引き合わせた音
子供の頃、公園に一人でいると聞こえるピアノの音が好きだった。
両親が共働きで遊び相手もいない私にはその音はとても優しく、曲が流れている間だけ寂しさを忘れさせてくれた。
毎週火曜日と土曜日以外、その音を聞きに公園に走った。
雨の日でも傘をさして耳を傾けた。
音が終わるととても静かになり、現実に戻るように帰路をとぼとぼ歩く。
あの音がない家は冷たくて寂しくて、ラップに包まれた晩御飯は何時も味気ない。
ずっとあの音を聞ければ良いのにとさえ思った幼い頃。
たまに両親が家にいる時でも、あの音が気になって気になって仕方なかった。
何度か両親を連れて公園に行ったこともある。
そして何時もの時間に音が鳴り始めると目を閉じて耳を澄ませる。
その様子に両親は苦笑して、一緒にベンチに座ってくれていた気がする。
両親といる時間よりも何処からか流れる音を優先する。
それほどまで私はあの音に惚れていた。
ある日、誰がその音を出しているのか気になり、音と耳を頼りに場所を探した。
ウロウロ、ウロウロ、まるで頭の可笑しい子のように公園の周りを耳に手を添えて彷徨く。
そして音が強い方にまるで誘われるように足を進めた。
人通りの少ない道。
入ったことがない場所。
心細かった。
しかし、音が手を取るように導いてくれた。
それから五分後、一件の家に辿り着く。
草が窓や壁に張り付いて見るからに古い建物。
煉瓦の壁にはところどころヒビが入っていて、辺りには草が生い茂っている。
恐い。
幽霊が出るかも。
帰りたい。
恐怖ですくむ足。
後ろに戻る一歩。
…でも、音は確実に此処から流れている。
もっと近くで聞きたい。
聞きたい。
勇気を出さなきゃ。
カサ
家の敷地に一歩踏み入れる。
ドクドク、ドクドク、心臓が痛いくらい早い。
見つかったらどうしよ。
怒られたらどうしよう。
追い出されたら二度と来れないかも。
もう二度とピアノの音が聴けないかも。
どうしよう。
戻った方が良いかな。
これからずっと聞けないのは困る。
寂しいのは嫌。
嫌だ。
これから先の不安を思った気持ちがポロポロポロポロ涙を流させる。
公園でみんなが遊んでいるのを独りで眺めるの?
楽しみもない公園なんてつまらない。
惨めな思いをするだけ。
冷たくて暗いお家で独りで待つの?
静寂な空間にいつか押し潰されてしまう。
お布団を被って待つのは疲れた。
私はこの行動で一生後悔するの?
…なら、帰る?
それが一番良いかもしれない。
この音に近づけなくても聞けなくなることに比べたらずっと良い。
弱い自分が誘惑する。
強い自分は進ませようとする。
飛び交う両論。
迷う自分。
その場に縮こまり頭を抱える。
「あ…」
音が、止んだ。
止んでしまった。
どうしよう。
強い自分も弱い自分もさっさと逃げて自分独り。
帰らないと。
立ち上がろうとした時、中から足音が近づく。
急がないと。
見つかってしまう。
すくむ足に鞭を打って走り出した時、
カララ
窓が開く音。
声がかかった。
「誰?」
男性の声。
緊張感に背筋が凍る。
更に早まる鼓動。
振り返る余裕もない私。
見つかった!
怒られる!
聞けなくなる!
急げ!
逃げろ!
