2章 破壊する正義?
「おい。起きろ」
どこかで聞いたことのあるような男の声が良平の耳に届く。重い瞼をうっすら開けてみると、目の前は真っ暗で自分の部屋の天井すら見えなかった。しかも寝不足のせいなのか頭をガンガンと叩かれたような痛みが走る。良平はいつも目覚まし時計の置いている場所に手を伸ばして探る。
……今、何時だよ。
「あ? 知らねぇよ。んなもん」
誰に言った言葉でもない。ただそう思っただけなのだが、良平の思考は声の主に一蹴された。
「良いから起きろ。てめぇに話があんだよ」
……何? というか誰だよ……。
結局探った先に目覚まし時計はなく、その手を頭痛のする額に当てると良平は上体を起こした。さきほどから自分に語りかけている相手を見てみようと思ったのだ。
そしてそこで言葉を失った。
「フッ。おもしれぇ顔」
良平の目の前に立っている男は、厭らしく表情を崩して彼を鼻で笑った。
良平はその男を見たことがあった。というか毎日見ている。だが、一度も会ったことのない相手でもあった。
僕……なのか?
自分で自分に問いかける。そう。良平の前に存在する男は、まさに自分自身。要するに櫻井良平にそっくりなのだ……いや、良平そのものと言ってもおかしくはないほどに似すぎていた。
「ご名答。俺は櫻井良平だ」
相手はそれを肯定する。
良平自身、まだ一度も言葉を口にしていないのだが、その全てを的確に返されている時点で、相手の肯定は嘘ではないのかもしれない。だが、もう一人の自分がいることもそうだが、一連の全てが「はい。そうですか」と信じられるわけではなかった。
「信じられないのも仕方ねぇわな。でもこれは事実で、俺はもう一人のお前だ。正確に言えば、お前の中の暗黒面。闇の部分。より暴力的な所だけが固まって出来た存在と言った方がいいかな」
暗黒面だと名乗るもう一人の自分が、また良平が口に出していない感情を即座に読み取り答えた。良平はそれでもまだ相手を信じられなかった。
今起こっていることが全て夢の中のことなんじゃないかと思えてならなかった。
「夢か……。まぁ別にすぐ信じなくてもいいけどな。今回は自己紹介がてらに現れただけなんでね。まぁ、次に会った時にはたぶん俺の存在を信じてくれると思うけどな。――あ、そうそう俺とお前、同じ櫻井良平だし、めんどくさいから俺のことはダークでいいわ。暗黒面だけにな。あと、一つ。自分の力には早々に気付いてくれよな」
もう一人の良平――ダークは失笑して踵を返すと、思い出したように意味深な言葉を良平に残し真っ暗闇の中に消えていった。
もう一人の自分だと名乗るダーク。
全ては夢だと思うことは簡単だった。きっと得体の知れない物を拾い食いしてしまったせいで、見た悪夢だ。起きれば全てなかったことになっている。
そう考えればいいだけなのだ。だけど、よくわからない違和感が胸の奥に残っていて、その感覚が全て現実だと言っている気もした。
そしてダークが最後に言った「自分の力には早々に気付けよ」という言葉。その言葉が何を意味しているのか。
仮にダークの言葉が本当だとして、自分の力とはなんなのか……。
良平は上手く機能しない頭を悩ませていると、ダークの登場でいつの間にか忘れていた激しい頭痛が蘇ってきた。
「くっ……」
その瞬間、良平の意識が急速に覚醒する。
▽
目を開けると、すぐに見慣れた天井が目に入った。自室の天井だ。その瞬間にダークとの出来事が全て夢だったのだと良平は安心した。ただ、頭から痛みは消えたてはいるものの違和感が少し残っていてそれが不快に思えた。
「っ!」
額を触ろうと利き腕を動かそうとしたその刹那、右腕に激痛が走り良平の表情が苦痛に歪む。その痛みが全身を強張らせ、更に体中から同じくらいの痛みが良平を襲う。
「な、なんだよこれ」
視界が涙で滲む。
痛みといっても捻挫や骨折のような重度の痛みではなく、どちらかと言えば久々に激しく運動したあとに襲ってくる筋肉痛に近いものだった。
それゆえに一つ一つの痛みに耐えることは出来たが、それでも全身から一気にその痛みが襲ってくるとなるとかなり強烈な痛みになる。
しかし、昨日の良平はさほど激しい運動をしてはいない。学校の授業に体育はなかったし、運動部に所属しているわけでもないので放課後も普通に帰ってきた。それ以外では姉に頼まれた買い物をしにコンビニに行ったくらいだ。この程度は一般人なら誰もが行う日常的な行動なはずで、彼自身、もっと運動した日でも筋肉痛にはならないのでどうにもおかしかった。
ただ、だからと言っていつまでも寝てるわけにもいかない。痛みを堪えながら上体を起こすと目覚まし時計を見る。
時刻は七時。
そこで目覚ましよりも早く起きてしまったことに気が付いたが、痛みのせいもあり二度寝する気もしなかったのでそのまま起きることにしたが、そこである違和感を覚えた。
なんでメガネ掛けてるんだ?
