序章
「こちらのほうに目を通していただけますか?」
言葉だけを聴けば選択権を与えられた問いかけであったであろう。しかしその声は明らかに否、と言わせない類のものであった。
ガランドール王国、王都リエセル。大陸の中央に位置し、交易と交通の要所となっているその国で最も絢爛で荘厳な城、ガランドール王城の政務室で若き王ユース・フォン・ガランドールは目の前に突きつけられた決して軽いとはいえない紙の束にその手を止めた。
ユースは集中すると外部からの音にまったく注意を払わなくなるきらいがある。このときもまた目の前に来られて初めて部屋に人が入ってきたことに気がついた。親友でもある近衛隊副隊長からはその危機感のなさはヤバイ、直せと事あるごとにいわれている。
親友の口調までもそのまま思い出されたことにユースは苦笑が浮かべた。
促されるままに紙の束を手に取る。ユースにそれを手渡した人物は、用は終わったとばかりにきびすを返す。銀色の髪が翻る。
来年度の予算案であろうか。それとも近頃不備が報告されている「ロード」の補修工事の原案であろうか。いずれにしろ、忙しくなりそうである。休暇はやはり、先延ばしにする必要がありそうだ。妹と遠乗りに出かける日もまた延ばさなくては。
あまり感情を顔に出さなくなった妹姫がさほど残念そうな顔もせずに分かりました、というであろうことが容易に想像された。ユースは悲しみともつかない感情を覚え、無理やりそれに蓋をした。とりあえずはこの書類である。軽く目を通して、優先順位を決めなければならない。
ユースの手が止まる。手だけでなく確実に思考も止まっている。
自分自身でそれに気がつきながらも、どうしても動かすことができない。
王たるもの、いかなるときも冷静かつ公平でいなくてはならない。王とはすなわち国民の道しるべ。王が冷静さを欠けば国民もまた穏やかではいられない。
幼いときから王位継承権第1位を有していた青年の頭を、やはり幼い頃から繰り返し聞かされてきた言葉がよぎる。
……だからなんだと言うのだ?親友の言葉を借りれば、そう…そんなものくそくらえ、である。
手にした書類を机にたたきつけ、荘重な革張りの椅子を蹴り倒さんばかりの勢いでもって立ち上がり、大声を出す。
「リーシャ、これは何だ!」
扉の外で控えていた兵士たちが驚く前を大急ぎで駆け抜ける。
書類を突きつけた人物、ユースのたった一人の妹姫を問いただすために、日ごろの柔和な笑みも、冷静さもかなぐり捨てて赤い絨毯の敷かれた廊下を駆ける。
真っ青になった大臣や女官長、補佐官が押しかけてこようがその時はその時だ。
主が駆け去った政務室に春の風が吹く。温かなそれは部屋の中を優しくなでて、書類の積み重なったマホガニーの木目が美しい机の上を拭きぬける。
部屋の主が取り落とした書類も温かな風に翻る。
そっけないほど真っ白な表紙に優美な筆跡が踊っている。
記されているのは「王妹リーシャリア・ティン・ガランドールの婚約者候補」の文字。記したのは紛れもなくその本人。
春のガランドール王国。その中枢には季節外れの嵐がやってきた。