前編
とある都市の辺境に位置する、一面緑の霊峰に囲まれた盆地。通じる道は一本の整備された道路だけという云わば秘境の地にあり、その道路に沿うようにして、霊峰より流れる小川がのどかに広がる緑色の景色にアクセントを与えている。その反対側には緑々しく生い茂るケヤキの枝が道路上まで伸びており、まるで道路に自然のアーチを添えているかのようである。そのような場所にありながら、似つかわしくないほど溢れ出す活気と喧騒。その雰囲気にはあたかも忙しく時が進む都市の一部分だけが切り取られ、厳かな自然の中に突如として貼り付けられたかのような奇妙さがあった。
その盆地には遊園地がある。一度は遊園地建設の話が持ち上がったものの、建設途中で運営会社が倒産しそのまま放置されていた場所である。去年の夏に再度遊園地建設の計画が受注され、今年の初めにグランドオープンを迎えたばかりの新しい遊園地となった。なぜこのような土地に遊園地を建設したのかというのは、当初の計画の頃から一般人の間で議論され続けており様々な憶測が飛び交っていた。だが実際のところは謎に包まれており、その不思議で奇妙な雰囲気をより一層強めている。
「いやー、遊園地に来るのは何年ぶりだろう」
ふと若い青年の明瞭な声が響く。軽く茶色に染めた髪が真夏の眩しい陽光を反射し、彼の明るい雰囲気を引き出している。白いTシャツと青いジーンズという素朴なファッションであるが、飾り気のない格好は彼の清潔感を演出していた。
その隣では黒光りする艶やかな髪の毛を右肩の上でふわりと結び、馬というよりは猫のしっぽのようにまとめた毛先を肩に載せた子が歩いている。くの字に曲がった唇はひかえめに紅色を主張し、大人への背伸びを伺わせる。
「さすがに雲ひとつない晴天になるとは思いもしなかったわ。日傘を持ってくるべきだったかな。」
とやや苛立たしげにその子が呟くと、その純朴そうな青年は驚いた顔で慌てて返事をした。
「あ、俺折りたたみ傘持ってるけど代わりに使えないかな?」
と本人にとっては最良の選択肢のつもりだったようだが、彼女にはそんな洒落っ気のない傘差してどうするの、と一蹴されていた。
この明るく天然のような青年が海城翔、そして少し気の強そうに見える女性が竜宮あやめである。二人はこの遊園地が位置する都市の大学に通っており、交際を初めていくばくか経つにも関わらず初々しいカップルの雰囲気を醸し出している。彼らは交際一年目の記念日であるこの日に、遊園地でデートをすることにしていたが、翔はノープランであったようで、彼の第一声が
「あやめ、どれか乗りたいアトラクションか何かある?」
という質問だった。
「もしかして、コース決めてなかったりする?」
と少しばかりの落胆を込めた声であやめが返事をしたので、翔は驚いて
「その、好きなアトラクションに行けばいいじゃないかなと思ってさ」
ととっさに弁明した。
実はその弁明は苦し紛れのものではなく、翔のノープランとは彼女のしたいようにさせること、という一点から導き出された彼なりの答えだったのである。彼は優柔不断ではあるが、それと表裏一体になっているのが彼の気遣いであり、それ故に時々こうした小競り合いに発展することがある。
「ふーん、要するにせっかくの記念日デートでプランを立てていなかったというわけなのね?」
と弱ったところに畳み掛けるようにしてあやめが責め始めたので、翔はむっとしながらも
「悪かったね、それじゃあまず評判のウォータースライダーに乗ろうか。」
と慌てて最初の行き先を設定した。
遊園地の入り口正面には、宝石箱のようにきらびやかな噴水があった。欧州の著名なデザイナーの作品であると言われるこの噴水は五角形の形をした水槽が二段違う高さで重ねられており、吹き上げられる水には丸いガラスのビーズが混ぜられている。昼の間はガラスビーズが太陽光を分散することで七色に輝く水の美しい軌跡を描き、夜になると青色を基調とした寒色系のライトアップにより涼しげな場が創り上げられる。
その魔法の噴水より向かって右に伸びる道はウォータースライダーというアトラクションに繋がっている。ウォータースライダーは4階建てにもなる監視塔と呼ばれる建物の各階から、常に水が流れる滑り台が地面までに伸びているアトラクションである。スライダーはチューブ状になっており、遊園地の景色を楽しみたいという要望に答えるため上半分が透明の素材でできている。もちろん高所恐怖症の人でも1階程度の高さから滑ることができるため、人を選ばない人気アトラクションの一つとして有名である。市民プールなどでもよくあるものだが、着替えずに済むという利便性を考えて全身を覆う防水スーツのようなものを着てチューブに入ることになっている点が異なっている。