良平はそういえばと思い返してみると、起きた時から既に視界がはっきりとしていた。良平の視力は裸眼では0.2ほどしかなく、通常ならぼやけていてほとんど見えない。そのことにもっと早く気が付くべきだったのかもしれないが、体の痛みやらなんやらでまったく思考がそっちまで回らなかった。
でも寝る前に外したよな……。
メガネを掛けているのは視界の端に映るフレームでなんとなくわかったが、念のため手で触れてみると確かにそこにあった。
「まぁ良いか。覚えてないけど、きっと夜中にトイレとかに行ったんだろう」
ただでさえ変な夢を見たばかりでおかしな気分なのに、他のことで更に悩まされることは嫌だったので、良平はそう自分に言い聞かせる。
学校の制服に着替えると、部屋を出るとリビングに向かった。すると、驚いたことにすでに姉が朝食を食べていた。
「おはよう。姉貴、今日は早いね」
「なっ!?」
良平はいつものように朝の挨拶を姉に投げかける。いつもなら視線だけだが彼に向けて挨拶を返してくれる姉だったが、今朝はそうではなかった。良平の声に気付くと目を見開いて驚いたのだ。
「な、なんなのよ。いつもどおりになんかして! 昨日のことをなかったことにしようって言うつもりなのかもしれないけど、その手には乗らないんだから!」
姉はキッと鋭く良平を睨み付けると、一気に朝食を平らげ食器を片付けて、リビングを出て行こうとしたので良平は慌てて止めた。
「ちょっと姉貴。僕の朝食は!?」
「はぁ!? 意味わかんない。今日はあんたの日だっての!」
姉は怪訝そうな顔で良平を見ると、当然のようにそう吐き捨ててリビングを出て行った。しかし、まったくもって意味がわからないのは良平の方だった。
「昨日は僕が朝ごはん作ったから、今日は姉貴の番のはずだよな……」
リビングに張ってある家事当番表を確認すると、今日の日付には姉の名前が書かれていた。
現在、良平とその姉の両親は、海外出張中で家には居ない。それゆえに家事を含めた全てのことは二人で分担して行わなければいけなかった。
最初のうちは家事とか色々大変だったが、慣れてくると自分の仕事さえこなせば、夜更かしとかやりたい放題なので気分的には楽だった。
朝晩の食事においては日替わりで担当を変えて作ることになっている。忘れないように表をリビングに張っておいたのに、虫の居所の悪かったのか姉は自分の分だけ作っただけで、良平の分はどこにもなかった。
「でも姉貴なんであんなに怒ってたんだろ? 昨日のことってコンビニのことを言ってるのかな?」
良平は眉間に皺を寄せて呟く。彼が思い当たるのはそれくらいしかなかった。
だが、良平はコンビニの帰りが遅かったの件に関しては謝ったし、絆創膏も一枚貰ってしまったが、お金も貰わなかったのだ。それで大丈夫だと思っていたのだが、姉の方はそれでは納得していなかったのかもしれない。
「今日帰ってきたら、もう一回謝らなきゃな」
良平は申し訳なさそうにそう呟くと、自分の朝食を作る準備を始める。幸い起きるのが早かったので、慌てる必要はなかった。
▽
「絶対におかしい……」
学校に到着した良平は、自分の置かれている状況がおかしいことを確信した。
自分で作った朝食を食べ終え、学校へ行くため家を出たところまでは特に何もなかった。
しかし、問題は突然訪れる。
良平はいつもと変わらない通学路をいつもと同様に歩いているだけ。それなのに周囲からは常に視線が付きまとうような感覚がした。
それがただ見られているだけなのならまだ良いのだが、全てが良平を非難していかのような刺さる視線に感じられたのだ。
そしてそれは学校に着いてからも同じで、その上、間違いなく良平のことを避けている。
昇降口で試しに「おはよう」と挨拶をしてみると、だいたいの生徒が「ひっ……お、おはようございます」と慌てた感じで深々と頭を下げて逃げるように去って行ったし、どこの学校にもいるような素行の悪い生徒たちが彼の姿を見ると、途端に苦い表情をして苛立たしげにその場を去ったりもした。
