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第八章 終わりのはじまり

 春の遠い雪に閉ざされた国。その朝の空気は痛いほどに肌を突く。

 それは行動することすら億劫になるような寒さで、あちらこちらで手をこすり合わせる人物達が窺える。日は昇ってはいるものの、まだ本格的に活動し始めるにはあまりにも寒い時間。

 本来ならば朝霧の中に静けさを漂わせて浮かび上がっているはずのユークリック城は、異常な喧騒に包まれていた。


 「姫様、納得できませんわ!」

 暖かな国で暮らしてきた異国の姫のために、通常よりも暖められた空気を引き裂くかのように叫び声が上がる。その悲痛な叫びが上がり、落ち着きを失った城内でも特に騒がしいその一室にリーシャリア・ティン・ガランドール――正式に皇太子妃としてユークリック帝国に迎え入れられた姫はいた。正確にいえば、その一室に偶々リーシャが居合わせたのではない。城内で最も暖かく帝都を一望できる部屋の一つとして数えられるそこは、皇太子妃に帝が賜ったもの。つまりはリーシャに与えられた部屋であった。

 リーシャが朝の支度を済ませるか済ませないかの時間、多くの貴族はいまだに寝ているのではないかとすら危ぶまれる時間に怒りを露にしたその一団は押しかけてきた。リーシャの寝室を守っていた帝国近衛隊の隊員たちを押しのけ、ユークリックの侍女達には視線すらよこさずに、防寒性に優れているとは到底言えないお仕着せに身を包んだガランドールの侍女達はリーシャに詰め寄った。

 ユークリック帝国に対しても、リーシャに対しても非常に不敬な行為。もちろんそのようなことにその侍女たちが思い至らなかったわけではない。仮にも王女、それも唯一の王女の実質上の輿入れに付けられた者達。つまりは、ガランドール王城に勤める侍女の中でも身分、作法、容姿、全てにおいて抜きん出ている者たちだ。侍女でありながら同時に貴族の娘達でもある彼女らは、それなりの待遇と特権を有し、他の国へ赴けば賓客として扱われる。だからこそ、近衛隊も迂闊にその進路を阻むことはできなかったのであろう。現に今も侍女たちを止めることもない。

 リーシャはまだ結い上げていない髪の間からため息を漏らす。それは微かな苛立ちを含んでいて、なおも言葉を声高に発しようとした侍女達一行が息を呑む。不敬を承知で彼女達は主である王女のもとへやってきた。しかし、それは全て王女のため。自らの国の王女がないがしろに扱われて納得できるはずがない。

 王国から遠く離れたこの帝国で、美しい王女の味方となれるのは自分達しかいない。王女も自分達のこの働きを無碍にはなさらないはずだ。慢心にも似たその思いが侍女達に再び言葉を紡がせた。

 「皇太子妃にと乞われて赴いたのにもかかわらず、その皇太子殿下が姫様にひどく・・・不敬なことをなさったとお聞きいたしましたわ。」

 言葉を濁しながらも、城内に溢れかえっているその噂を口にする。糾弾せんばかりの口調で別の侍女も言い添える。

 「私達の入室は不本意にも許されませんでしたが、何が起こったのは存じ上げております。」

 はじめはリーシャのため息に途切れ途切れ言葉を重ねていた侍女達ではあったが、次第に言葉は増えていく。堰を切ったかのようにかろうじて上品さを残した叫びが無秩序に、しかしある一つのことを求めるためにほとばしった。

 「今すぐガランドールへお引き換えしなさいませ。」

 「姫様には多くの殿方が求婚なさっていたとお聞きいたしましたわ。」

 「このような北の寒い土地でなくとも、より王国に近い国の殿方はいらっしゃいますわ。」

 「リーシャリア様に対するこのような仕打ち、ユース様がお許しになるはずがございませんわ!」

 「帝国とはいえ、廃れたといっても過言ではない風習を守っていけるなど信じられませんわ。」

 「昨日身に付けていた髪飾りは姫様にお似合いになるからと献上されたものでしょう?それを…」

 王国の侍女達の、重なり合うような不協和音の叫びに、リーシャの朝の身支度を行っていた帝国の侍女達のほとんどは青ざめた。唯一何食わぬ顔をしているのはシアという小柄な少女のみ。無駄のない手つきで枝を切り、絶妙な角度で青がかった白い花が飾られる。少しだけ、蕾が揺れた。