「ごめんなさい!」
「あ、君!」
呼び止める声を振り切って無我夢中で来た道を戻った。
もうダメかも。
色んな意味で駄目かも。
近付いちゃいけない場所だったんだ。
自分の馬鹿。
バカバカバカ。
ホントに馬鹿。
もう二度と行っちゃダメだよ私。
駄目だから。
玄関の前。
顔や足が熱い。
鍵を開け、ドアノブを掴む。
すると、手の甲に落ちた一粒の雨。
それは温かかった。
「ッハァ、ンハ、ンぅ…ぅぁああああんん…」
息切れしたまま、何故か泣いた。
わからない。
悲しかった。
だから泣いた。
実は恐かった。
だから泣いた。
ホントは知りたかった。
弾いている人を。
だから泣いた。
本当は傍で聴きたかったんだ。
あの優しい音を。
私が好きなあの音を。
だから泣いたんだ。
友達になりたかったのかもしれない。
好きな音を奏でるあの人と。
玄関の前で崩れ落ちる私を気にする人なんかいない。
独りの私。
惨めな私。
ちっぽけな私を、誰も気にしない。
悲しい。
寂しい。
誰か気にかけて。
まだ暑さが強い日。
母親が帰る夜九時まで、私はずっと泣き続けた。
蚊に刺された痕が気持ち悪いくらい多かったのが記憶に残っている。
翌日、私は学校で嫌なことがあって落ち込んでいた。
「ハァッ、もう嫌」
ドサッ
ランドセルを乱暴に置いて、勢いよくベンチに座った。
苛々していたんだ。
だから人の気配に気づかなかった。
前髪を掻き上げ、ふと顔を上げると目の前に影があった。
人と気づくにはその人の髪や目や服やズボンやベルトや靴や爪は黒く、足音もしなかったものだから余計現実味がなかったんだ。
顔は何処にでもいそうな男の顔で、長袖だったのが不思議だった。
呆然とする私の第一声は質問。
「貴方は誰?」
長身の男を見上げ、横に置いたランドセルを抱えて警戒する。
その日、学校の先生が『不審者が出るから気をつけなさい』としわくちゃの顔で注意したのだ。
よく唾を飛ばして話すおばあちゃんだった。
私の質問に男は暫く無言だった。
更に不審がる私。
「…ハァ」
無視することにした。
体を動かして公園の時計台を確認する。
時間だ。
そっと耳を澄ます。
この時間になると決まってあの音が聞こえる。
聞こえたんだ。
…しかし、今日はあの音は聞こえない。
一分経っても五分経っても音はない。
やっぱり、私のせいか。
昨日私があの人に見つかったから、怒って止めてしまったんだ。
ああ、どうしよう。
どうしよう。
どうしようどうしよう。
どうすれば良いんだろうか。
謝りに行くの?
残念ながら道は覚えてない。
もう終わりだ。
やっぱり行かなきゃ良かった。
あの夜泣いたのはきっと頭がコレを予知したからだ。
ああ、最悪だ。
ポタ
また涙が流れた。
目の前の男はまだ立っている。
こんな顔を親にも見せたくないのに、他人になんか見せるわけがない。
体を反転させ、男に背を向けた。
腕で涙を拭うがなかなか泣き止んでくれない。
ああ、最悪。
何で人前で泣かなきゃいけないんだ。
早く泣き止め、バカ。
ただ、男が後ろに立っていてくれた場所は日陰になって暑くはなかった。
寧ろ、涼しいとさえ思えた。
けれど、苛々していた私は男に八つ当たりをするように棘を吐いた。
子供とは後先考えない生き物だと実感する瞬間になる。
「早くどっか行ってよ。不審者には近づくなって言われてるんだ」
「不審者は何処?」
「貴方だよ」
「なら、不法侵入者はどうなるの?」
「警察に捕まるんだよ。刑務所に行くの」
「じゃあ、君を警察に渡さないと」
「ハァ?何で?意味不明だし」
「昨日の、君だろ?」
「!?」
ビクッ!
丸まっていた背中がピンって定規のように真っ直ぐになった。
昨日の?
君?
聞き覚えのある声。
嫌な汗が背中を流れる。
まさか。
まさかまさかまさかまさかまさかまさか。
まさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさか。
昨日の人!?
どうしよう!?
