いつか西で森になる日まで
今日は一段とデマーの光が眩しい。
キダは目を細めて空を見上げる。東の空、地平線を覆い尽くすような真っ赤な塊が腰を下ろしているのが見えた。
「今日も元気だねェ」
ちゃかすように、キダは挨拶をする。したところで、それが言葉を返すことなどないのだが。
噂によると、デマーと呼ばれるそれは遙か天空、真っ暗な空間の中で浮かんでいるという。
真っ暗な空間にはたくさんの星と呼ばれる塊があり、そのうちの一つにキダの住む星がある。
デマーはキダの住む星から遙か離れているというのに、こんなにも大きく見えた。
「返事くらいしなよ、デマー」
この巨大なデマーは数万年生きると言われていた。
……ただし、それもまもなく尽きる。
死ぬ前に、デマーは大きく大きく膨らむのだ。耐えきれなくなるほどに膨らんで、そして何もかもを諦めた頃に破裂する。
空気も無い場所で浮かび続けるデマーに感情があるのか、そもそも生き物なのかキダは知らない。
「寂しいンだな。分かるよ」
破裂すれば、キダの住む星だってただではすまない。周囲の星を巻き込んで、デマーは死ぬのだ。
しかしキダは恨む気もしないのである。
デマーは真っ暗な空間の中、数万という時を生きてきた。
それは寂しく孤独な毎日であっただろう。とキダは思うのだ。
大地はデマーの光に晒されて、カラカラだ。
キダが生まれるより何千年も昔、デマーは静かに膨張を始めたと聞く。昔は定期的に沈んでいたデマーは膨張を始めた頃から、沈まなくなった。
その結果、たくさんの人が死んだ。生き残ったものも、熱にやられて長生きなど出来なかった。
大地はひび割れ、木も緑も燃え尽きた。地上にある水は、全て涸れた。
見渡す限り、大地は赤茶けて割れている。
燃えるものなどなにひとつ無いはずなのに、乾いた大地が時折火を噴く。
「今日もあっつィあっつィ」
キダは頭から被った外套をしっかりと引き寄せた。これは火と光を塞ぐ不思議な布で、この星に住む人間にとっては手放せない。
手放せば、皮膚などすぐに燃えて尽きてしまう。
「さあデマー、あたしと追いかけッこだ」
キダは燃える大地を器用に駆ける。足下のひび割れは深い。落ち込めばただではすまない。しかしキダにとっては慣れた道で、造作もなく割れの上を飛び越えていく。
そのうち赤い煉瓦で作られた集落が見えてきた。煉瓦の色が赤いだけではない。デマーの光で常に表面が燃えているのである。
キダは煉瓦に触れないよう慎重に足を踏み入れた。
崩れた煉瓦を幾重にも重ねたそこに、分かりにくいが小さな隙間がある。その中に入れば、影だ。
キダは躊躇無く、その穴に飛び込んで行く。
重なった煉瓦のおかげで光が一気に遮断された。その冷たさに触れて、キダは初めて長いため息を付く。
影に入ると急に足から冷えが広がる。外套を脱ぐと、素足に、腕に心地良い冷たさが広がった。
冷たい空気を肺一杯に吸い込む。燃えそうだった内臓が、冷たい空気に喜ぶ。甘ささえ感じる空気だった。
キダは冷たさを楽しむように、跳ねながら煉瓦の道を行く。それはまるで一本のトンネル。奥へと進めば進むほど、気温はどんどんと下がった。
「じっちゃああん、どこだァー?」
叫ぶ声はあたりに反射して、心地良い反響音となる。
道を進むうちに、見えてくるのはいくつもの穴だ。
穴の横には煉瓦を削って作った小さな看板や表札が飾られている。
そのうち一つを覗き込み、キダは大声を上げた。
「ここか、じッちゃん」
穴の左右も煉瓦で補強されている。緩やかなカーブを描き、地下に奥へと進む穴だ。それを一気に滑って、キダはやがて一つの広い空間に辿りついた。
先ほどの狭さはどこへやら。そこは屋根も天井も煉瓦で補強され、大人が十人はゆうに寝転がれる広い広い空間だ。ご丁寧に真ん中には机や椅子まで用意されている。
キダはその机に、どっかと腰を落とした。
「おお、キダ」
「ほら、ミドカじっちゃん、お水だよォ」
この部屋にもいくつもの横穴が空いている。そのうち一つから、老人が顔を出した。彼はヒゲと皺まみれの顔をしわくちゃにして、笑う。
「キダがきたぞう」
ミドカが叫ぶと、煉瓦の隙間から続々と人が現れた。皆、ミドカにそっくりだ。こんな乾いた大地に暮らしていると皆似たような顔になるのだろう。
キダは背に負った袋を慎重におろし、振る。ちゃぷちゃぷと水の音がする。皆がホッと安堵のため息を付いた。
