プロローグ
雲ひとつ無い空。綺麗な満月が何者にも遮られずに東京の街を照らす。
月明かりの下、二つの人影が華麗に舞っていた。
前を飛ぶ人影は少女のものだった。背中からは天使の翼を思わせる白銀色の翼が伸びている。その両翼が月の輝きを反射し時折、光る。
しかし、余裕はなかった。少女は後ろから迫ってくる脅威を警戒しながら、飛行スピードを引き上げる。
後方で少女を追う一つの人影は性別すら定かではない。少女と同じように月の光を受けているはずなのに、その光すら完全に飲み込んでしまっているかのようだ。前を飛んでいる少女から見て、かろうじてシルエットが見える程度でしかなかった。
人影はおもむろに片手を前方の少女に向ける。少女が速度を上げたのに気が付いたのだろう。
刹那、人影の手元で爆音と共に火花が散る――
銃声だ。
時刻は既に日付変更線を越えている。空を飛んでいる人影やその銃声に気を止める者はない……というより、そもそも人が知覚出来る高さでは無い。ゆえに誰かに見られることを考慮する必要はないと判断したのだろう。
「っ!?」
少女は後方から聞こえた音に目を見開いて驚いた。しかし反応する暇もなく、次の瞬間には右腕に痛みが走った。痛みと驚きのせいで、手に握っていた物をうっかり手放してしまった。
「……つぅ」
見れば、弾丸が掠めたような痕が手に残っていた。少女は痛みよりも落としてしまった物を見て舌を打った。今すぐにでも追って回収したかった。それでも追跡者の前でそんな隙を見せれば、少女の目論見は全て水の泡だ。
「どんだけ苦労して手に入れたと思ってんのよ」
少女は苦痛の表情で悪態を吐きながら、推力を殺さないように体位を仰向けに変えた。正体のわからない追跡者を睨みつける。
「調子に乗ってんじゃないわよ。こっちにはやることが山ほどあるんだからね! ……悪あがきは存分にやらせてもらうんだから」
少女は追跡者を見つめたまま、言葉を発すると同時に背中の翼から羽を一枚引き抜いた。彼女の翼は生物の物ではない。彼女の手によって作られた機械の翼だった。
抜き取った一枚を人差し指と中指で挟み、芯の部分を追跡者に向けて構える。
瞬間、ロケット花火のように標的に向け飛び出した。
複雑な軌道はない。ただ一直線に追跡者へ。空気を引き裂き高速で突き進む一枚の機械の羽。
しかし、例え高速で飛んでくるとはいえ、馬鹿正直に真っ直ぐ飛んでくる物体に当たってやるほど正体不明の追跡者も愚かではなかった。身体を捻るだけで攻撃をいとも簡単にそれを躱す。
少女にも予測は出来ていた。その事を知らない追跡者を見たまま鼻で笑う。
「甘いんだよ」
いつの間にか手にしていたスイッチを追跡者が羽を躱すタイミングに合わせて押す。
少女の放った一枚の羽は、追跡者とすれ違う瞬間、一瞬だけ光り輝き、その場で爆発。巨大な白煙を発生させて追跡者を包んだ。煙幕だ。
「元々この翼は攻撃用の装備じゃないのよね。――そんじゃまた機会があれば会いましょう闇夜の追跡者さん」
目の前の煙幕を見てニヤリと笑みを浮かべた。
体勢を戻して最大加速。相手が煙幕の外に出る前に東京の街に向けて降りていった。
煙幕が晴れ、中から姿を現した追跡者は、少女が向かった方向がわかっていると言わんばかりに下界を見下ろしていた。