なかった。
本来姫が降り立つと同時にお辞儀をしなければならないはずだった。若いとはいえ、城で仕えている期間はかなり長い人間ばかりが皇太子妃に充てられた。煌びやかなドレスも、ため息が出るような美貌も、贅を凝らして形作られた肢体も、数え切れないほど目にしてきた。いついかなるときもユークリックの名に恥じない冷静な侍女たちが、礼をとることもなく呆然と目を見張っていた。
それは比類なき美貌。何人たりとも肩を並べることを許さない人間離れした美しさ。完璧な比率を保った肢体に輝きを冠したかのような銀の髪。淡く色づいた頬。色素が薄く透けるかのような繊細で長いまつげが少しずつ上を向く。
射抜かれたかのようであった。
アイリスはその青色の瞳から目を離すことができなかった。色素の薄いその姫君は儚く散ってしまうかのような危うげな美しさを秘めているように見えた。しかしそれは一瞬で覆された。
その瞳はいかなる宝石もかなわないような輝き。圧倒的な気高さ。その獰猛なまでに生を感じさせる瞳は人形めいた精巧な美しさの中に命を吹き込んでいた。
神がこの世の造形美のすべてを集めて創り出したかのような少女。その服装は上質ではあるが旅路を考慮した簡素なもの。しかし誰よりも美しく気高い。
姫はゆっくりと歩みを進める。アイリスはただ呆然としてそれを目で追うのみ。
寒くないはずはないのに。この冬の雪深い国で育ったアイリスたちにも気を抜けば背筋を縮めてしまうほどまだ寒いのに。春の訪れた国から来たその姫君は寒さなど微塵も感じさせないかのように胸を張って、華奢なブーツで歩きなれないはずの雪道を危なげなく歩く。
それはまさに雪の女王。雪と同色の輝きを有した髪をし、冬のすべてを従えるかのような威圧感。
これが、この国の次期皇妃。
なんと美しく、恐ろしいのであろう。
リーシャは自分がどのような印象を与えているか全て分かっていた。そしてその上でその全てを無視した。これは戦いの幕開け。武器はその頭脳と容姿。祖国の一人一人の顔を思い浮かべる。過保護な兄、心配性の侍女。心優しい愛すべき人々。
アイリスの正面に来る。いまだ呆然としている…おそらくは自分付きの侍女たちに声をかける。薄氷を割るかのような凛とした声が静かに響く。
「リーシャリア・ティン・ガランドールですわ。皇太子妃にこわれ参りました。これからどうぞよろしくお願いいたしますわね。」
呪縛から解けたかのように侍女たちがいっせいにお辞儀をする。ユークリックはそれなりにガランドールから迎える姫を大切にしているらしい。若いながらも選りすぐられた人材ばかりであることがリーシャにはよく分かった。リーシャの美貌を初めて目にした事を考えると、ここまでの礼がとれるということは賞賛に値する。
ほかの侍女よりも一歩前に出ていた黒髪の少女が口を開いた。
「リーシャリア・ティン・ガランドール様の御無事の到着なりよりでございます。貴女様の筆頭侍女を務めさせていただきますアイリス・ランカと申します。このたびはこのような天候の中の旅路ということで御体が冷えていることかと存じます。湯浴みの御支度ができてございますゆえ、どうぞこちらのほうへ。」
黒髪の少女…アイリスはそういい顔を上げる。漆黒の瞳がリーシャを見つめた。その色彩はガランドールでは珍しい北のもの。並んだ侍女を見ても黒系の色彩ばかり。
アイリスの先導にしたがってリーシャが移動する。それに続いてリーシャとともに来たガランドールの侍女たちが動く。否、動こうとした。
「申し訳ありませんが…ここより先はリーシャリア様のお世話はユークリックの者のみでさせていただくことになっております。皆様には別室を用意いたしましたのでそちらのほうで暖をとっていただければと思います。シア」
シアと呼ばれた小柄の侍女が進み出る。無言のままガランドールの侍女たちを先導しようとした。
「こ、困りますわ。私たちはガランドール国王陛下の命を受け、リーシャリア様のお世話をさせていただいております。まだユークリック帝にもお目通りがかなっていない今、主のそばは離れられません。」
確かにそうであろう。通常一国の姫が他国へと嫁ぐ際には幾人もの侍女を連れているものである。その侍女たちは生涯その姫のみに忠誠を誓い、姫の生活を支えるものだ。もちろんリーシャが連れてきた侍女たちもそのつもりでいた。このような扱いを受けるとは思っても見なかった。
「申し訳ありません。しかし、風習ですから。」
アイリスはやや眉をひそめて応える。目線でシアを促す。
「しかし…このような扱いはまるで、リーシャリア様が…」
亡国の姫君のようではありませんか。
その言葉を侍女は飲み込んだ。亡国の姫君…それは滅びた国の姫のこと。そのような姫は他国の王室へ入る際に、一国の姫として認められないため供を連れてはいることはできない。つまり、自国の侍女が拒否されるということは完全に目下と見られているということなのだ。大体そのような習慣自体が退廃しているため、この要求はより一層受け入れられるものではなかった。
なおも言い募ろうとした侍女を止めたのは渦中の姫。
「よいのです。お下がりなさい。アイリス…といったわね。案内してくれるかしら?」
当の本人に言われてしまっては引き下がるを得ない。ガランドールの侍女たちはシアに連れられて移動していった。
アイリスは内心かなり驚嘆していた。この時代遅れともいえる風習に文句も言わず、自ら侍女を行かせたという例は過去に一度もない。たいていがもめにもめて、ひどいときには衛兵の脅しすらあっての後にようやく収まるはずなのに。いったい何故この主はこうしたのだろうか。この風習を風習としてただ受け入れている?そんなはずはあるまい。仮にも一国の王女だ。これの意味することを知らないとは考えにくい。では何故…
アイリスはそっとリーシャの顔をうかがった。そして、全てを悟った。
あの場でリーシャがとめなければきっと侍女は互いに譲らなかったこと。最悪後ろに控えていた衛兵が武器をとること。つまり、結果はどちらにしろ変わらなかったということ。
その全てをあの瞬間に考え、行動に移した。
自国の侍女の有無程度のことでこの姫の誇りは全くもって損なわれないのだ。
穢れを知らないように無垢なのではなく、例にそぐわないことは否定することしか知らないわけでもない。
それがユークリック帝国が迎えた皇太子妃であった。