 アイリスは細かい装飾がたくさんなされた華奢な金の櫛を手にしたまま硬直していた。本来ならば、主の部屋の平穏を乱すものとして騒ぎ立てる者たちを遠ざけなければならない。しかし、その圧倒的な不満と憤慨の塊を眼にして、動揺を表情に出さないだけでも精一杯であった。

 ただ、眼の前の光景だけが沈黙の原因ではない。アイリスの今の主はリーシャであるが、かつてはディアスに付けられた侍女であった。付けられた、というのは語弊があるかもしれない。生まれてからディアス以外の人間には仕えたことがなかった。ユークリック帝国に忠誠を誓ったわけでも、帝に忠誠を誓ったわけでもない。仕えるとかという次元ではなく、ディアスの近くにいるのが自然だった。兄妹のような関係であった。実際、ディアスを実質上育てた乳母はアイリスの母親なのだから、その例えはあながち間違えでもない。

 だからこそ、まだ衝撃が頭にこびりついて不快な音を立てる。自分が普通に、いつもと同じように見えるくらいには普通に生活できていることが不思議でならない。ディアスの『リーシャ』に対する執着と、想いと、再会するために積んできた血の滲むような努力を間近で見てきた。10年、決して短くはない自分の半生にも当たるそれだけの時間を、駆け抜けた。ディアスは認められるために様々なことをしてきた。それは全て、一人の少女を腕に抱くためのもので。そんな家族と同じだけ近い皇子が幸せになることを心から祈っていた。


 なのに、10年の時を経た再会で皇子が示したのは、拒絶。

 それはアイリスを、彼に近しい人間を困惑させるには十分すぎるもので。

 ディアスが否定したならば、今目の前で自国の侍女達の叫びを一身に受けているこの少女は『リーシャ』ではないのか。『リーシャ』とリーシャリア・ティン・ガランドールは異なる人物なのか。しかしそれにしては条件が揃いすぎる。全体的に色素が薄く、透明度の高い銀髪。さらに瞳は澄んだ青色。ユークリックではその全てが見慣れない色。はじめディアスが『リーシャ』について話したとき、正直に言ってそんな特徴を持った人間がいるのかと、心底疑った。当時7歳であったアイリスは、疑いを思わず口にしてしまったが、あの時は本当に後悔した。あの何に対しても諦めていた皇子は目を輝かせて『リーシャ』について、それはもうありとあらゆる言葉を尽くして長い間語ってくれたのだ。これはけっして主観ではなく、明るかったはずの空に細い三日月が出てしまっていたのだから、相当に長かったといってよいであろう。

 そんな時よりもはるかに長い待ち時間にアイリスも相応に世間を知っていった。だから、断言できる。同じ国にあのような容姿をした、同じ名を持つ少女が2人いることは確率的にありえない。銀色の髪自体がとても珍しく、さらに色素の薄い肌ということが揃うとなるとその確率はとてつもなく低くなる。通常銀色の髪はもっと南の国の一部に見られるものだ。しかし、そこの人々の肌は褐色。白い、肌とはいえない。

 

 結局のところ、アイリスにリーシャシアが『リーシャ』なのかは分からない。

 だからこそ、今リーシャがディアスの目の前から消えてしまうことはあってはならないことであった。リーシャとの婚約を破棄せずにあの場を離れたということは、ディアス自身判断がつかなかったのだろう。もしこれで、『リーシャ』がリーシャリアであったならば、きっとディアスの心は『リーシャ』を失うことに耐えられない。


 アイリスは幾分か冷えてきた頭で状況を再確認した。ガランドールの侍女達は疲れを知らないかのようにリーシャに言葉を浴びせている。椅子に座ったリーシャの表情は髪に隠されて見えない。