「うー、しかし一々レインコートみたいなの着なければいけないのは面倒ねー」
とあやめが文句をいう姿を眺めながら、翔は困っていた。彼は当然の如くあやめが行き先を決めていくだろうと考えていたので、そのアテが外れた今慌ててデートコースを練っている最中だった。
「鏡の城は当然最後に行くとして、エアライダーはその前で良いだろうか。でもトラッキング・トレイルと連続で行くのは飽きられるかなぁ」
などと翔が独り言を喋っていると、
「何ぼーっとしてるの、早く滑り台に乗りに行きましょう」
とあやめにやや不機嫌に急かされるのであった。
ここで翔は、自分の過ちに気づく。彼は高所恐怖症なのだ。しかし、自分から最初に連れてきたアトラクションでいきなり
「高いところが怖いので一階から滑ります」
と言ったのでは格好がつかないため、またあやめが当然のように4階への階段をまっすぐ登っていくためやむを得ずついていった。その階段はコンクリートで成形された重厚なものではなく、無数の小さな穴が空いた鋼のプレートが一段の代わりをなしているものだったため翔は努めて上を見つめ、あやめに悟られぬよう彼女には背を向けていた。手すりの先にある透明な壁から見える遊園地の全景は、感動というよりも恐怖が勝ったようで、翔は肩をこわばらせていた。
その様子に気づいたあやめが、ふと微笑んだ。そうして彼女は翔の肩に抱きつくと同時にわっ、と驚かせたのである。しかし高所恐怖症の人間にとって、自分が高さに緊張している時に驚かされるのは冗談では済ませ難いほどの衝撃であり、それは翔にとっても例外ではなかった。
「な、何するんだよ!もし階段から転げてたらどうするんだ!」
と周りの視線もかえりみず翔が声を荒げたため、あやめも一瞬驚いた後に
「何もそんなに怒らなくても良いでしょう!心配しなくても落ちないわ!」
とやり返していた。
途端に、その場の空気が急変し人々の視線が二人に集まっていた。だが翔にとってその注目は何の興味もひかず、今はただ自分を驚かせた彼女に対する驚きと少しばかりの怒りがこみあげてきているのであった。先ほどからのあやめの態度を気にしていたためだろうか。
そして、あやめ――彼女にとっては愛情表現と場の盛り上げのつもりだった行動が、全く裏目に出てしまったため納得がいかなかったという点もあるのだろう。翔から目を逸らし、早足で階段を登りきりチューブの中へと飛び込んで行った。
遊園地一の爽快な滑り台から滑り降り、地面に足をつけた後でも二人の中に漂う気まずい雰囲気は変わらなかった。一発触発、とまではいかなくとも二人ともどの発言が逆鱗に触れるか分からないため、次のアトラクションまでも言葉少なげに歩いていった。
「…ここがトラッキング・トレイルだよ」
と小さくささやくように翔が話す。トラッキング・トレイルではペア毎の座席で地下に作られた廃坑のような場所に敷かれたレールの上を、時に遅く、時に非常に速く進んでゆく乗り物である。間接照明として設置された松明の力不足から自然に出来上がる薄暗い空間、時に気味悪くもなる空気の冷たさと淀みがあたかも本物の廃坑をトロッコで走っているかのような感覚が得られるアトラクションとして主に女性に人気が高い。
「それでは、その座席に乗ってください。お二人とも腰のベルトをしっかりつけて、絶対に座席から身を乗り出したりしないようにしてくださいね」
とスタッフの高らかな声が薄暗い空洞に灯りをともすように響いた。あやめがベルトをつけるのに苦戦しているのを見かねた翔が手助けを申し出ても、頑なにあやめが断るためスタッフが苦笑しながらあやめのベルトを締めてやった。
「なんだよ、俺じゃダメなのかよ…。」
と不満そうな翔の声を尻目に座席が動き始めた。
松明の光により黄色がかった薄暗い壁と、少しだけ照らし出される座席の下のレールは何か大きな怪物に飲み込まれた後かのような深い暗闇とも思えた。陰を消すことを目的とした西洋式の明るい電灯などが用いられず、あえて古風な照明を用いることで陰影を生み出し、活かすという日本人らしい設計であるようだ。視界が広くとれず、底冷えするような冷気とともに織りなされる廃坑の旅はカップルの間では例えば手を繋ぐきっかけや、ムードの演出などに利用されているのだろう。そのため、他のペアが前後を走っているにも関わらずあたりはしんとしていて、聞こえるのは規則正しく鳴り続ける走行音だけであった。
だが二人は先のウォーターアトラクションでの一幕があったせいか、未だに不機嫌なままであった。お互いに振り向かず、声も交わさず、ただ早くこの薄暗く寒い空間から脱出したいとだけ考えていた。それどころか、翔は果たしてあやめが本当に自分と相性の良い女性なのか、というところまで考えを巡らせ始めていた。人間は不機嫌になると人々の過去にまで遡ってその不機嫌の根拠を見つけ出し、それらを自己の中で断罪することによってその鬱憤を晴らすことがある。
