4章 形状変化の力?
「僕の力か……」
良平は真っ暗な自分の部屋の天井を見ながらそう呟いた。
良平がメイの地下施設から戻ってきてから数時間が経過していたが、部屋の電気も付けずにベッドで横になりながら、メイに言われたこと、自分の身に起こったことを改めて考えていた。
突然ダークというもう一人の自分が現れ、そしてメイからは一度にたくさんのことを説明された。一日の間で自分の知っている世の中とはまるで違う、別の世界に来てしまったような気さえした。正直、良平は頭がおかしくなりそうだった。しかも、昨日ダークがしでかした姉の件も解決されていないのだ。
自分の家に戻る際は、当初の予定通りメイの部屋の窓から自分の部屋に渡る形で帰ってきたが、一度機嫌を損ねた姉がそうそう簡単に許してくれるとは思えない。親が居ればそれもなんとかなりそうな気もするが、その頼みの綱である両親は家に居ない。それも自分でなんとかしなければいけないのだ。
考えることが多すぎる。どれだけ一人になって考えたところで津波のように押し寄せてくる難問には答えを出すことが出来なかった。
メイが良平に説明した話はきっと全てが事実なのだろう。それは身を持って体験している良平にも理解は出来た。ただ、それを信じることが出来るかというと、それはまた別の話で良平は、いまだに自分に力があるなんて信じられない……と言うよりも信じたくない。認めたくなかったのだ。これから数秒後に目を開けたら全て夢でしたっていう結末だったらどれだけ嬉しいだろうか。
良平は深くため息を吐きながら、徐に右手を目の前に持ってきて見つめる。メイに渡された指輪は外しているので、何の変哲もないいつもの右手だ。
「形状変化ね~」
良平はそうひとりごちながらメイに説明されたことを思い出す。
▽
「あたしはKBシリーズの開発をずっと続けてきたわ。費用は薬に興味を持ったカンパニーって会社が出してくれたから好きなだけ研究出来たし、そのおかげでいくつもの試作品も作ることが出来た。……でも世の中そんなに甘くなんてなかったのよ。あたしの思想はさっきも言ったとおり世界征服の逆。つまりは世界平和。いがみ合う世の中なんてりょ~ちゃんだって嫌でしょ? だからキールを使って上手く共存出来る世界を目指したかった。これがあれば、世界中の困ってる人を助けることなんて容易いわ。いうなれば正義の力なのよ!
それなのにあたしに出資してくれていたカンパニーときたら、あたしとは逆の思想を持っていたのよ。あたしの作ったキールを使って世界中を制圧して、自分の思うままに動かせる世界を作ろうとしていたの。ホント信じられない! そんな奴等に私のキールを渡すわけにはいかなかった。だから一つだけ試作品で残ったキールXを持って逃げたのよ。でもそれもカンパニーにばれて追われてる時に落としちゃったのよ!」
長々と説明しながら、途中から拳を強く握り締め、それを掲げながら熱く語りだし、最終的には今起こった出来事のように歯を食い縛って悔しがるメイ。
今までの科学者然とした良平の知らないメイも、そういう態度を取ると良平の知っているメイらしくて、良平は内心で少しホッとしていた。
「それを僕がたまたま拾ったってことか」
「Correct! そゆことよ」
メイは嬉しそうに表情を綻ばせると、良平に向かって親指を突き出しそう言った。その仕草もいつものメイらしかった。しかし、そのことでホッとした瞬間、良平はその時あることに気が付いた。
「……って良く考えたら、僕がこうなったのって全部メイのせいなんじゃないか! どうしてくれるんだよ!」
良平が飲み込んだ薬を作ったのがメイで、良平がそれを拾ったのもメイが落としたから。しかも良平が飲み込んでしまったのもメイがうしろから脅かしてきたからだ。一つ一つだけなら偶然ということもありえるが、ここまで全部にメイが絡んでくると良平がそう思っても不思議ではない。
「ち、違うわよ! 確かに作ったのはあたしだけど、それを落としちゃったのは闇夜の追跡者のせいなんだから!」
「は? なにそれ?」
良平の言葉に反論するメイ。しかし急に闇夜の追跡者と急に言われてもわけがわからず、良平は見知らぬ単語に眉を顰めた。そんな良平の態度を見て、メイはおもむろに厚手の長袖を脱ぐ。