しかも、それに自分以外は誰もいない所――例えばトイレに入った時に、他には誰もいないにも関わらず絶えず何かの視線を感じたりもした。
もちろん昨日まではそんなこと一切なかったし、生徒に怖がられるようなことをした覚えも良平にはない。そして授業が始まると、生徒だけではなく先生にまで蔓延していることがわかった。教科書を読む時や、問題を解くような指示を出す時でも絶対に良平には当てて来なかった。適当に名前を呼んで指名しているならまだしも、名簿順と銘打っているにも関わらず、良平を飛ばしたりするものだからすぐにわかる。
みんなが良平を腫れ物にでも触れるように接してきている。
そしてもう一つおかしなことがある。それは良平が準備してきた授業の科目が全て違うということだ。持ってきている科目の授業がないわけではなかったが、時間割が違う上に授業中に先生が教えている範囲が、良平の記憶と少し違う。
しかしその理由はすぐにわかった。良平が移動教室から戻ってきて、ふと黒板を見ると今日の日にちが目に行き、顔を顰める。
七月十三日の水曜日……?
良平の記憶だと、今日は七月十二日の火曜日のはず。一瞬、見間違いかと思ったが、今日の時間割と水曜日の時間割とを照らし合わせると全てが一致する。
そこで良平の記憶と時間の流れに一日の空白があることを初めて知った。
良平は一昨日遅くまで起きていたために、昨日一日寝てしまっていたのではないかとも思えた。だが、今朝姉が「昨日のこと」と言って怒っていたこと。一昨日まではそんなことはなかったのに学校の生徒や先生が自分を恐れていることを考えると、その可能性は限りなく低い。
そもそも、何かあれば良平にやらせようとする姉が一日中寝ている良平を起こさないわけがないし、一日無断で休んだくらいで学校全体から怯えられるわけがない。
良平はそのことに気が付いてから、放課後になるまでずっと空白の一日に何をしていたのか思い出そうと考え続けた。幸い授業で当てられることはないので、考える時間は山ほどあった。しかし、やはりどれだけ考えたところで何も思い出せない。あまりに深く考えてしまっていたせいか、気が付くと他の生徒はみんな帰ってしまっていた。
教室に一人残された良平は、仕方なく帰宅することにした。ひとまず帰って姉が怒っている事情だけでも訊きだそうと考えたのだ。
▽
「俺さ、今日事故った人助けたからお金なくてさ~。少しで良いから貸してくれない?」
良平がその声を聞いたのは、帰ろうと思って昇降口に向かう途中でのことだった。階段を降りた時、壁の向こう――学校の中庭の方から聞こえてきた。
「で、でもぼ、僕もお金持ってないし……」
「うっせーな! 少しで良いって言ってんだろが!」
誰が会話しているかはわからないが、少なくても良平にはそれが仲の良い友達同士の談話には聞こえなかった。
「はぁ~。なんでこんなに時に限ってカツアゲの現場に出くわすかな~」
良平は困ったように頭の後ろを強く掻くと、急いで渡り廊下に出て中庭に走る。相手が誰であろうと、自分がどれだけ急いでいたとしてもいじめを見逃すことは出来なかった。
良平が中庭に到着すると、頭を抱えて小さくしゃがみ込んだ男子に向かって一人の男子が拳を振り上げ殴りかかろうとしているところだった。
「やめろ!!」
良平はそう叫びながら走り、しゃがんでいる男子といじめている男子の間に入る。刹那、鋭い痛みが良平の頬を襲う。その一撃だけで意識が飛びそうになるが、なんとか持ち堪えて相手を見る。
「あ? なんだよてめぇは」
目の前に立った男は、怪訝そうに良平を睨み付ける。
「しょ、ショージさん! こいつですよ。昨日出てきた噂の鬼神っていうのは!」
ショージと呼ばれる男の後ろでうろたえている数名の手下男子。ショージはそれを聞くと一転、ニヤリと不気味に笑う。
「てめぇがそうなのか。俺は昨日学校サボってたからよ。まさかこんなタイミングで噂の鬼神様に会えるとは思えなかったぜ」