私、警察に捕まっちゃうの!?
一生両親に会えないの!?
…あの音を、二度と聞けなくなるの?
それは嫌だ!
ヤダヤダヤダ!
ヤダよ!!
嫌だって!!
そんな悲しい未来、私はイヤだ!!
また違う涙が頬を伝う。
キュッと下唇を噛み締め、睨むように男の方に振り返った。
「…私を連れてくの?」
「君次第だ」
「私?」
「また明日、あの場所においで。玄関のブザーを二回鳴らす、それが合図だ」
「…行かなかったら?」
「どうしようね」
「考えてないの?」
「いま考えてる」
「変なの」
「よく言われた。家族からも、友人からも、周りの人間全員に」
「貴方、よっぽど変わってるんだ」
「そういうことになるらしい」
言葉のキャッチボールを淡々と繰り返す。
客観的な物言いは男の格好に合っており、また何も考えていない顔は面白く感じた。
嘘をつかない男に先ほどの恐怖を忘れ、手の平で涙を拭いて向き合う。
男は腕組みをして、私が来なかった時のことをホントに考えている。
可笑しな大人だ。
普通『逃がさない』とか言ってこの場で捕まえたりするだろう。
なのに本気で考えてる。
男を指差してクスクスクスクス笑った。
久しぶりに人前で笑った気がする。
しかし男はまだ考えている。
この男はどうするのだろうか。
興味を惹かれ、答えが出るのを待った。
足をブラブラさせながら待つこと四分。
閃いた顔でポンと手を叩いた男は、私を指差して言った。
「公園で君を待つことにする」
「待つの?それから?」
「またこうやってお喋りでもしようかな」
「…結局、警察に渡さないの?」
「不法侵入した証拠もないしね。それに、迷子になるから遠出したくないんだ。スーパーが限界」
「大人なのに迷子になるんだ。ダサいね」
「方向音痴だから仕方ない。実際、公園に来るまで十五分もかかってしまった」
あの家から公園まで十五分。
昨日私が辿り着いたのは迷ったのも合わせて六分くらいだろう。
ホントに変な人。
しっかりしてるのかしてないのかわからない。
変人。
変質者。
黒い人。
どれも全て当てはまる男の人。
そして、私が好きなあの音を奏でる人。
自然と頬が緩み心が温まった。
未だに突っ立ったままの男の人を見上げながら隣をポンポン叩く。
「隣どうぞ?」
「僕のこと嫌いじゃなかったの?」
「今は普通」
「そうなんだ。ありがとう」
隣に男の人が座るとキシリとベンチが軋む。
真っ直ぐ背筋を伸ばした横顔は青空を見上げ、生暖かい風が前髪を撫でるように吹き抜ける。
見え隠れする耳に服と同じ黒色のイヤリングがつけられてて、この人黒が一番好きなんだ、と思った記憶がある。
それから他愛もない会話を数回繰り返し、夕暮れに染まる公園の入口で私達は別れた。
この日、帰る足取りはとても軽く、学校であった嫌なこともすっかり忘れていた。
もう明日が楽しみで楽しみで、布団の中でなかなか寝付けなかったのを覚えている。
これらが、私と黒尾の最初の出会い。
あれから十年後の今。
私は大学生になり、黒尾は相変わらずあの音を奏でてる。
黒尾はずっと見た目は変わらず、ちょっとだけ老けたかもしれない。
顔の皺が増えた。
けど、相変わらず目を離すとスグに迷子になる。
だから出歩く時は必ず手を繋いで歩いてる。
黒尾は相変わらず変わっていて、たまに話が噛み合わないことがある。
特に変わったことといえば、私はあれだけ望んでた音の傍で、黒尾の傍で音を聞けること。
先週、私の荷物をこの家に二人で運んで同居してること。
視線が合えば優しく微笑み合うこと。
唇を重ねるようになったこと。
私達、結婚します。