良平は服の下に隠されていた物を見て目を疑った。
「これ、あたしが逃げてる時に闇夜の追跡者に銃で撃たれたの」
服を脱いだメイの片腕には痛々しく包帯が巻かれていた。良平はそれを見て、なぜメイが真夏なのにずっと長袖を着ているのかを理解した。
「闇夜の追跡者はカンパニーがあたしから薬を取り戻すために差し向けたエージェント。裏の世界では仕事成功確立百パーセントを誇る優秀な人間。でも全身を漆黒の特殊なスーツで包んでいるから、その正体を知る者はいない……」
メイはそう言って目を伏せると、腕の包帯を覆うようにもう片方の手で腕を掴んだ。
「あたしだって今はこの程度の傷で済んでるけど、まだ相手は仕事を成功させていないわけだから今後も襲われる可能性は高い。それこそ百パーセントに近い確立でね」
メイは良平の性格を熟知していた。自分がどう言えば良平がどう返すかまである程度予測が出来るのだろう。一つ一つの言葉を良平に言い聞かせるように発する。
「そ、そんなこと言われても僕にはどうすることも出来ないし……」
「そんなことないよ! りょ~ちゃんには力がある。これを見て」
メイは予め用意していたのであろうコンピューターのスイッチを入れた。すると目の前の巨大モニターの映像が切り替わる。そこに映し出されたのは良平たちが今居る施設の風景だった
「こ、これは……?」
メイは片手を顔の辺りまで挙げ指を一本立てると、小さな虫みたいな物が指先に止まる。するとモニターの映像が現在の良平の姿を映し出した。そこまでくるとメイの指に止まっている物が映し出している映像なのだと良平にも察しが付いた。
「ごめんね。正直、こんなことしたくなかったけど、薬を飲んでしまったりょ~ちゃんの身体にあたしの予想を超える異変でも起こったら大変だと思って、この二日間ずっと監視させてもらったのよ。万が一の場合はすぐに対応出来るようにね」
「…………」
メイの指に止まっているのは虫ではなく、超小型のカメラだった。良平が一日中、絶えず視線を感じていた理由の一つはこれだったのだ。
「この時のこと覚えてる?」
メイは良平に背を向けるとモニターの映像を巻き戻しある場所で止めた。画面には学校の中庭が映し出されている。数人の男子生徒に囲まれる二人の生徒。良平が正宗をショージから助けたときの映像だ。
「そりゃ覚えてるよ。さすがに忘れないって」
「この時、りょ~ちゃんの身体に初めて異変が起こった」
正宗の前に立ちはだかった良平をショージが思いっきり殴ろうとする所から映像を再生される。この後は映像なんて見なくてもどうなるのか良平にもわかっている。
案の定、ショージの繰り出した拳が良平の顔面に当たった直後、おかしな方向に折れ曲がる。その生々しく、痛々しい映像に良平は顔を顰める。
「この映像を更に解析するとこうなるの……」
メイは映像を少し巻き戻しショージの拳が良平の肌に触れた瞬間で止め、目の前にある大きなキーボードを凄まじい速さで打鍵していく。すると映像が通常のカメラで映し出された映像からサーモグラフィーのような色だけが表示されたような映像に変わっていく。そして再生。
「この男の手がりょ~ちゃんに触れた瞬間から、身体が変化してるのがわかるかしら?」
良平はその映像を見て目を見開いた。ショージの拳が触れる少し前の映像は黄色く画面に映っている良平の身体がショージの拳が触れる直前、一瞬で青く変色したのだ。
「な、意味がわかんないよ! どうなってんだよ?」
突然そんな映像を見せられたところで良平にはわかるはずもなかった。メイは映像をスロー再生でリピート固定すると良平の方に向き直った。
「これは一種のサーモグラフみたいな物だと思って。あたしが改良したから少し違うんだけど、大体は似たような物よ。
簡単に説明すると色によって物の材質を分けているのだけど、今の映像だと黄色い色が人体の肌を現していて、青が鉄のような鉱物だと思ってもらえればまず間違いないわ」
メイは映像の中で起こっていることが、さも当然のことのように良平に説明を始める。実際、メイの言うとおり、殴りかかっているショージの身体はもちろん、拳が触れる前の良平の身体は黄色く表示されていた。
「要するに、りょ~ちゃんの肌はこの殴られる瞬間に人体から鉱物へと変化したってことになるわね」
