第九章 世界を変える力
ユークリック帝国創成よりはや八世紀がたとうとしている。もはやこの国は国としての機能を果たしてはいない。貴族はなけなしの贅を屠り、確かに巣食い今にもこの国を飲み込もうとしている闇から眼をそむけている。民は皆飢え、栄えある帝都でさえも疫病の巣窟となってしまった。盗み、殺し、自害。誰がそれを責められようか。そうすることでしか生きていけない場を創ったのは誰だ。皇帝か、貴族か、民か。否。それは誰でもなく、かつての栄光にすがり、光を守ろうとしなかったこの国の本質そのもののせいだ。永久に輝き続ける光などない。我らは消してはならないものを消してしまった。一度消えてしまったものを再び灯すことの難しさに気がつかなかったわけではあるまい。我らは驕ってきたのだ。我にできることはただ掻き消えた光を懐かしみ、新たな光を望むことのみ。我は無力ゆえに光を創成することはできぬ。いつかこの書物を手にする者にこの帝国の末路を伝えんがために筆を執った。主の世にはおそらくユークリック帝国は存在しまい。そして、我の時も尽きようとしている。膨大な我の記憶を読んできたであろう主に我は最大限の感謝を示したいと思う。
書物を痛めることがないように最低限の明かり窓しか設けられていない小さな部屋。リーシャはそこに置かれたたった一つの椅子に腰掛け、羊皮紙の束を抱えていた。ユークリック帝国の城には似つかわしくないその椅子は、リーシャがわずかに身じろぎをするだけで軽い悲鳴を挙げる。
ユークリック帝国の歴史をつづる書物の中でも、特に問題視された書物ばかりが詰め込まれた部屋。書物ばかりではなく、走り書きのような書体で書かれた文字や、製本する前のばらばらの状態のものがあふれかえっている。
それらは全て、公にはされていない文章。皇帝の血に連なる者にのみ閲覧が許可される所蔵物が置かれた部屋の、さらに奥にある無数の部屋の一つ。奥にゆけばゆくほど、埃臭くなる。
問題視をされていながら、破棄されなかった書物たち。
リーシャは抱えた羊皮紙の最後の一頁を裏返した。
上質のビロードで作られた手袋の先が埃で白っぽくなってしまっている。その様子に少しだけ眉をひそめたが、その眉間は羊皮紙の裏に記されていた名を見てよりいっそう険しくなった。
「そういうこと、ね。」
記されていたのは一昔前の人物の名前。先々代皇帝の補佐官であり、先代皇帝の目付けなども務めていた人物。非常に優秀で柔軟な考えを持ち、帝からの信頼も篤かった。ただし…
ユークリック側が、皇太子妃となるリーシャに付けた歴史の教師の話していたことが頭をよぎった。
「彼はこう言ったのです。…帝国の因習が自らを蝕んでいる。この帝国はまもなく滅びるであろう。」
その教師が淡々と唱えた言葉が口をついて出てくる。その口調からはわずかな怒りがにじみ出ていたのをリーシャはよく覚えている。時代が違うにもかかわらず、愛国心を持つ人間を不愉快にさせるのだ。当然当時の貴族達はその発言に色めき立ち、その人物を投獄した。その十年後、長い牢獄生活の末に、獄死。
つまり、この部屋の書物は、数々の賢人と呼ばれる者たちが遺した帝国の負の側面。客観的で事実が分かりやすく捉えらえられている。流石は、その知性を讃えられただけのことはある。破棄されなかったのは、それをしたためた人物の言葉を抹消できるだけの正当性がなかったから。それは、ひどく捻じ曲がった畏怖と尊敬の念の形なのだろう。
リーシャは軽く首を振り、一度思考を消し去る。重要なのは過去のユークリックではない。
ここに来た本来の目的は、過去に思いを馳せることではない。
ユークリック帝国へ着いてから一ヶ月。それはリーシャが皇太子妃として迎え入れられた月日に等しい。『ロード』を有し、各国の情勢に関してかなり詳細な情報を持つガランドールにでさえ、その内情の片鱗すら見せなかったユークリック帝国。せいぜい分かったことが帝政を取っていることと第二皇子が皇太子であるということ。そして、帝国の用いる力が何なのか分からないということが分かった。
それは何も知らない、ことと同義だ。
少なくともリーシャはそう考えた。リーシャに婚約の話を持ちかけてきた国の中で最も謎の深い閉ざされた国。だからこそ、リストから完全にはずすことができなかったのだ。
新たに迎え入れられた皇太子妃に皇帝は多くの教師をつけた。語学、風習、作法、歴史、さらには国内情勢、貴族の力の優劣ならびに婚姻関係。皇太子妃として必要と思われる全てのことは一通り身に付けた。
逆を言えば皇太子妃に必要でないことに関して、教師は多くを語らない。歴史を教えるにしても、情勢を説くにしてもそれはあくまで表面的なもの。真実ではなく、つなぎ合わされた奇麗事。