「キシン? キシンって誰のことだよ」
良平は頬を手の甲で拭いながら平然とショージの睨みを受ける。怖くないかと言われると非常に怖いのだが、良平の感性は昔から慣れていた。それゆえに、どれだけ威嚇されようとある程度冷静に対応出来るのだった。
「鬼神はてめぇじゃねぇのかよ。ボケるにゃまだ早いだろ。それとも俺とやる気がないなら、そいつの代わりに俺に金貸してくれてもいいんだぜ?」
ショージは覇気の無い良平を失笑すると一歩二歩と詰め寄る。しかし、動じることの無い良平は視線を逸らすようなことはせず、即答する。
「ごめん。君に貸すお金は持ち合わせて無いんだ」
まったく態度を変えない良平を見て、ショージは青筋を浮かべる。
「じゃあどけよ! 俺はそいつに用があんだよ!」
「それも出来ない」
ショージに良平は再び即答で返す。そこでキレたショージは拳を振り上げ、良平に向けて振り下ろす。
良平はショージから視線を逸らさぬまま、奥歯を噛み締める。一度殴られているので、だいたいどの程度の痛みが来るかは予想が出来ている。しかし、殴られるのが好きなわけではないのだ。それでも自分には躱すだけの反射神経があるわけでもなければ、反撃して勝てるだけの力があるわけでもない。そもそも喧嘩は嫌いなので、自分から拳を上げようとは思わない。こういう相手は、何度殴られてもこちらがまったく意思を曲げなければすぐに諦める。良平の長年の経験がそう告げていた。
――出来ればこんな時に身体が鋼鉄とかになったら痛みを感じなくて良いのにな。
奥歯を強く噛み締め、殴られる気を紛らわすためにそんなことを思う良平だった。
刹那、バキッという鈍い音と共に、激しい痛みが良平を襲って……はこなかった。
「ぐわっ……痛ってぇ!」
痛みに悶えて蹲ったのは良平を殴ったショージの方だった。見ると、彼の手首の辺りから先が変な方向に曲がっている。見るからに痛そうだった。
しかし良平は不思議でならなかった。確かに殴られた瞬間、良平の頬には彼の拳が触れたような感触はあったが、良平自身にはなんの痛みもなく、なんで殴ったショージの方が痛がっているのかまったくわからなかったのだ。
「だ、大丈夫!?」
この場で良い気味だと思えないのも良平の性分で、咄嗟にショージの心配をしてしまう。だが、それは相手にとっては屈辱でしかない。それをこの時の良平はまだ知らなかった。
「うるせぇ! 何、調子に乗って人の心配してんだよ!」
折れ曲がった手を押さえながら、起き上がるショージ。
額から大量の油汗を流しているので、重症なのだと良平にもわかったが、なぜ心配しているのに怒鳴られているのかまではわからなかった。
「いや、でもそれ折れてるみたいだし……」
「だから、誰のせいだって言ってんだろ!」
イライラする良平の態度に激怒したショージは、渾身の力を込めて良平の顎を蹴り上げる。予期せぬ攻撃を受けた良平は、その一撃で顎を跳ね上げられる。良平は痛みで我に返ると、宙に浮かんだ自分のメガネをクルクルと不規則に回転しているのが目に入り、それを機に良平の意識は闇の中に落ちていく。
▽
自分の勝利を確信したはずのショージは、次の瞬間に場の空気が一変したのを察した。
身体中から嫌な汗が止まらないのだ。腕の痛みから来る物ではない。身体の芯から震えるような恐怖に似た感覚に襲われる。
「……クックックッ。やっと俺の出番かよ」
ショージとしては自分の一撃が直撃した手ごたえは十分にあったので、相手はそのまま気絶するものだと思っていたのだが、その予想とは裏腹に相手は薄気味悪い笑みを浮かべながらゆっくりと跳ね上げられた顔を下ろして自分を睨み付けてきた。
「あ? 何言ってんだよてめぇは」
急に態度が変わった良平をショージは気味悪そうに見る。しかし、良平に睨まれた瞬間に全身が粟立つような気さえする。
良平は頭を左右に曲げ、首を鳴らしながらショージに近づいてくる。ショージはその良平の態度を見て、無意識ながらに恐怖で一歩後ずさった。