「そんなこと……」
ありえない。と良平は言おうとしたが、確かにショージに殴られた時に痛みは感じなかった。
「ありえない? じゃあ、これを見てもらえば少しは納得してもらえるかな」
メイは視線を良平に向けたまま、背後にあるキーボードのボタンを一つ押す。するとリピートで動いていた映像が先に進み、今度はショージが良平の顎を蹴り上げる一連の流れが映し出される。
「どう? わかってもらえた?」
「…………」
良平はメイの問いに何も答えることが出来なかった。今度の映像の時、良平の身体は先程のように青くはならず、最後まで黄色のままだった。意識したからか、蹴られた顎が一瞬痛んだような気がして表情が歪むのが自分でわかる。
「さっきの時は殴った相手の方が怪我をして、今回は殴られたりょ~ちゃんの方が怪我をした。映像に映し出された色と人体への影響を考えたらなんとなくはわかるよね」
メイは良平の心情を理解したのか、そう言ってクスッと笑った。
「りょ~ちゃん。この殴られる瞬間、何か考えなかった?」
メイに言われて良平はハッとして、その時に考えていたことを思い出しす。
「……身体が鋼鉄とかになったら痛みを感じなくて良いのにな」
メイは良平の言葉を聞いてパチンと指を鳴らして、ニヤリと口角を上げる。
「やっぱりね。あたしの考えに間違いはなかった。これでりょ~ちゃんの身体が鉱物になった理由もはっきりしたし、りょ~ちゃんの力の正体も確実になったわ」
「な、なんだよ。それじゃあまるで僕が自分の身体を鋼鉄に変えられるのが能力みたいじゃないか!」
「そう。その通り。りょ~ちゃんの能力は身体の形状変化。簡単に言えば、自分の身体を思い通りに変化させられるはず。例えば鋼鉄でもハサミでもね」
メイはそう言っておかしそうに笑った。しかし、自分の発言を肯定された良平の方は、「はいそうですか」とすぐに納得出来るわけもなく唖然とするしかなかった。
「そしてりょ~ちゃんからダークへと人格が入れ替わるキーアイテムが、そのメガネ」
メイは良平の掛けているメガネを指差す。それに関してだけは良平も少しわかっていた。良平が表に出ている時はいつもメガネを掛けているし、ショージに蹴られた時、台所でメイにメガネを取られた時には勝手にダークへと切り替わるのを体験しているからだ。
「まぁ、それはコンプレックスの問題とかが絡んでるだとは思うんだけどね。今はその説明に関しては置いとくとして、次にダークの方の力はっと……」
「お前に言われなくても俺は自分で理解している。俺の心情は力への欲求。だから能力は筋力の倍化だ」
メイがそう言って身体をまたキーボードの方に向けた瞬間、長らく黙っていたダークが苛立たしそうにそう告げる。
「……ありがと。説明する手間が省けたわね」
メイは少し驚いたような表情で良平の方に振り返ったが、次の瞬間には嬉しそうにダークへお礼を言う。しかしダークの方はお礼を言われたのが気に食わなかったのか、また舌を打って黙ってしまった。
「そっか~。新しく生まれた人格の方は最初から自分の力を理解しているのね。これは良い勉強になったな~。うん」
ダークの苛立ちなど気にも留めず、メイは新しく手に入れた情報に何度も頷きながら表情を綻ばせる。良平はそんな彼女を見て、自分の身に起こった異変にはまだ納得はしかねる心境だったが、彼女が研究するのが本当に大好きなのだなということだけはよくわかった。
「なぁ、メイ。なんで僕の能力がメイにわかったんだ? いや、メイが作った薬だしその辺はわかってるつもりなんだけど、僕の心情とかなんてメイは知らないだろ?」
「そんなことないよ~。りょ~ちゃんのもっと崇高な人間になりたいって性格から考えれば、ある程度の予測は出来ることだったしね」
「な、なんでメイがそんなこと知ってるんだよ!」
良平はメイが誰にも伝えたことのない思いを平然と言ってのけたことに驚き、同時に恥ずかしくて顔を真っ赤にして慌てた。
「あたしはりょ~ちゃんのことなら何でも知ってるもん」
メイはそんな良平を見て笑顔になると、ない胸を張ってそう言った。
▽
