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出せなかった声を、次の航路へ

【前回までの人物】

・カイ:自由港カレドの運び屋。避難者十八名を待機泊へ届け、乗員十二名で帰港した。喉を休めるため、次の半刻は札を使う。

・セナ:右足と右腕に負傷が残る星図の研究者。空の白線、東へ動いた針、船内の物音を別々に記録した。

・ミレイ:カイの艇の修理も担う機関士。艇はまだ修理を終えていない。

 カイが最初の半刻を黙って過ごせたのは、セナに紙を一枚取られたからだった。

 施療所の窓際で、彼は喉へ当てた布を押さえ、空いた手で札に書く。

『板はどこだ』

 右足を台へ上げたセナは、左手で札を受け取った。右腕の包帯を机へ擦らないよう、椅子の向きごと変える。

「記録係。さっき、自分で渡した」

 カイはもう一枚へ手を伸ばしかけ、膝へ戻した。

 舟が港へ着いたあとも、体の中の揺れだけが止まらなかった。


 窓の外で荷車が石を踏む。候補艇の機関とは違う振動だ。分かっていても肩が動く。

 セナはその方を見たが、何も尋ねなかった。

 施療担当から言われたとおり、右足へ体重を掛けず、包帯の端に新しい血が出ないかだけを見ている。

 カイもまた、見張る相手を空から自分の喉へ戻すしかなかった。

 叫べば届いた場所が、今日は何度もあった。

 けれど帰りの船では、札で届いた。自分の声を使わなくても、船は帰れた。

 それがありがたくて、少しだけ腹立たしかった。


 半刻を示す砂が落ち切る前に、ミレイが戸を押した。

 袖口に黒い油が薄く付いている。短い髪を押さえた布には、港の風で運ばれた細かい砂が残っていた。

「生きてるね」

 カイは片手を上げた。

「返事しない。よし、今日は賢い」

 彼女は笑ってから、工具袋を床へ置いた。

「一号艇の点検は続いてる。予備鉤は固定、船底は見える所まで。機関を開けるのは、冷めてから。あんたの艇は、そのあと部品を合わせる。どっちも完了じゃない」

 カイは眉だけで残念さを示した。

「その顔、声がなくても腹立つな」


 ミレイはセナへ一枚の紙を渡した。

 帰投中の機関温度の控えだった。空の白線が見えた時刻には、小さな丸が付いている。

「星が動いたから、うちの機関が震えた、って噂になりかけてた。そこは分けてある」

「ありがとう。針の方と時刻を合わせたい」

「その腕で全部書き直す気?」

「記録係に、重ねる場所を頼む。私は口で説明する」

 セナが右手の指を動かさずに答えると、ミレイは紙の置場を少し手前へ直した。

「ならいい。手の代わりに無理をする係を、一人増やすなよ」

 カイを見たので、彼は両手を開いた。


     *


 半刻後、カイは小さな声ならよいと言われた。

 嬉しくてすぐ何か言いかけたが、ひりつく喉が先に止める。彼は口を閉じ、紙へ太く一行書いた。

『図を見たい』

 記録室は施療所と同じ建物の奥にあった。セナは椅子のまま運んでもらい、カイは戸と通路を空ける係になった。

 英雄の帰投、と誰かが呼びかけた。彼は頭を下げただけで通り過ぎる。

 今、確かめたいものは称賛の言葉より奥にあった。


 港の記録係は、四枚の紙を別々の押さえ石で留めた。

 人の名簿は閉じる。今日ここで使うのは航路の時刻と、空と針の観測だけだった。

「船長の控えは、写しを作ってお渡しできます。原本は運航簿へ戻します」

 係の穏やかな声へ、セナがうなずく。

「元の図を、東が上になる向きで置いてください。針の向きではなく、港の方位で」

 カイが紙の端を持った。セナが目で向きを合わせ、記録係が止める。誰も腕を伸ばして一人で抱え込まなかった。


 白線が見えたのは北水路の中ほど。

 針が東へ触れたのは二回。一回は待機泊で、機関が止まっていた。もう一回は白線と近い時刻だ。

 セナは図の余白を見つめた。

「カイ。帰り、第三浮標の手前で、船首が左へ流れたね」

「向かい風」

 声は短くかすれた。

「その前の白線を、同じ場所から見たと思っていた。でも船は動いている。待機泊からの見え方と、帰りの見え方を重ねると、線を遠くへ延ばしすぎる」

 彼女は左の指で、図の上ではなく机を二度叩いた。

「二か所、印をお願いします」

 記録係が、観測した船の位置へ丸を付けた。


 カイは、自分の艇の舵を握る時のように図を見た。

 止まった船から見る空。風に押されながら見る空。広い空は同じでも、足元は同じではない。

「陸から、見たいのか」

「うん。動かない場所から、同じ方向を」

「第五の所?」

 セナは即答せず、消灯した浮標の印を見た。

「そこへ行ってほしいとは、まだ言えない。灯りが見えなかった。位置も無事も、今は確かめられない」

 カイはうなずいた。暗い印の先へ、自分の船を先に置かない。


 ミレイが図の端へ、短い定規を置いた。

「第五に寄る船を出さなくても、西の古い荷揚げ台なら海側が開いてる。整備の時、雲がよく見えた」

「今も使える?」

 カイが訊く。

「今朝は見てない。だから、まず陸から台の足を見る」

「港内の高所なら、もう一つあります」

 記録係が倉庫の印を指した。

「北倉の監視窓。今は避難誘導に使っています。観測だけのために、人をどかすことはできませんが」