「よかった。今日は乾く前に間に合ったねェ」
それは牛の胃を縫い合わせて作った布袋。
先をほどいて陶器の水入れにそっとそそぐ。透明なそれがなみなみいっぱい注がれるのをみて、老人たちが歓喜の声をあげた。
老人達は祈るように大地に座り込み、一口ずつ慎重に水を飲み回す。一滴もこぼさない。水はこの星にとって貴重なものだった。
雨などというものは長く降らない。デマーがずっと東の空に出張っているせいだ。降ったところですぐに蒸発する。
この星の水源は、井戸である。
大地の奥深くに、水がたたえられている。それがキダにとっては奇跡のように感じられた。
しかしそれもよほど条件が良くなければ枯れてしまう。この付近でも5つほどの井戸しか、もう残っていない。
「井戸の1個がサ、枯れるかと思ってたけど、案外まだ大丈夫そうだったよ。あと数ヶ月は平気さァ」
キダは煉瓦の隙間に腰を下ろす。隙間に耳を押しつけると、人の声が聞こえた。
この煉瓦の町は複雑に出来ている。いくつもの赤い煉瓦を組み立てて、屋根にする。壁にする。そして大地を深く深く掘ってある。
最初にこの地下帝国を掘りはじめた人間が誰であるかを、キダは知らない。それは孤独な作業だったと思われる。
人間を焼き殺そうと躍起になるデマーとの、孤独な戦いだろう。黙々と人は大地を深く掘り、煉瓦で補強する。何年掛かったのだろうか。
それは人間が半歩だけ勝った。
人は煉瓦の地下帝国を作り上げたのだ。それは蟻の巣を参考にして、深く長く複雑に仕上がっていた。
皆が地下の各所に自由に暮らすものだから、逆に人間と人間の行き来は少なくなる。結果、人は孤独になった。
(顔も見えない人が、たくさんここには住んでるンだねえ)
キダは冷たい壁に頬を押しつけて、目を閉じる。
隙間から漏れ聞こえる人の声は、近くに聞こえるが遙か遠くの穴から漏れているのだろう。
キダも長くここに住むが、出会った人の数は十本指に足りる。
ただこうして、時折漏れ聞こえる人の声を聞くばかりだ。
「……みんな元気がないねェ」
「元気なのはこの花くらいだよ」
ミドカが天井を指さす。つられて顔をあげると、そこに見覚えのない花がある。
煉瓦の隙間に種が埋まっていたのだろうか。まるで隙間を這うようにツルが延びているのだ。
そのツルの先に付いた花は漏斗のよう。花の数は十はあるだろうか。
いずれも鮮やかなオレンジ色で、凜と天に向かって咲いている。
「ノウゼンカズラっていうんだ」
「変な音だねェ」
「昔の言葉だよ」
天井の隙間からデマーの光がかすかに漏れている。きつすぎる光では植物は育たない。地上には、花どころか緑もないのがその証拠だ。
ノウゼンカズラは漏れる程度の光のおかげで、花を付けた。デマーに挑むように凜と咲くのだ。表に出ればすぐに枯れてしまうのに、とキダは思う。
ミドカは渋い顔をしてノウゼンカズラを睨んでいた。少しの隙間でもあれば、いつか崩れてしまうのだ。根が天井を覆えば、その分脆くなる。
「また天井を修繕せにゃあならん。ますますデマーの光が強い。儂らももっと地下に潜るか迷っているところさ」
「あァんな小さな花じゃどうしようもないよ。放っておきなって」
キダは言ってみるが、それはただの気休めにしかならないことを知っていた。人間はこの煉瓦の町を守るしか、生きていく方法がないのだ。
「そうだ、じっちゃん。あたしさァ、やっぱり森を探すことにしたよ」
この町を離れると、死ぬしか無い。
見知らぬ場所へ出れば、井戸の場所も分からない。デマーの光を防ぐ場所があるとも限らない。半日も命が持つものではない。
それでもキダは飄々と笑う。
「この町を出てサ、森を探すンだ。西にあるんだろ?」
ミドカたちは水を飲む手を止めて、目を丸くした。
「だッてもう、こんなのだもの」
老人達が肩を寄せ合ってじっと見つめる。その視線の重さを受け止めて、キダは外套を全て投げ捨てる。
現れたキダの髪は、根元が緑色に染まっている。
額も半分ほど緑に浸食され、瞳さえ緑に近いはずだ。
そして首は茶色である。薄い茶色で、ひび割れている。それは大地の乾きとは異なる。キダは見た事もない、樹木の肌はこのような割れ方をするらしい。
ぐっと皮膚を押せば、体液が溢れる。体の内側に溜め込まれた水が、押すだけで表面に滲み出るのだ。
植物とは、そういった生き物であるという。