そうして思い出される過去は得てして不利なものばかりで、翔はあやめの気の強さや優秀な成績、それでいて運動神経も良いことまでも思い出していた。日頃から多少なりともコンプレックスを抱いていた翔にとって、この気まずい雰囲気はその負の気持ちを増幅させるには十分なものであった。更に健全なカップル同士であればムード作りに活用されるであろうこのアトラクションの雰囲気までもが、今は翔の気分を一層悪化させることに手助けしてしまっていた。
「なぁ、なんであやめは黙ってるんだよ。」
と沈黙に耐え切れなくなった翔があやめの方を向きつぶやく。
「あなただって、今まで黙っていたじゃない。」
とつまらない返事をされたため、とうとう翔が怒りを露わにした。
「いい加減にしろよ、そりゃ急に怒鳴った俺だって悪かったけど、元はといえばあやめが俺を脅かしたからだろ?なんでわざわざそんなに人が嫌がるだろうことをするんだよ、俺のことが嫌いになったんならそう言えよ!」
と勢いに任せて突き放していた。その瞬間、
「そんな、だってあなたが高所恐怖症だって分からなくて…。」
いつもの彼女からは想像できないほど弱々しい声であやめが返事をしたため、
「俺が理由もなくお前に背を向けるわけがないだろ!そのぐらい考えろよ!」
と翔は半ば八つ当たりのような台詞を吐いた。彼は高所恐怖症である自分が情けなく感じていたが、それ以上に普段は気丈である彼女をここまで萎縮させてしまったことでやり場のない憤りを感じていたのだ。自責の念に駆られつつも意地を張り続けてしまうのが翔の悪い癖であった。
そうして二人の雰囲気は悪化の一途をたどっていた。永遠に続くかのように思われる黄色の壁も陰影も、このあまりに寒い空気ですら今の二人の空気と比べれば明るく温かいと思えてしまうほどであった。
突如、ガタン、と突然二人の距離が離れていく。心理的な距離ではない、物理的に離れているのだ。あまりにも急だったため必死にあやめの方を振り向くのがやっとだった翔は、初めて、彼女の潤んだ寂しそうな瞳を見た。その瞳はどこか遠くを見つめているようで、まるですぐ近くに向けられている気がした。だが、この一瞬はあまりにも早く過ぎたため、二人は言葉を交わす間もなく別々のレールに運ばれていった。
翔は困惑していた。いきなりレールが切り替わり、ペアで配置されていた座席が急に分かれるなどと予想しなかったからである。
「いや、これは多分演出の一つだよな…?ゴール前で合流するのか。」
とその場は無理矢理に自分を納得させた。
その推理は少し外れていた。トラッキング・トレイルの乗り場についた翔は、その奇妙さにあっけにとられていた。
発着場には誰も居なかった。それどころかペア座席がいくつも前に積まれており、それらはすべて埃をかぶっていた。翔の予想した後々合流するという点については一致しており、乗り場のすぐ後ろに別の穴から合流するレールがあった。
「そうだ、あやめが着いてるはずだよな…?」
と思いつつも辺りを見渡しても人の姿は見当たらず、自分の着ている衣類の摩擦音、速く大きくなってゆく心臓音だけが聞こえる空間であった。待てども暮らせど誰も発着場に来ないので、たまりかねた翔は安全ベルトを解除し、建物の外に出た。
そして翔の目に入ってきたのは異様な光景だった。あれほどの喧騒、活気、すべてが失われた無の空間だった。誰もいない屋台や建物だけがそこに存在しており、有機的なものはみんな消えてしまったかのような空間。アトラクションだけが以前と変わららない佇まいで、まるで遊園地オープン前の夜かのような雰囲気だった。
「みんな…どこに行ったんだよ。なぜ人が居ないんだ!どうなっているんだ!…。」
と一人叫びながら、増幅されつつある不安と恐怖を抑えこみつつも人の姿を求めてあたりを見渡す。しかし、人影らしきものは見当たらない。そこにあるのは無人の遊園地と、永遠に続くかのような静寂、そして心なしか増えたように見える緑の霊峰だけであった。いつの間にか空は曇り始めていて、先程までの晴天がまるで嘘だったかのような表情で地表を見下ろしている。そうして、誰もいない遊園地を二歩ほど歩いたところで、間もなくあやめの顔が翔の心に浮かんできた。
「あや、め。あやめ、居るんだろ?出てきてくれよ。これは実は仕掛けで、本当はみんなどこかに居るんだよな。そうに違いな…」
言い終える前に膝を落とした。翔にはわかっていたのである。これが白昼夢でも仕掛けでも何でもなく、紛れも無い現実だということを。
携帯電話は、圏外を示していた。