ラガヴーリン
ボーイズラブです。苦手な方はご遠慮ください。
店内に渦巻く喧騒も、どこか別の世界から聞こえてくる小さな物音にしか感じない。天然木のカウンターに肘をつき、茫洋と手元のグラスを眺めていた。
「よけいなお世話なんだろうけどさー。アンタ、死にそうなツラしてるぞ」
突然声をかけられ、視線だけを動かす。バーテンにチケットを渡しながらこちらをみつめる男は、上機嫌な笑顔を浮かべ、さらに続けた。
「アンタが飲んでるその酒。ラガヴーリンていうスコッチだろ? せっかくいい酒なんだから、もう少し美味そうな顔で飲めばいいんじゃねえの」
初対面のはずの男に飲んでいる酒の銘柄まで言い当てられ、青年は驚いた。そこで、死にそうなと表現された表情に生気が戻る。
「美味そうにって言われても……」
青年は言葉を詰まらせた。今、彼が飲んでいるスコッチは思い出の酒なのだ。しかもあまり楽しい思い出とは言えない。瞼を伏せると、男がずいと身体を寄せてきた。
「まさか訳あり!?」
そのまさかなのだが、しかしこの男はいったい何なんだろうか。先ほどから馴れ馴れしく話しかけてくるが、ナンパの類なのか。だが、そうは思えなかった。身奇麗なスーツは清潔感で溢れているし、明け透けない物言いは彼の人柄からくるもののような気がする。そこに邪な感情は感じられない。
だからなのか。青年の口が急に滑りだす。
「たったひとつの恋を失ったんだ」
そう。一生を賭けてもいいと思った恋だった。だがその恋は破れ、青年は一人でその思い出に浸ることもできずに自棄になっていた。グラスの半分ほどになっていたスコッチをぐいと煽る。
「ラガブーリン。もう一杯ください」
乱暴にチケットをカウンターの上へ投げる。バーテンダーは手馴れた様子でそれを拾い上げ、空になったグラスを下げた。
隣の男は青年の次の言葉を待っているようだ。自分が頼んだ酒を脇へ退かせると、腰を落ち着かせた。
「だから生きていても意味がない。だから美味い酒を飲んでも美味いと感じない」
苛立った様子で前髪を引っ掴み、唇を歪ませる。そこへタイミング良くグラスが差し出され、青年は一口含んだ。
衣擦れの音がして横を見ると、男がカウンターに肩肘を乗せこちらを見ていた。
「それだけいい恋したんなら、生きてきた意味はあるんだから、そういう言い方はやめたほうが賢明だな」
「知った風な口を利く」
嫌味たっぷりに言い放ったのに、男は意に介さず話し続ける。
「その、たったひとつの恋に出会ったのが偶然なら、アンタがこの世に生まれてきたのも偶然なわけだ。だってその恋に出会うためだからな。じゃあ、アンタを産むためにアンタの両親は出会ったわけで、それも貴重な偶然なわけだ。だけどここまで運のいい偶然が続くっていうのは、ただの偶然じゃねえよなあ。こういうのを必然て言うんじゃねえの? それを全部、意味がないだの言ってチャラにすんのは、それこそ無意味ってもんだろうよ。──なあ、そうは思わねえ?」
青年は目を瞠った。
これまで一度も出会ったことのないタイプの男だったからだ。
「でも……終わったんだけど?」
声を震わせ、喉を詰まらせながら問う。
「たったひとつって思うのも悪くねえけどさー。ぜったい次があるって!」
「……ないよ。数少ない出会いの中でみつけた大切な恋だったんだから」
「だーかーらー。その恋を否定はしねえって。ただもう少し周りを見たらどうかって言ってんだけど」
それはどういう意味なんだろうか。やはりこの男はナンパ目的で口説いているんだろうか。
青年は思いきって確かめてみた。
「もしかして……ナンパ?」
「え! 俺が? 誰を!」
「だから、僕を」
「なんで俺がアンタをナンパする必要があんだよ」
「違うの?」
「あったりまえだろうが! 俺には大切な恋人がいるからな。浮気なんかするもんか。……恐ろしい」
きっぱり否定した男はぶるっと身震いして見せた。嫉妬深い恋人なのかもしれない。
青年は思わず吹き出した。今頃アルコールが回ってきたのかわからないが、楽しくてしようがない。堪えきれずに大口を開けてバカ笑いすると、安堵した顔で男が手を伸ばしてきた。
その手はポンと軽く頭に乗せられ、小さな子供にするように撫で回された。
「幸せ……なんだ。貴方の方は」
「ああ。めちゃくちゃ幸せだぞ。俺がこの世に生まれたのは、アイツと一生涯肩を並べて生きていくためなんだと思っている。アイツもそれは同じだ。ケンカもして勘違いもして、会えずにいた時間もあったけど。でもそれは全部、今の俺たちのためにあると思っている。だから……アンタもそんな辛気臭いツラで酒なんか飲まずにさ。パアッとやればいいんじゃね?」
初対面のくせに馴れ馴れしく話しかけてきて、挙句説教まで垂れた男は屈託のない顔で笑っている。それは幸せな人間だけが放つことができる煌きだ。
だがどういうわけだか不愉快にはならない。この男の持つ独特の雰囲気のせいだろう。
「一人じゃ、パアッとできないよ」
「よし! そんなら俺らに混ざれ」
男はそこでようやく自分が頼んだ酒のグラスを手にした。中の氷はかなり溶けていて、ロックのはずが水割りのようになっている。目で自分のグラスを持てと合図するものだから、青年はおとなしくそれに従った。
この男には人を従わせる器量もあるのだろう。なんとなくそう感じた。
「でもいいの? 僕、初対面なんだけど」
「構わねえよ。友達になったって言えばそれでオーケーだ」
「そうなの?」
「そうなんだよ」
おーいと大声で叫び、仲間をこちらへ向かせる。青年は一瞬緊張したが、すぐに振り返った男の邪気のない笑顔を見せつけられ、つられたように笑った。
「こんばんは。たった今ナンパされた男子大学生でっす!」
どうやらその仲間内に男の恋人がいたらしく、その直後、軽く血の雨が降った。
「きみ、名前は? 俺はねー、中嶋」
声を掛けられて振り仰ぐ。
「僕は近藤って言うんですよ」
たったひとつの恋と思っていても。
破れた恋に胸を痛めても。
生きていれば。
「出会いってほんと、縁だよねー」
「そうですね」
「あ、これ俺の名刺ね。裏にケーバン書いておこう! 掛けてね?」
最後に飲み干した思い出のスコッチは、背伸びした恋と同じ消毒薬の匂いがした。