もちろんそのようなことを教師は言わない。皇太子妃であるリーシャも当然そのようなことを教師には聞かない。必要以上に深く物事を誰かに聞くことは、相手に邪推を抱かせる。彼らがリーシャに知識を与えるのは、皇太子妃としてのお披露目のため。因習により、ユークリックについて最低限の知識と教養を備えていない者は公的な場に披露できない、ということらしい。現にリーシャはユークリックにおいて公的な場に足を運んだことは一度もない。
しかし、ガランドール王国王女であるリーシャにはそれでは足りない。ガランドールに不利となりえるものは、一つでも多く見つけ出し、摘み取らなくてはならない。
リーシャの気にかかったのは、ユークリックの抱える闇の歴史。特に、婚約者であり時期皇帝であるディアスに関するもの。どの教師も、ひどく曖昧にしかディアスに関しては語らない。本来最も語りやすいはずの、現世に存在している者に関してあれほどにまで隠すのはなぜか。筆頭がディアスが第二皇子であるにもかかわらず、皇太子となっていること。第一皇子であるダグラス・リン・ユークリックは多くの武勲を有する者だ。一方、ディアスが武勲を立てたという話は誰もしない。教師はダグラスが帝位に就くことを拒んだためと、口をそろえて言うが、それだけでディアスに帝位が回ってくることなどありえない。
ディアス自身が何か力を持っていなければ。
その力を把握していなければならない。自衛となりえる力は、容易に周囲を屈服させる力になりえるのだから。
リーシャは早々にその何かについて調べ始めた。人には訊けない。ユークリックという未知の国ゆえ地脈もない。よって情報を買うようなこともできない。それゆえに必然的に書物に頼ることしかできない。
幸いにも日に日に教師陣による教育に充てられる時間は減った。リーシャは、その自由になる時間をもっぱら城内の図書館で過ごした。一般的にある程度の富裕階層にある娘は婚約期間を裁縫や刺繍に当てていることから、教師の中にはよい顔をしない者も多かったがアイリスの口ぞえもあって今では黙認されている。
リーシャは長い間同姿勢を続けていたために凝り固まってしまった四肢を伸ばす。とはいうものの、この狭苦しく埃臭い部屋ではそれすらも満足にはできない。いくらなんでもドレスの裾を真っ黒にして自室へ帰るわけにもいかないだろう。羊皮紙の束をもとあった場所、床の片隅に無造作に置き、ドレスの確認をする。
ユークリックでは、貴婦人は沢山のひだを持つ光沢のある重い素材を好んで着るらしく、リーシャもそれに倣っている。が、この服はドレスということを差し引いても扱いにくいとしか言いようがなく、アイリスたちが毎朝そのような服を出してくるのを見ては心の中で辟易している。特に夜会を想定していない日常のものであるためそれほど膨らみを持たせてあるわけではないが、あくまでそれは比較したとき話である。
正面、背後、裾。目立った汚れは見当たらない。リーシャは小さく安堵の息を漏らす。ドレスの汚れを気にしなければならないような生活は何年もの間していない。
リーシャは小さな窓から空を仰ぐ。珍しくも雪は降っておらず、薄い太陽の光の中で埃が煌いている。そろそろ部屋に帰らなくてはなるまい。とりあえず、今日で三つのことがはっきりとした。
帝国は間違えなく、滅亡寸前までに疲弊していた。
そして、その疲弊が表立って現れなくなったのが、ディアスが皇太子となる僅か前。この二つのことが無関係であると思えるほどリーシャの頭はめでたくできてはいない。
リーシャは髪についていた細かい埃を払い落とす。
ディアスの有する力はどのようなものであれ、一国の存亡を大きく逆転させるものである。武力ではないその力。国を傾けるのですら、さほど容易ではない。まして、国、大国を立て直すとなると困難を極めるとしか言いようがない。その全てを可能にする力。
そして、おそらくこれ以上城の蔵書をあさっても、ディアスの力についての情報は得られない。これよりあとは、自分で事実の断片を集めて構成するしかない。
リーシャは狭苦しい部屋の扉を静かに閉めた。相変わらず文字と本との集積ではあるが、空気は幾分かよいように思われる。その本の間を優雅な足取りで通る。誰かがいるとは考えにくいが、誰がいてもかまわないように。
急に視界が広がったためか、ひどく曖昧に物事を捉えている頭に短い亜麻色の髪の少女の顔がよぎる。7年間もの間一緒にいたその少女を泣かせた。そして、兄の顔。妹の眼から見ても十分に秀麗なその顔はわずかにゆがんでいた。彼らに笑っていてもらいたいから。できる限りの幸せを築いてもらいたいから。
これで、罪滅ぼしになるのなら。リーシャはいくらでも自分を傷つけることを自らに誓った。
問題は、山のように積み重なっていた。
非常に説明性の強い章になってしまいました。
次章には新たな人物も登場する予定です。…より早い更新をがんばります。