「お前さ。弱いものいじめって楽しいか? やるならもっと強い奴とやれよ。弱者を従えることは強さじゃねぇんだ……ぞっ!」
良平はそんなショージの心情を見透かしたかのようにニヤリと不敵に笑うと右足を上げて、ケンカキックで思いっきりショージを蹴飛ばしてきた。蹴りはショージの鳩尾の辺りに入り、骨が折れたかのような鈍い音と鋭い痛みがショージの全身を襲う。
次の瞬間には、身体の重さが消えたような錯覚すら覚え、後ろに居た手下と一緒に軽々と吹き飛ばされ、地面に身体を激しく打ちつけながら転がった。
「がはっ……なんなんだよあいつ……」
何年もひたすらに喧嘩に明け暮れてきたショージだったが、良平のような強烈な蹴りを放つ人間を今まで見たことがなかった。そもそも良平の放った蹴りは到底人間には発揮出来ないだろう破壊力なのだ。しかし、そんなこと知らないショージは、呼吸しづらそうに顔だけ上げて良平を見る。鳩尾に受けた蹴りの痛みと地面に打ち付けた身体中が痛みでそれ以上は自由に動かなかった。一緒に蹴り飛ばされた手下たちの方は既に失神しているようで、ショージに答えてくれる人は一人もいない。
「お、まだ起きてたか。お前、結構タフだな。まぁいいや。これに懲りたら弱いものいじめはもうすんなよ。あとその腕、絶対折れてるから病院にも行けな」
良平はそう言ってショージに笑いかける。ジョージには彼の笑顔が悪魔の微笑みのように見え、全身の血の気が引いた。
▽
「あ、あの……」
「あ?」
スカッとして気分の良い良平を逆なでするような声が聞こえ、踵を返すとさっきまでいじめられていた男子生徒が立っていたので、鋭く睨み威嚇する。
「ひっ……あ、あの、さ、櫻井さん。このメガネ」
男子生徒は良平に怯えながらも、拾った良平のメガネを両手で大事そうに差し出してきた。
「お~悪りぃな。ってかお前も、もっとしゃきっとしろよ! だからいじめられんだろ。男らしくドンと構えてりゃ良いんだよ。嫌なら嫌だって言え」
良平はそう言ってニカッと笑ってメガネを受け取る。男子生徒はそんな良平を見て急に目を輝かせた。
「デヴィルブラックみたいだ~」
「はぁ? デ、デビル何?」
まさか目を輝かされるとは思っていなかった良平は、逆にアタフタしてしまった。
「違いますよ! デビルじゃないです。〝デヴィルブラック〟です! 彼は悪魔なんですけど、他の悪魔が許せなくて正義のために立ち上がるんですよ。みんなはその凶悪な容姿に恐れるんですけど、実は凄く良い人で、〝破壊する正義〟を心情に人々を救うんです!」
「は、はぁ……」
良平は熱の入り始めたその男子生徒に圧倒され、なぜか急いでメガネを掛けた。
すると途端にぼんやりしていた意識がハッキリしてきた。手を軽く握ったり開いたりすると身体の自由も戻ったことが確認できる。
「なんだったんだ…………」
良平はそう口に出してみると、自分の言葉で喋ることも出来た。しかし、それが実感出来るとさっきまでのことがなんなのかわからなかった。
顎を殴られ、宙に浮いた眼鏡を見ている所までは意識がハッキリしていたのに、そこから急に意識が遠退いた。だが、そこで完全に気を失ったわけではなく、靄が掛かったような感じになり、身体の自由が利かなくなったのだ。言葉も話していたようだが、全てが自分の意思とは別に口から発せられていたものだった。
「え? あ! デヴィルブラックっていうのは特撮ヒーローなんですけど、最近の技術力が凄いのかめちゃくちゃ出来が良くて人気も高いんですよ…………」
ところが、男子生徒は良平が「デヴィルブラックとは何か」と聞いたのだと勘違いしたのか、更に熱の入った説明を続けた。しかし、特撮のヒーローどころではない良平は、男子生徒の話を右耳から左耳へと聞き流すようにしながら、状況の整理をすることにする。
――今のは夢……じゃないよな。あっちに倒した人がいるし、目の前では僕のことを正義のヒーローだと思ってる人がいるわけで……。じゃあ、さっきショージって人を倒した僕は誰だ?