「空き時間を問い合わせてもらえますか」

 セナの声が少し明るくなった。

 遠くへ飛べない体で、見える場所が二つ増えた。カイはそれが分かり、図の前で少し笑った。


 だが、彼女はそのあと黙った。

 指で押さえていた机を離し、膝へ手を戻す。

「父は、ああいう線を何度も見ていたのかな」

 作業の問いとは違う声だった。

「記録には?」

 ミレイが訊く。

「似た記述はある。でも、その頁を書いた時に何を見ていたかまでは、分からない」

 セナは窓の白い光へ目を向けた。

「私、父が正しかったと証明したくて、都合のいい線だけ選ぶかもしれない。それが怖い」

 記録係は慰めを急がず、父の写しを今日の観測と別の押さえ石で留めた。

 ミレイも黙っていた。

 カイは、少ない声をどこへ使うか少し考えた。

「俺も、もう事故を起こしたくなくて、出ない理由だけ拾ったことがある」

 喉の奥が痛んだが、その一文は途中で切らなかった。

「一人で選ぶな。今日みたいに、並べて見よう」

 セナは彼の方を見た。頷くまで、一呼吸あった。

「うん。父の線も、私が見た線も」


     *


 記録室を出たあと、ミレイは自分の工具袋を持ち上げた。

「夕の分解まで少しある。あんたの艇、見る?」

 カイはうなずいた。

 セナは施療所へ戻る。観測候補地の問い合わせは記録係へ頼み、今すぐ椅子で港を回るとは言わなかった。

「図の写し、帰りに持ってきて」

「預かる」

「開いたまま、海へ落とさないで」

 彼女の言い方がいつもに戻り、カイも片眉を上げた。

「一回も落としてない」

「だから、次も」

 彼は返事をせず、写しを油布へ包んだ。


 自分の艇は、修理架台の上にあった。

 空へ上がる物が、木の脚に載っている。それだけで情けない気がした日もある。今日は、脚の下へ置かれた楔の数が目に入った。

 揺らさず直すために、誰かが一つずつ噛ませている。

 機関の覆いは外れていた。金属の冷えた匂いに、拭き取った油の匂いが重なる。

 ミレイは工具を差し込む前に、彼へ横を空けさせた。

「そこ、作業線。船主でも入らない」

 カイは一歩退く。

「俺の船なのに」

「落ちてきたら、あんたの頭も同じ硬さ」

 笑いかけ、喉が引きつった。ミレイはその顔を見て、自分だけ笑った。


 部品の仮合わせは一か所ずつだった。

 触れただけで直ったとは言えない。回さなければ分からない所も、回す前に止める所もある。

 カイはその手を眺めて、初めて自分から紙を出した。

『次は、記録を運ぶ便にしたい』

 ミレイは読んだあと、すぐ紙を返さなかった。

「誰に頼まれた?」

 彼は首を振る。

「じゃあ、どこへ」

 ペンの先が止まった。そこまでは決めていない。

「……まだ」

「いいよ。行き先を聞いてる。駄目って言ってない」

 彼女は工具を台へ置き、油の付いていない指で図の包みを示した。

「今日は港に残す記録。その先へ持っていくなら、相手と、運べる船と、帰りの都合を決める。あんたが運びたいだけでは荷を預かれない。でも、言わなきゃ始まらない」


 カイは、自分が運びたかったのはセナだけではないと気づいた。

 誰かが見て、誰かが比べ、港が人を乗せて帰した。その紙が次の港へ着けば、次の十八人が早く逃げられるかもしれない。

 それは予言でも、約束できる救済でもなかった。

 それでも、運ぶ理由にはなる。

 彼は同じ紙の下へ書き足した。

『まず、この港で見た物を残す。それから、渡したい相手をセナと訊く』

「ずいぶん字が上手くなった」

 ミレイが言う。

 カイは口を開きかけ、やめた。代わりに、盛大に顔をしかめた。

「それだと、喉は休まるね」


 夕の仕事へ戻る前に、彼女は工具袋を締め直した。

「今日はここまでにする所、決めてある。家で待ってる人に、また明日って言って出てきたから」

 カイはうなずいた。ミレイが帰れる時間も、彼の艇を直す仕事の中にあった。

 無理に夜まで直させて一便早めることを、もう最短の道と呼びたくなかった。


 施療所へ戻ると、セナは目を閉じていた。

 カイは起こさず、記録の写しを窓から離れた棚へ置いた。置場を札へ書き、椅子を引く。

 紙が擦れる音で、セナが薄く目を開けた。

「帰った?」

 彼はうなずく。

「船は」

 札へ、修理継続、と書いて見せる。

「そう」

 彼女は安心したように息を吐いた。すぐ飛べないことへ、今日は苛立っていない。

 カイはもう一枚を出した。

『次に渡す人を、一緒に考えたい』

 セナはそれを長く見たあと、左手で自分の膝を叩いた。

「明日。今は、ちょっと眠い」

 カイは札を畳み、うなずいた。


 北の窓の向こうに、空が薄く残っている。

 白い線はない。東の針も、今ここにはない。消えている第五の灯りを、窓から探すこともしなかった。

 今日、戻ってきた十二人。向こうで受け入れられた十八人。机に残した記録。

 それぞれが在る場所で、次へ進む準備をしている。

 カイは喉の布を替え、しばらく声を使わずに座った。

 自分の艇の舵を握る日に、頼まれたから、だけではない行き先を告げたい。

 その最初の一行は、もう紙の上へ出ていた。

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