 ここで、リーシャがガランドールに変える選択肢をしたならばどうなるであろう。昨日の様子を見た限り、誇り高いこの王女が前言を撤回するとは考えにくい。

 しかし、万が一。万が一この一晩でその心が折れてしまっていたのならば、ユークリックにはもう止められない。ディアスのあの行動はどんなに身内として贔屓をしたとしても許されることではなかった。幸いにもリーシャが血を流すということはなかったが、他国から迎え入れた王女に危害を加えかねない振る舞いをしたのだ。下手をすれば国と国との争いにすら成り得る。リーシャがガランドール王国に帰るとしたとしてもなすすべがない。


 アイリスはもはや祈るような気持ちでリーシャを見る。知らず知らずのうちに握り締めた手のひらに櫛の細工が突き刺さる。痛みだけが妙な現実感を伴っていることが不思議であった。



 俯き加減であったリーシャがかすかに顔を挙げる。後ろに控えたアイリスにはその表情を捉えることはできなかったが、その瞳には何の表情も浮かばずにただ騒ぎ立てる自国の侍女たちを映していた。ようやく、反応を見せた王女に侍女達は一瞬口をつむぐが、そこに可能性として予期していた怒りが感じられないことを見て取ると、勝ち誇ったようにアイリス、ユークリックの侍女達のほうへ目配せをした。今日、はじめて二国の侍女達の視線が絡み合った。

 そして、リーシャがいよいよガランドールへ帰る決心がついたのだ、と解釈したリーシャに付けられた筆頭侍女と思しき少女は口を開いた。


 「・・・ガランドールへ、帰ります。」


 その侍女をさえぎる形で声を発したのは台風の目とも言える王女。周りの喧騒さの欠片すらも纏わない静かなささやきにも似た声が辺りを震わせた。それは壊れたマリオネットのようで、生気のないつぶやき。

 それでも、ガランドールの侍女を歓喜に震わせ、ユークリックの侍女を突き落とすのには十分なものであった。


 「と、私が申し上げれば貴女方は満足なさるのですか。」


 歓喜に震える空気を一瞬にして凍りつかせる声が響く。

 同時にリーシャの瞳が危険なまでの光を発す。

 もはや豪奢な椅子に置かれているのは造形美を極限まで突き詰めた人形ではない。

 そこに腰掛けるのは人間の限界を超えた神がかった美しさを有した少女。相変わらずの静けさを表面上は保っていたが、たぎるような蒼い炎を内に宿し威圧感を発している。


 それは紛れもなく、怒り。


 そこまできて、侍女達はようやく気がつく。自分達は触れてはいけないものに触れてしまったのだと。


 「私が今、ガランドールへ帰ることで変わることは何か。仮にも王国貴族の令嬢である貴女方に想像できないはずはございませんでしょう。それすらもできぬようならば・・・」


 リーシャは言葉を切る。ゆっくりと一回瞬きをして、冷酷なまでの微笑を浮かべる。


 「私は貴女方を必要とはいたしません。私は帝国の皇太子妃なのですから。貴女方が退廃したというその風習に習いましょう。」


 悩むことすら必要としない。それはリーシャ自身が決めた道なのだから。


 「私を主と仰ぐのならば、私はガランドール王国第一王女リーシャリア・ティン・ガランドールとして最後の、そして帝国皇太子妃として初めての命令を貴女方に申し付けます。」


 私に共をした全てのガランドールを祖国とするものに、ガランドールへの帰還を命じます。帰還と同時に貴殿方は国王を主と御仰ぎください。なお私に関してたずねるいかなる者にも、滞りなく皇太子妃として迎え入れられた、そうお話くださいませ。


 それは暗に昨日のことを他言無用だと指し示すもの。凍りつく、今にも崩れてしまいそうな侍女たちを見て、リーシャは自嘲する。

 いくらでも、傷つけて見せよう。わたしは覚悟をしたのだから。


 さらに冷徹に言葉を重ねる。


 「そして、貴女方が重ねた暴言の数々。到底許されるものではないと自覚なさい。帝国に対しても、私に対しても。」


 何かが確かに軋んだ。リーシャは気がつかない振りをする。

 どれほど心が痛もうとも、それを悲しむ権利は持ち得ないのだから。

 白い花だけが変わらずに花瓶の中で揺らめいている。


 異国の地にて。

 それは過去を引きちぎる確かな刃となる。


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