「……キダよ、決めたのか……そうかい、そうなっちゃあ、仕方ない」
ミドカは言葉に詰まり詰まり、言った。喋っている間に覚悟が決まったのか、やがて真っ直ぐ背筋を伸ばし、キダの目を見る。
「キダは強い子だ。儂らよりずっとずっとな。でもな、今はいかん。デマーが強すぎる。今そんな体で長時間外になんか出ちゃあ」
「ここ何日も、水を探しに行くついでに、地上に煉瓦を運んでたんだ。できるだけ、西へさ。その煉瓦でテントを作る。デマーの光が緩む時刻が一瞬だけあるンだ。その合間に、煉瓦を西の先に運んで、またテントを作る。井戸の場所も、少しは調べたんだよ、あたしはさァ」
キダは腰まである髪をゆっくり結い上げた。肩の当たりまで、髪の色は緑だ。そこから下は、黒い。
しかし、いずれ髪の先の先まで、緑に染まる。
「馬鹿みたいに遅い歩みだろ? でも毎日続けてりャあ、いずれ西にもつくさ」
西の地はデマーの光が半分も届かないと聞いていた。
そこはいつも茜色に染まっていて、心地のいい風が吹くという。そしてそこには、今や伝説となった森があるのだ。
人は煉瓦などなくても、生きて行ける。森の中で素肌を晒して生きて行ける。水をたたえた川や、湖まであると聞く。
「なンだって、あたしのことを森なんざで産み落として逃げたかねえ、親はさ」
キダはかつて森の中で産声を上げたのだ。もちろん、キダにその記憶は無い。
キダの母である女は西の森でキダを生んだ。そしてまだ赤子のキダは、行商人によって東に運ばれた。
この星の人間には不思議な習性がある。
生まれた土地に執着するのだ。帰巣本能である。
東の煉瓦の町で生まれたミドカたちは、たとえ体が焼け落ちてもこの場所から動けない。それと同じことで、キダの体は西へと帰りたがっている。
「いっそこの町で生んでくれりゃあ、ミドカたちにずっと水を届けてやれたのにサ」
心はここにいたいと願っても、体は拒否反応をしめしはじめた。体が森になろうとしている。こんな場所で根を張れば、一日も持たず枯れるだろう。
「そりゃあ産気付けば、仕方のないことだろうよ。お母ちゃんを悪くいうもんじゃない」
キダは腕を、足をさする。少女らしい……といっても、この煉瓦の町では少女に出会わないので、比較にもならないが……手足が、茶色に染まりひび割れている。
痛みはない。ただ、帰りたいという孤独感が内側からどくんどくんと波打っている。爪も何かの種子のようにぷくりとふくれあがり、産毛は双葉の形に盛り上がる。
キダの体は、森である。
神妙な顔をしていたミドカが、ふと顔を上げた。
先ほどのノウゼンカズラが、やはりそこにはあるのだ。
「そういえば昔の人はデマーを太陽なんていってたそうだよ」
「タイヨウ? へんなの」
「木と太陽は縁が深いもんだったらしいよ。そういう壁画もいっぱい見つかってる。だからな、キダよ」
ノウゼンカズラも、恐らくこの煉瓦の町で生まれたのだろう。燃え落ちると分かっていて生えずには、花を付けずにはいられなかった。
その気持が、キダには分かる。
「お前はデマーとも縁の深い子なんだよ。だからきっとデマーの加護がある」
「お前は木になるのかねえ。お前の緑がこの東の地までやってきて、デマーを塞ぐ大きな大きな木になれば我らも助かる」
老人達は欠けた歯を見せ笑う。
キダも笑った。
「辿り着けたらサ、考えてみるよ」
だから燃えて尽きるなよ。とキダは願いを込める。
立ち上がり、腕を伸ばす。老人達を乾いた腕で抱きしめる。皮膚が乾いているせいで、かさかさと不思議な音がする。
「人間のたてる音じゃないねェ」
キダは笑い、そして外套を深く深く被った。
「キダ、水袋はもっていきな。せめてもの餞別だ」
餞別と言う声に天井を這うノウゼンカズラの枝が揺れる。やがて手向けのように花が一つ、キダの前に落ちた。
拾い上げ、鼻に近づける。派手な外見に比べ、ノウゼンカズラは香りが薄い。ただ目を閉じて息を吸い込むと、遠くに大地の香りがした。
「何だい、お前は反骨精神のある子だねェ。西に行きたいのか。一緒に行こうか、そして一緒に森になろう」
囁いて、そしてキダは行きと同じく軽快な足取りで煉瓦の上を跳ね上がる。
「さあ、もう一回、デマーと追いかけっこだァ」
キダの明るい声が煉瓦の部屋に反射して広がる。その声は、いつかデマーに届くに違い無い。
独り孤独なデマーに、年老い死ぬを待つデマーに。