メイの地下施設では説明を聴く事で精一杯だったが、自分の部屋に戻ってきてみると本当に自分に力があるのか、己の掌を見ながら良平は疑わしく思えてならなかった。メイに見せられた映像だって何か特殊な細工がしてないとも限らないし、腕が折れたショージだって別の理由で怪我をした可能性だって限りなく近いがゼロではない。
しかしその後でメイに試してみるように言われ、顎の怪我がなければ良いと思い浮かべたところ、本当に顎の打撲は消えてなくなった。それは普通の人体では確実にありえない。
「もう一度試してみるか……」
良平は開いていた掌を強く握り締め、今度は怪我とかの治療ではなく、見ただけで変化がわかる物。そして誰もが見たことがある物に変化するように思い浮かべてみる。
何も起こらないでほしい。という良平の心とは裏腹に変化はすぐに訪れた。握った拳が急に軟体動物のようにグニャグニャと形を変え始めたのだ。良平は自分の目を疑ったが、思い浮かべることは止めない。そのせいか、拳は変化も止まらず、五秒も経たないうちに手首から先が良平の思い描いた形となった。
Vの字に分かれた二本の刃。根元が一つのボルトで止められた。誰もが一度は見たことがある日用品――ハサミだ。しかも掌と同じくらいのサイズだからか、かなりでかいハサミ。その上、普通のハサミのような持つグリップの部分はなく、手首からそのまま銀色の刃が生えたような感じになっていて非常に気持ち悪い。
「な、なんだよこれ!?」
良平は大声で叫んでしまってからしまったと後悔した。驚きのあまりのことだったが、せっかく姉にバレないように戻ってきたのに、まったく意味が無い。言ってしまってから左手で口を押さえたが既に遅かった。
廊下を踏み鳴らす怒気の篭ったような足音。そんな物音を立てる人間は櫻井家には一人しか居ない。次の瞬間、ドンッ! という激しい音を立てて良平の部屋の扉が開いた。
「うっさいわよ!」
良平の予想通り眉を吊り上げ激昂した姉がそこには立っていた。
「あ……いや、ごめん」
「ごめん。で済んだら警察要らないっての!」
素直に謝る良平だったが、姉はそれを許すつもりはないらしい。
「……ん? 後ろに何隠してんのよ」
姉は不自然な良平を怪訝そうに睨みつけてくる。良平は姉が来るのを見計らって、とっさにベッドから飛び起きハサミに変わった右手を背中に隠したのだ。その体制が姉からしたら不自然だったらしい。
「な、何も隠してないって。ごめん。ホント謝るから許しよ」
弟の右手がハサミになっているなんて知ったら目の前の姉はどんな対応を取るのか考えると恐怖しか浮かばず、必死に謝ったが姉は良平の言葉など聞かず良平に歩み寄ってくる。
「人に帰ってることを知られたくないからって、部屋の電気も付けずにいる弟の言ってることなんて信じられるわけないでしょ!」
「くっ……」
姉が良平の右手に触れた瞬間、元に戻る確証なんてなかったが、「戻れ!」と全身全霊で祈り目を強く閉じる。
「……チッ。何にもないんじゃない。だったら思わせぶりなことしてんじゃないわよ!」
盛大に舌打ちして座っている良平を見下ろす姉。その言葉を聞いた良平は恐る恐る自分の右手を見ると元の知っている自分の掌に戻っていてホッと胸を撫で下ろす。しかし、姉はその良平の態度がまた気に入らなかったらしい。
「良平! 私の話聞いてんの?」
「え? あ、うん。聞いてるよ」
良平の姉はいつもこんなに怒っているわけではない。普段から姉御体質なのだが、いつもはもっと良平にも優しいのだ。ただ、虫の居所が悪かったりすると急に態度が急変して今のようになるだけなのだった。
子供の頃からそんな姉と接してきた良平にとっては、何度となく経験してきた状況なだけに対応には慣れていた。本当ならダークが何をしたかを知ってから対処したかったのだが、そんなことを言っている場合ではないし、ある意味では絶好のチャンスでもある。
「姉貴」
「……何よ」
姉は深いため息を吐きながら腕を組んで良平に答えてくれた。一応話を聞いてはくれる気持ちにはなっているようだ。
「昨日は本当にごめん。僕がどうかしてたよ。この通り、許してほしい」
良平はベッドの上に正座するとそう言って頭を下げる。実際、ダークが何をしたかはわからないが、きっとなんとかなると良平は思っていた。
「…………」
無言の姉。しかし、良平は長年の感からそこに勝機を見出しす。
――姉貴が黙るってことは悩んでるって証拠だ。あと一押し!
