8.啓介の素直さと、真帆の戸惑い
翌朝、啓介が再び病室にやってきた。
「気分はどうだい?」啓介は穏やかだった。
一連の流れから、一番怪しいと思っていた真帆は身構えていたが、
悪意や焦りのようなものは感じられなかった。
(もし、この人が犯人なら、逆にたいした人ね。)
真帆はぼんやりそんなことを思っていた。
会社員の真帆には、「デキる男」に対する感情は悪くなかった。
ただ、まだ信頼するには早いと、彼女は思った。
啓介の言葉は、あまりにも“素直”すぎて、
真帆は逆にどう反応していいのかわからなかった。
彼の声には、
罪悪感でも、取り繕いでも、焦りでもなく、
ただ静かな本音だけがあった。
それが、いちばん厄介だった。
「君には言い難かったが、俺だって子供は欲しかったんだ」
啓介は、窓の外の弱々しい赤い光を見ながら言った。
その横顔は、どこか疲れていて、どこか優しかった。
「お互いに自由になるのが幸せかとも思ったこともあったけれど……
政略結婚にしては、お互い居心地は良かった。
俺の勝手な思いだけれども」
真帆は、胸の奥がざわつくのを感じた。
この人……犯人じゃないのかもしれない。
こんなふうに素直に話せる人が、
私を殺そうとするだろうか?
でも、同時に。
いや、まだ信じるのは早い。
会社でもいた。
こういう“優しさ”で距離を詰めてくる男。
真帆は、慎重に、慎重に心の距離を測った。
“美穂”としての言葉を求められる恐怖
啓介は真帆の顔を見た。
「……美穂。
昨日は、驚かせてしまったね」
“美穂”
その名前が呼ばれるたびに、
真帆の心はひりつく。
私は美穂じゃない。
でも、言えない。
言ったら、この世界の“前提”が壊れる。
真帆は、曖昧に微笑むしかなかった。
啓介の言葉は続く
「小春のことも……すまなかった。
あの子は、俺の……いや、説明が難しいんだが」
啓介は言葉を濁した。
その表情には、後悔と、迷いと、責任感が入り混じっていた。
真帆は、彼の目を見た。
そこに“悪意”はなかった。
ただ、どうしようもない現実を抱えた大人の目だった。
真帆の心の声
この人は、悪い人じゃない。
でも、私はこの人の妻じゃない。
私は佐伯真帆。
40代独身。
子どもも、夫もいない。
なのに、どうして私はここにいるの?
左腕の金属が、
冷たく、重く、現実を突きつけてくる。
啓介の最後の一言が、真帆の胸に刺さる
「……美穂。
君が戻ってきてくれて、本当に嬉しい」
真帆は、返事ができなかった。
“戻ってきた”
その言葉が、
まるで自分が“誰かの代わり”であることを肯定してしまうようで。




