第十一章 宴の前
「やっぱり綺麗っ!!」
キィリアな叫びが響き渡る。
「徹夜万歳!我が人生に悔いなしっ。」
「キィリア…騒がないようにとあれ程申し付けたでしょう!?」
リーシャの髪を梳きながらアイリスはキィリアに視線を向ける。その顔は微かにほころんでいて、全く凄みがない。
嵐のような仕立て人の襲来から一週間。
城内は夜会の準備で慌ただしい。本来この時期に夜会は催さないためか若干不慣れな様子で準備は進められている。
通常、貴族が夜会で身に付ける服は遅くとも一か月前から作られ始める。家格が上がるほどその期間は長くなる。夜会とはただ踊るだけの場ではない。自らの家の力を誇示し、家同士の勢力を測る場なのだ。
着飾ることで財力を、会話で品位を、使用人の質の高さで安定を測る。
皇太子の婚約者であり夜会の主役となるリーシャは誰よりも気高く、美しくある必要があった。
一週間は短すぎた。
華やかな刺繍や繊細なレースを新たに創る時間はない。仮縫いも繰り返す余裕はない。最低限の形を整えるだけ。それですら間に合うか間に合わないか。
はじめ、アイリスが日程を皇帝から聞かされた時、思わず皇帝を仰ぎ見てしまった。それを不敬は分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
主役である姫に恥をかかせるのか。そう叫びそうになるアイリスに皇帝は困ったような、呆れたかのような顔を向けた。
嘲笑でも残忍でもないその表情は、その決定が皇帝の意志ではないということを悟らせた。
皇帝に意見し、夜会を開ける身分は限られる。
そして…リーシャ。
考えられるのはただ一人。
「ディアス様…?」
「アイリスぅ?何か言った?ていうか手を止めるな!ただでさえ時間がないんだから!間に合わなかったらあたしの苦労が水の泡じゃない!?」
アイリスが小さく呟いた名は幸いにも聞き取られなかったらしい。
シアが差し出した髪飾りを受け取る。真珠と水晶が連なったそれを丁寧にリーシャの髪に絡ませていく。半分を結い上げ、半分を垂らしたままにした髪。そこに華奢な飾りが巻き付く。
「リーシャリア様、出来ましたわ。」
アイリスの声に音もなくリーシャが立ち上がる。重さを全く感じさせない、洗練された所作。
ぎりぎりになってようやく届けられたドレスの色は白。まさに純白というのが相応しいそれはキィリアが花雪をイメージしつ作り上げたもの。もともと雪の名を冠するドレスの構想を練っていたキィリアはリーシャを目にしてリーシャのためにその構想を現実に興すことに決めた。
本来現実にするつもりは毛頭もなかった。
理由は単純。
このようなドレスが似合う人間などいないと思っていたから。
そもそもユークリックには髪の色素が濃い人間が多い。最も薄い色といってもせいぜい亜麻色。キィリアが思い浮かべていた『雪の精』といえるような容姿を持った人間はいなかったのだ。
しかし、そこにリーシャが現れた。華奢な肢体と透き通るような銀髪。
多少の無理を押し切るだけの価値はあった。
しかし、実際にリーシャが見に付けるとキィリアの予想とは少々異なることとなっていた。
あらかじめ下図を作ってあったレースを、お針子たちを総動員して編んだ。できる限り糸を少なくして大きく編んだそれは糸の集積であるはずが透き通るような軽さを纏い、幾重にも重ねられてドレスの膨らみを生み出す。硬い素材をなるべく使わずに作られたその膨らみは、リーシャの動きにあわせて舞い踊るかのように揺れる。袖には花と雪を表したレースを用い、袖の先はやや広めに。背中は夜会らしく大きく開け、細く編んだ同種のレースで編み上げる。
リボンなどの装飾を省き、簡潔な白でまとめられたドレス。装飾に真珠や水晶を惜しげなく使ってはいるが、夜会のドレスにしてはいささか淡白にも思われる。
それでもキィリアはリーシャを見て、それを補えるだけの容姿であると確信した。むしろ華美にしないことによって、まさに妖精のように可愛らしく初々しくなるであろうと予想していた。
実際目にしてみると、甘いはずのドレスはリーシャの青い瞳の煌きによって全く性質の異なる物になっていた。甘さの中に、いや甘さを上回る形で気高さの醸すようになっていた。髪に絡められた水晶を氷の結晶のように身に纏っている姿は妖精などといえるものではない。
それはまさに、雪の女王。
おそらくは夜会に出ても誰一人として声をかけないであろうほどに高潔で美しい姿。この世のものでは到底ないかのように思われ、畏怖を抱かせるに違いなかった。
「ディアスぅ。そろそろ行かないとまずいんじゃない?」
皇太子に与えられた広い部屋に揶揄するような楽しげな声が響く。
出窓に腰掛け、足をぶらぶらとばたつかせながら子供っぽさの抜け切らない青年は帝国皇太子に声をかける。
「…エルか。遅かったな。」