「お詫びと言ってはなんだけど、しばらく僕が朝の料理当番代わるよ」
「……しばらくってどのくらいよ」
食いついた! と小さく拳を握る良平。
「一週間……」
「一週間?」
「いや、一ヶ月」
「……わかった。あんたが反省しているのは伝わってきたわ。今回は許したげる」
姉の顔色を伺いながら見事答えを導きだした良平。姉は大きくため息を吐いたかと思うと、スッキリしたのか笑顔で良平に明日の朝食を指示して部屋を出て行った。
『ったく。姉貴に対してなんであそこまで遜るんだよ』
きっと一部始終を聞いていたのだろう。ダークは小さなため息を吐いた。
「良いだろ別に。それに遜ってるつもりなんてないよ。これはあくまでお詫びなんだし、たった二人の姉弟なんだしいつまでも仲違いしてても仕方ないだろ。これで良かったんだよ。というか元々は君のせいだろ。一体何をしたのかは知らないけどさ」
良平は小声でダークに答えながら再び右手を強く握った。すると先程と同じようにハサミに姿を変える。何度見ても気持ちの良い物ではないその見た目に臆しながらも、良平は恐る恐るハサミのように動くか試してみる。すると、自分の手がどんな構造になってるのかわからなかったが、とりあえず普通のハサミのように開いたり閉じたりは出来た。
『お前ってとことん平和主義者なのな。たかが朝飯を作ってくれって言われたのを断ったくらいであんなに怒る姉貴にそこまでする必要があるとは俺には思えねぇけどな』
「はぁ!?」
右手のハサミがきちんと切れるのか髪の毛で試そうとしてた良平は、姉が怒っていた理由を知って手元が狂った。シャキンと鉄が擦れるような音と共に一束の髪の毛が床に散乱する。
「……そんなことで。君はどうせまた『そんなの自分で作れよ。今日はお前の日だろ』とかそんな感じの言い方で言ったんだろ!」
『お~。良くわかったな。一字一句そのままだぜ』
愉快そうに笑うダーク。反対に良平は深くため息を吐いた。
「そのくらい作ってくれよ。それに例え断るにしても、もっと違う断り方もあるだろう」
『うるせぇ。俺はお前と違うんだよ。お前が人を殴ったりしたくないように俺にはそういうのをしたくねぇの』
良平はダークの物言いに呆れながらもそれ以上は言及せず、右手をハサミから元の手に戻す。
「メイはまだ自分の施設にいるのかな……」
ふと、窓の外を見るとメイの部屋の電気はまだ付いていなかった。
ダークのこと。
望まずして手に入れてしまった力。
メイを追っているカンパニーという会社。
何一つ解決してはいなかったが、それでも姉とだけは仲直りは出来た。小さな悩み種は一つ解決したのだ。今日のところはもう寝ようとメガネに手を伸ばす。そこであることに気がついた。
「ダーク。ここで僕がメガネを外したら、君はまたこの身体で好き勝手するんじゃないだろうな」
『それも面白いな。だけど残念ながら俺も一応人間なんでね。既に結構眠いんだ。人格はチェンジするだろうが、お前が気にするようなことはしない。ってかもう日常生活はめんどくせぇからお前に任せる。朝になったらなったで普通にお前にチェンジする。その代わり争いごとになったら俺にチェンジしろ。じゃあな』
「え、おい。ちょっと……」
良平の返答など待たずに言いたいことを言ってそれ以降ダークは喋らなくなった。良平の言葉にも答えない。良平はダークが嘘を言っている可能性もある。もしかしたらメガネを外した瞬間に、悪人を片っ端から殴りに行くかもしれない。
でも、良平は今日一日ダークと付き合ってみてわかったことが一つあった。ダークは自分がやりたくないことは何一つやらないが、その攻撃的な言葉遣いを除けば人が嫌がることも一切しない。良平の知る限り、まだ嘘を吐かれたこともないのだ。だから今はダークを信じてみようと良平は思った。
少し怖かったが勇気を振り絞ってメガネを外してみる。すると今までと同様に意識が遠退いていく。しかし、ダークは自分で言ったとおりベッドから立ち上がる気配はなく、そのままベッドに倒れこむ。
良平は翌日の朝食のこともあるので、自分もそのまま寝てしまうことにした。
▽
「やっぱ無理があるよね~」
地下施設にいるメイは、目の前のモニターを見ながら残念そうに息を吐いた。
モニターに映し出されているのは良平の部屋。メイ特製の小型カメラでの監視は続けていた。今回はあらかじめ良平からの了承を得ているので問題はない。彼の右手がハサミに変化し、そして彼の姉と仲直りする一部始終も見ていた。
「りょ~ちゃんがあたしに協力してくれたら一番簡単で最高だし理想だけど、りょ~ちゃんの性格だと難しいか~。そうすると、やっぱりこれしかないよね……」
目の前のキーボードのキーを一つ叩くとモニターの映像が瞬時に変わる。次に映されたのは一枚の画像だった。