良平は考えれば考えるほどわけがわからなくなった。
そもそも懸垂も一回が二回くらいしか出来ないほど非力な自分に、人をあそこまで蹴り飛ばせるだけの力はないので、自分がやったとは到底思えない。
『いい加減気が付けよ。あれやったのは俺だ。ってか良く考えてみろよ。俺しかいないだろ?』
良平は耳を疑った。自分の脳裏に誰か違う人物が語りかけてきた。目の前の男子生徒は相変わらず熱心に説明を続けているのを見ると、彼には聞こえていないように見えた。
『お! やっと俺の声が聞こえるようになってきたか。お前も自分の力を使えたみたいだし、そのせいかな』
その声の主は、良平の態度から自分の声が良平に聞こえていることを察したのか、急に声のテンションが上がった。
――待て! 僕は力なんか使った覚えはない。……って今の発言、もしかして君は……ダークなのか?
良平は夢の中で「自分の力に気付け」と言ったダークのことを思い出し、試しに頭の中でダークに話しかけてみた。
『当たり前だろ。それ以外に誰がいるんだよ』
良平の試みは成功したようで、ダークはくだらないことを聞くなと言わんばかりに失笑を返してきた。
――じゃあ、今朝のは夢じゃなかったのか……。
『正確に言えば、今朝じゃなくて昨日の話だけどな』
ダークは平然ととんでもない一言を口走った。
良平はダークが何を言っているのが一瞬わからなかったが、もし仮にダークの言ったことが本当だとして、昨日一日ダークが良平の身体を使って行動したと仮定してみると、驚くほどに色々辻褄が合うことに気が付いた。
――じゃあ昨日一日、この身体をダークが……。
しかも先程のようなことを体験した後だと、絶対にありえないとは言い切れないことだった。
『なんだまだ気付いてなかったのか。お前の予想通り、昨日はお前の身体を好きに使わせてもらったぜ。そのおかげで、みんなのお前を見る目が全然違っただろ?』
楽しそうに良平の予想をダークは肯定した。
――そ、それで君は僕の身体を使って何をしたんだ?
良平はこの質問をするのは、正直怖かった。ダークがしたことが普通のことではないのは、今日一日の学校を見ていればわかる。出来れば知りたく無いようなことなのだと簡単に想像できる。しかし、自分の身体がしでかしたことを知らないわけにはいかないと思えたのだ。
『何って簡単なことしかしてねぇよ。素行の悪い奴を片っ端からあいつみたいに殴り倒してっただけ』
――なっ……。
良平はそれを聞いて唖然とした。ダークの言う「あいつ」はカツアゲをしていたショージを指していることは容易に理解出来たので、それを考えるととんでもないことだった。
『そのおかげで今日はみんな真面目だっただろ? やっぱ言ってわかんねぇ奴は殴るのが一番だぜ』
――それは違うだろ。それは真面目だったんじゃなくて僕……いや、君に怯えていただけじゃないか。
『それの何が違うんだよ。俺に怯えて誰も悪いことをしなくなるんなら、それは良いことじゃねぇか。違うか?』
――違うよ。それじゃただの独裁者だ……。
確かにダークの言っていることは理に適っているように思えたが、良平はどうしても納得出来なかった。しかし、どうダークに伝えたら良いかわからず、おもむろに顎に手を置く。その瞬間、激痛が良平を襲う。
「痛ってぇ!!」
良平はショージに蹴られていたのをすっかり忘れていた。良平の声に特撮ヒーローの説明を続けていた男子生徒も驚いたようで、目を丸くして良平を見ていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……いや、あんまり大丈夫じゃない」
あまりの痛さに良平の視界が涙で滲む。
「すみません。僕なんかを助けるために……。そうだ! うちで手当てさせてください」
良平を見て申し訳なさそうにしていた男子生徒は、良いことを思いついたと言わんばかりに手を叩くと、良平の返事もまたずに携帯でどこかへ電話を始めた。
「え? あ、いやそこまでは……」
「もしもし? 今すぐに学校の前に車止めて。うん。そう。お願い。――今、車手配したので少し待ってください」
電話を切ると男子生徒は良平を見てニコッと笑った。