「ちょっと厄介だった。侮れないよ。あの国。よっと。」
小さく体を反らせながら出窓から飛び降る。満月には日の足りない歪な円を描いた月の明かりに照らされる中、男性にしては長めの白髪が踊る。前髪の間からのぞく大きめの瞳は澄んだ水色。
それは、異形。
そのままディアスの下に歩み寄り、どこからか出してきた紙の束を渡す。ディアスが黙って受け取る。
「あぁあ。分かってたけどさぁ…もうちょっと反応してくんない?折角窓から入ったのに。」
「そんなことにいちいち構ってられるか。大体最上階の窓からわざわざ入ってくる酔狂な人間などお前くらいだろう。」
次から次へと紙を捲り、目を通す。
「ちぇっ。つまんねぇ。」
不貞腐れたように水差しと果物が置かれたテーブルに腰掛け、再び足をばたつかせる。水差しの水が揺れ、揺れ、雫が飛び出る。
「椅子に座れ。」
エルを見もせずにディアスは言葉を発する。相変わらずその視線は紙に注がれたまま。
呆れたようにエルはその様を見つめ、ため息をついた。テーブルの上に足を乗せ、そこに頬を乗せる。残った片足は変わらずに前後運動を繰り返している。
「ねぇ、知ってる?」
エルが口を開く。先ほどまでディアスを見つめていたはずの色素の薄い瞳は窓の外に向けられている。
ディアスの部屋からはおおよその城内を見渡すことができる。雪に月明かりが反射して明るく見える景色の中とりわけ明るい一角。色とりどりの貴族達の衣装が蠢いて見える。個々は認識できない分、全体的な鮮やかな色が目を引く。
「リーちゃん、可哀想なお姫様になっちゃってるよ?」
その一言。
それで止まることなく書類の上を行き来していたディアスの視線が止まった。
その互い違いの瞳がわずかに上げられ、エルのほうへ向けられる。その、あまりにも想像通りの反応に老人のような白髪を持つ青年はにっこりと邪気のない笑みを浮かべた。それを見て反対にディアスの眉間に皴がより、かすかな後悔がよぎる。無邪気な笑みがひどく有邪気なものに思えてならなかった。
「あぁあ、でも仕方ないよねぇ。皆が噂するのも。何しろこっちが来てくれって頼んだのに、その頼んだ張本人にあんなに無礼なことされて挙句の果てに今まで謝罪なしらしいし。その上も婚約から一ヶ月と半分も経っちゃってるのに一回も会いに来ない婚約者がいるんじゃあね。ほんっとに可哀想。ディアスが壊したあの髪飾り、すごく似合ってたのになぁ。」
からかい口調でまくし立てる。ディアスは小さくため息をつく。今しがたまで読んでいた紙の束を暖炉の中に放り込んだ。ばらばらになり、一枚、また一枚と炎に包まれ、面白いくらい簡単にそれらは燃えていく。
「ねぇ、本当はそんなものなくてももう気がついていたんでしょ?」
呆れ半分迷惑半分でエルが続ける。少し残念そうに燃えていく紙を見つめる。いくらディアスの頭の中にその内容が入っていったとはいえ、自分の一ヶ月以上にも渡る成果が燃えていくのを見ると泣けてくる。その上さほど必要のなかった内容に違いない。
「何の話だ。」
異形のエルを拾い、普段は冷静沈着で曖昧なことが大嫌いなこの年の近い主はここまで言ってもしらばっくれるようだ。
笑みを形作っていた水色の瞳が冷めるように形を変えていく。冷え冷えとした月光の中に水色の輝きが冴える。
「間違えていなかったってこと。」
それだけで十分。十分すぎた。
ディアスの中でそのことは明らか過ぎるほどに決まっていて。ただそれを認めたくなかっただけなのだから。
全てが灰になる一歩手前。最後まで燃えないで残った一片に記された文字。
ディアスもエルも見つめる中、その最後の一片が灰に変わる。
リーシャリア・ティン・ガランドールは『リーシャ』であることは断定され得る。
ならば。
「…エル。8年前のガランドール王国王室について洗いなおせ。」
ディアスが炎を見つめたまま口を開く。
必要なのはリーシャリアと『リーシャ』の間に生じた差異の理由。
「了解。」
結局。主を尊敬している白髪の青年はまた旅立つことになる。春と冬との間を駆けるのもなかなか乙なものだ。そう自分に言い聞かせて。でもそれだけでは癪だから。
「これではっきりしたんだからこれ以上意地悪するの、やめなよね。一週間は短すぎ。」
間合いを計ったかのように扉がノックされる。
「今行く。」
銀髪の美しい姫君を迎えに。
ディアスは漆黒のマントを翻しながら踵を返す。
その真横から声が響く。
「オルフィオが動いたよ。アンターウェルトから人、回しとく。」
それはエルの声。響くと同時にその気配はなくなる。ディアスの表情から迷いが消える。冷酷な、上に立つ者の表情が変わりに浮かぶ。
道を阻むものは薙ぎ倒せ。邪魔立てするものはねじ伏せろ。
前々から出そうと思っていたエルがようやく登場しました。本当はもう少し控えめな青年だったはずが…日頃の鬱憤を晴らすかのように暴走しています。