中心に映し出された人間の心臓のような機器。そこから幾重にも複雑に絡み合って伸びている配線。その不規則のように見えて規則正しく伸びた配線がかたどっているそれは、まるで人間のような姿をしていた。見方を変えればその配線たちは血管に見えなくも無い。
モニターに映し出された画像は、メイが作っているロボットの設計図だった。
「設計図は私見だけどほぼ完璧。フィフスジェッターとの連結シミュレーションも問題ない。問題なのはこれを作り上げるのにあとどれだけの時間が掛かるのか……それとあたしがどれだけ逃げていられるか……」
メイは再び短く息を吐くとメガネのブリッジを中指で上げ位置を修正して、勢い良くキーボードを叩き始めた。
「そうと決まればやることは山ほどあるね」
メイを追っている奴らはすぐそこまで来ているかもしれない状況で追い詰められているはずなのに、なぜかメイの口角は無意識に上がった。
▽
目の前にある現在は全て夢なんじゃないか。良平はその瞬間、また現実を信じられなくなった。
「え~。昨日まで担任をしてくれていた鈴木先生が家庭の事情で休みを取ることになったので、新しく今日からみんなの担任をしてもらう戸鳴メイ先生だ」
「よろしくおねがいしま~す」
そう言って徹夜で研究していたせいなのだろう、真っ赤に目を腫らしたメイは良平の知っている口調でニコッと笑った。
メイに色々説明された翌日、良平が学校に来ていつものように朝のHRが始まるはずだった。しかし、現れたのは担任の教師ではなく、副担任と一緒に現れたメイの姿だった。
「……意味がわからない」
『チッ。あの女。一体何を考えてやがんだ』
驚きと疑問で頭を抱える良平に同意するようにダークも舌を打った。
周りの生徒たちも良平同様にメイの姿を見て驚いているようだった。メイの隣に立つ副担任も少なからず疑問を持っているような表情をしている。
それもそのはずで副担任は自分よりも遥かに年下の少女の下に付かなければいけないわけだし、クラスメイトの何人かは良平たちと小学校から一緒の者もいる。もちろん小学校の頃はメイもまだ日本にいたので、メイとも知り合いなのだ。そんな昔の同級生が突然先生として現れたら驚かないわけがない。
「と、戸鳴さんってあの小学校の頃、同級生だった戸鳴さんですか?」
おずおずと手を上げ発言する女子生徒。彼女も良平とメイの幼馴染の一人だ。
「はい。そですよ~滝沢さん。小学校以来ですね~。久しぶりです」
「おい。滝沢と同級生ってことは俺らとタメなんじゃねぇのかよ。なんでそんな奴が先公なんだ。絶対おかしいだろ」
今度は手すら上げずにメイを威嚇する茶短髪の不良男子生徒。しかし、メイはその威圧に物怖じもせずになんどか瞬きをした後、副担任の方を見る。副担任の方もメイが見てくるのとほぼ同タイミングで咳払いをしてメイの紹介をまた始めた。
「戸鳴先生は、先程本人も仰ったとおり、君たちと同じ十六歳だ。しかし、先生は小学校を卒業すると同時にアメリカに留学。みんなが中学を卒業する頃には、かの有名なハーバード大学を飛び級で卒業しています。もちろんその時に教員免許も取ったそうなので、なんの問題もなく生徒を指導することが出来るのです」
副担任が説明を続ける中、メイは両目を瞑って彼が言っていることが真実だと言うようにうんうんと頷いていた。
副担任の紹介を受け、一層騒がしくなる教室内。しかし、それは幼馴染で隣の家に住んでいる良平ですら信じられない事実なので仕方がないことだった。
「先生。質問しても良いですか」
まっすぐ垂直に手を上げた優秀そうなメガネ男子が席を立つ。
「いいよ~。スリーサイズ以外なら何でも答えたげる~」
「では、リーマン予想の解説をお願いしたいんですけど」
「え…………」
メイが茶目っ気たっぷりに宣言したにも関わらず、男子生徒はそんなことには興味なしと言わんばかりにメガネのフレームを上げ、いきなりな難問をメイに叩きつける。その瞬間、騒がしかった教室が急に静かになった。きっと全ての生徒がメイを試したいのだろうと良平には思えた。
「え、でも今はリーマンとか関係ないでしょ。朝のHRだし……」
「わからないんですか? ハーバードを出ておきながら」
戸惑うメイを馬鹿にしたように鼻で笑う男子。その言葉を聞いたメイは少しムッとしたような表情を見せる。
「いいわよ。それなら解説でもなんでもしてあげる。例えばだけど、与えられた数より小さい素数の個数の求め方を元に説明するとね……」
ムキになったメイは、おもむろに一本のチョークを持つと黒板に数式を書きながら完璧にリーマン予想を解説していく。ただ、その解説は良平を含む全生徒には意味がわからず、唖然とするだけだった。質問をした男子生徒も、まさか本当に解説されるとは思ってもいなかったのか、驚愕の表情のまま静かに席に着く。数式を黒板に書ききったメイは、両手を叩いてチョークの粉を落とすと、再び生徒たちの方に向き直り、挑発的な笑みを浮かべた。