断ろうと思っていた良平は、思わずその笑顔に見とれてしまった。さっきまでは気にも留めていなかったが、良平が助けた男子生徒は、かなりの美形だ。女の子受けしそうな二枚目の容姿もさることながら、良平と同じ学校指定の制服を着ているはずなのに、その出で立ちからはどこか貴賓のある雰囲気を醸し出していて、同じ男の良平から見ても惚れ惚れするほどだ。
――なんでだろう。初対面のはずだけど、どこかで会ったことがあるような……。
良平は脳裏に引っ掛かる男子生徒の容姿と勢いに断る機会を奪われ、男子生徒に連れられて学校の校門まで行く。するとタイミング良く黒塗りの高級車が目の前に停車した。その車にも良平は見覚えがあった。というよりも忘れるわけがなかった。
「あ、どうぞ。これがうちの車です」
良平の前を歩いていた男子生徒は車の停車を確認すると、良平を見てまたニコッと笑った。その言葉、美形な容姿、止まった高級車。その全てが良平に一つの答えを叩きつけてきた。
「……まさか! ごめん。君の名前を聞いても良いかな?」
「え? あ、すいません。櫻井さんが有名人なので、知り合いのつもりになっちゃいました。僕は鷹峰正宗です。櫻井さんと同じ一年のD組です」
良平の予想どおりの返答だった。
鷹峰。
良平の知る限り、その苗字を持つ人間は一人しかいない。
「じゃあ鷹峰先輩の……」
「はい。弟です」
予想していたとはいえ、良平も驚いていた。学校では知らない人間はいないといっても過言ではないほどの響子に弟がいるなんて知らなかった。
「さぁどうぞ。乗ってください」
正宗は高級車の扉を開くと良平に乗るように促す。
――彼の家に行くということは、鷹峰先輩の家に行くのと同じこと。昨日に引き続き先輩に会える可能性大ということか……。やはりこれは運命なのかな。
憧れの女性に会える喜びを隠し切れず、表情が自然と緩む。
『……どうでもいいけど、気引き締めねぇと弟に嫌われるぞ』
ダークの言葉でハッとした良平は、平静を装って正宗が扉を開けている高級車に乗り込んだ。高級車とは中も凄まじく豪華で、普通の高校生である良平からしてみたら、未知の乗り物に等しかった。良平と向かい合う形で座席に平然と座った正宗は、慣れた手つきで車に内蔵されている冷蔵庫のような物から氷を取り出すと、タオルで包んで良平に差し出した。
「良かったら、家に到着するまでこれで冷やしていてください」
「あ、あぁ」
良平は生返事を返すと正宗から氷を受け取った。ひとまず渡された氷を顎に当てると、また激痛が走ったがひんやりして気持ちよくもあり、そのおかげで少し冷静になれた気がした。響子の家に行けると意気揚々と車に乗り込んだ良平だったが、車の中でさえ高級過ぎて、どうしたらいいのかわからないのに、家に到着したらどうなるんだろうと逆に緊張してきた。
「櫻井さん。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。自分の家の車だと思ってリラックスしてください」
正宗は良平の態度から緊張を感じ取ったのか、そう言って笑った。
「ありがとう鷹峰くん。でもうちの車とは全然違いすぎるよ」
良平からしてみたら、自分の家の車のようにと言われても、家の車は普通の乗用車で対面式じゃないし、冷蔵庫もついていないのでまったく現実味がなかった。
「そんなことないですよ。この車だって他の自動車と作りが違うわけじゃないですし、同じ道を走っているわけですから、同じですって。あ、それと鷹峰だと姉も一緒なので、僕は正宗で良いですよ」
そう言って笑う正宗を見たら、良平はもう何を言ったらいいかわからなくなったので作り笑いで誤魔化した。
『ケッ。これだから金持ちは世間知らずで困るんだよな。一般庶民がこんな車に乗れるわけがないだろうが。なぁ?』
良平の頭の中でダークが喚く。今回はダークの意見に賛成な良平だったが、ダークを認めたくなかったので、特に何も返さず無視することにした。ダークもそれを良平の意思から感じ取ったのか舌打ちすると、それ以降話しかけてこなくなった。
それから少しすると正宗がまたデヴィルブラックについて熱く語りだしたので、良平は聞いているフリをすることにした。