「まぁ、ざっとこんなところね。これで満足かな?」
「……はい。お手をとらせてすみませんでした」
素直に謝る質問した男子。他の生徒たちもメイが高学歴なのを理解したような目で見つめている。メイもそのことに満足したのか、今度は嬉しそうにニコッと笑う。
だが、良平だけは他の生徒とは違う。なんと言っても昨日の時点でメイが本当に優秀であることは知っているのだ。そんなことで今更驚いたりはしない。問題なのは、なんでメイがこの学校に先生として赴任してきたのかだ。
良平はHRが終わると、副担任と一緒にメイが教室の外に出たのを確認して後を追った。
「メイ。ちょっと待ってよ」
名前を呼ばれたメイは、何事かと良平を向く。
「どしたのりょ……櫻井君。それに同い年とはいえ、あたしは先生なんだから戸鳴先生って呼びなさい!」
隣にいた副担任の怪訝そうな顔色を察知したのか、メイは急に態度を変える。
「あ……。そうか。そうだよね」
今の状況が良平にとっては不に落ちない状況なのだとしても、メイは現在、良平の担任なのだ。例え幼馴染だとしても場は弁えないといけないと思えた。
「先生。りょ、櫻井君はあたしに用事があるようですので、先に職員室に戻っていてもらってもよろしいですか?」
「……はぁ。わかりました」
若干首を傾げながらも副担任は良平とメイを残してその場を去っていった。
「悪いな。今度からは場を考えてからにするよ」
「うん。そうしてくれると嬉しいな。で何か用?」
その瞬間、自分がなんでメイを追って来たのかを思い出す良平。
「ってか元々、何でここにメイがいるのかを訊きにきたんだよ! 場を弁えてる場合じゃないんだ!」
危なく場の雰囲気に流されるところだった良平は、慌ててメイに理由を問いただす。
「え、だから。今日からりょ~ちゃんたちの担任になったんだけど……」
「そういうことじゃなくて! なんの理由があってここにいるのかってことだよ!」
「あ~。そういうことか。やっぱり小型カメラでりょ~ちゃんのことを監視するのは悪いかな~って思ってね。だったら自分の目で直に監視してた方が良いかなと思ったの」
納得と言ったように手をポンっと叩くと、メイは理由を説明してくれた。
「いやいや。だからって別に担任になる必要ないだろ。同級生として転校して来るとかの方がまだ現実的だよ」
「え~。だって今更、高校生の勉強なんてしたってつまんないし~。それにせっかく教員免許も持ってるんだから使った方が利口でしょ?」
「……そうかもしれないけど、少しは僕の都合も考えてくれてもさぁ」
「大丈夫! 悪いようにはしないから。あ、ごめん。授業の準備とかあるからもう行くね」
力強く宣言して良平にウィンクを飛ばすと、メイは腕にはめている腕時計を見て、慌てて職員室へと駆けていった。
「一応先生なんだから廊下を走るなよな……」
良平は走っていくメイの背中にため息を吐く。メイが大丈夫と言えば言うほど不安になる良平だった。
▽
光の一切入ってこない一室。薄っすらと見えるシルエットで人がそこにいるとわかるという程度の中で、その存在をアピールするかのように携帯電話の通話中ランプが光る。
『どうした。お前の方から電話をしてくるということは、それなりのことなのだろうな』
携帯越しであるにも関わらず、その声だけで十分に伝わってくる重圧。おのずと携帯を握っている手に力が篭る。
「はい。例の標的……戸鳴メイの姿を学校にて確認しました」
『……そうか。もう少し自宅に引き篭もるかとも思っていたが、まさかこんなにも早く公に姿を現すとはな。良いか? こんなタイミングはそうそうないことはお前でもわかっているはずだ。次は前のような失敗をするなよ』
通話の相手は、それだけ告げるとこちらの返答も待たずに電話を切った。
「わかっています……お父様」
人影は真っ暗な部屋から外に出た。暗闇の高校の用具室から姿を現した黒髪の少女――鷹峰響子は、携帯をスカートのポケットにしまうと代わりに小型の薬剤ケースを取り出し、その中に入っていたいくつかの錠剤のうち、青と赤のものを飲み込む。刹那、響子の黒くて長い綺麗な髪が僅かに発光する。
▽
状況は良平が心配に思っていたよりも遥かに順調だった。
「先生。ここがわからないんですけど……」
「はいは~い。あ、ここはね~」
女子生徒の質問にわかりやすく解き方を教えるメイ。
メイの担当している教科は科学。ただ、十六歳でハーバードを卒業している人間にとっては一般の高校生レベルの問題ならどんな教科だろうと容易く答えることが出来るのだ。
そのことをわかっているメイは、教師になった初日の最後の授業だということと、自分が担任したクラスに初めて教える時間だということもあって、生徒には好きな教科を勉強しても良いように自習にした。そしてわからないことがあれば遠慮なく彼女に訊いて良いことになったのだった。そしてそのおかげか、クラスの半数以上がメイの周りを囲っていた。
『あの女、大人気だな』
――確かに……。
そのクラスの輪の外、教室の一番後ろにある自分の席で良平は頬杖をしてその光景を見ていた。感嘆の声を上げるダークに適当な相槌を返す。良平もメイの人気っぷりに感心していたのだ。メイの言葉使いや見た目が若干幼いというのを除いたとしても、同年代ということで他の先生に比べたら格段に接しやすいというのもあるだろうし、何より教え方が上手い。きっと彼女に一年間きちんと教えられたら、科学が苦手な生徒も学年一位になれるのではないかと良平には思えた。それくらいメイは上手く教えていた。
メイが赴任してきた最初の一日。朝はどうなることかと不安で一杯だった良平だが、蓋を開けてみれば、特に問題らしい問題は何もなく初日を終えられそうだった。
そしてその日最後の授業の終わりを示すチャイムが学校中に鳴り響く。
「はい。じゃあ今日はこれでおしまい! この後は特に何もないし、このままHRに移っちゃいます……」
メイは両手をパンと叩いて授業の終わりを告げる。
本当に何事もなく終わってくれた。良平はそれだけが心配で仕方なかったが、今日一日の風景を見ていると、今後もなんの問題もなく過ごしていけそうで安心した。
『おい。終わったみたいぞ。いつまでボケッとしてんだよ』
「え?」
良平がホッと胸を撫で下ろして呆けている間に、どうやらHRも終わったらしく、メイの姿は既に教室にはない。生徒たちも数人が教室を出て行くところだった。
「んじゃ。僕も帰るかな」
良平はそう呟くと、固まった筋肉を解す為に軽く上に伸びる。その瞬間、ブーという音を経ててズボンのポケットに入れていた携帯が震える。
「姉貴かな?」
良平は携帯を取り出してみる。彼の姉は時々、このタイミングで買い物の指示をしてくることが多々あるのだ。しかし、そこに表示された名前は別の人間だった。
《今日は職員会議とか短いみたいだから帰らず待っててね! メイ》
『……帰る時くらい一人で帰れよ』
メールの内容を見たダークは、そう言って舌を打つ。良平もまったく同じことを思った。
ダークと一緒に生活するようになってから結構な確立で良平とダークは同じことを考えることがあった。やはり元は一人の人間というだけあって基本的な思考はそんなに変わらないのかもしれない。しかし、
――でもこう言われちゃうと、例え相手がメイでも先には帰れないんだよね。
良平の善意がメイをそのまま一人で帰らせることをよしとしない。そんな良平にダークは呆れたようにため息を吐いた。こんな時、ダークなら気にせず一人で帰るのだろうなと、良平は少し彼の性格が羨ましく思った。
「今日くらい、待たずに帰るか……」
「お待たせ~」
一瞬、本当にダークの言うとおりにして一人で帰ってみようかと思った矢先、教室にメイが駆け込んでくる。メールが到着してからそんなに時間は経過していなので、本当に職員会議はかなり短かったらしい。
『遅ぇよ! 男なら考える前に行動だろ。だからこういうことになるんだよ』
ダークに言われるまでもなくへこむ良平。しかし、状況がさっぱりわからないメイは、不思議そうに首を傾げた。
「どしたの?」
「いや、なんでもないよ」
良平は落胆の色を隠せないまでもメイにそう言葉を返すと、そのまま教室を出た。メイは腑に落ちないといった表情を見せながら、その後を追ってきた。
▽
誰も居ない自宅近くにある大きめな公園。東西南北に一つずつ出入り口が存在し、高校から良平やメイの家に帰る場合には、この公園を通った方が断然早いのだ。
「ってかさ、メイ。来る時は一人で来たんだから帰りも一人で帰れるだろ」
「え~良いでしょ。家はお隣同士なんだしさ~」
「小学生じゃないんだから。メイも場を弁えてよ」
「…………」
急に黙り込むメイ。良平は少し言い過ぎたのではないかと隣を歩くメイを見る。
「メ……」
「正直なことを言ってしまえば、これもりょ~ちゃんの監視の一つ。一緒に行動しなかったら監視カメラを外した意味がない」
メイの口調が急に変化する。地下施設で見せた時の頭脳明晰な科学者を思わせる口調だ。確かに名目上、メイは良平の監視を目的として学校に赴任してきているのだから、登下校も一緒に行動しなければ監視の意味がない。それを言われてしまうと良平としてもどう返していいのか困った。
「ってことで、明日登校する時も一緒だからね!」
しかし、すぐにいつもの調子に戻ったメイは、くるっと身を翻して良平に向き直るとニコニコ笑う。ころころと態度を返るメイの本心がなんなのかわけがわからず、良平は急に頭痛がした気がして片手で額を押さえながらため息を吐いた。
ところが、そんな時、良平たちの目の前に一つの影が出現する。
「戸鳴メイ。貴女を回収させてもらいます」