4.見知らぬあなた
真帆の「あなた、だれ?」という声は、
病室の空気を一瞬で凍らせた。
啓介の表情が曇る。
看護師はその変化を敏感に察知し、慌てて言った。
「せ、先生をお呼びします」
足早に部屋を出ていく看護師。
残されたのは、真帆と啓介だけ。
啓介は何か言おうと口を開きかけたが、
真帆の怯えた目を見て、言葉を飲み込んだ。
真帆はもう限界だった。
「本当に……わからないの。
あなたのことも、ここがどこかも……」
声が震える。
自分でも信じられないほど弱い声。
啓介は椅子から立ち上がり、
真帆に近づこうとした――その瞬間。
少女の声
「お母様、はじめまして」
病室のドアの隙間から、
小さな影がすっと入り込んだ。
啓介が「待ちなさい、小春!」と手を伸ばすより早く、
少女は真帆のベッドのそばまで駆け寄っていた。
小さな体。
大きな瞳。
緊張と期待が入り混じった表情。
真帆は息を呑んだ。
お母様?
はじめまして?
頭が追いつかない。
少女は深く礼をした。
まるで儀式のように丁寧に。
「わたし、小春と申します。
……お母様に、やっと会えました」
真帆の混乱
「はじめましてって……どういうこと?」
真帆の声は震えていた。
少女は顔を上げ、
真帆の金属の左腕を見ても怯えず、
むしろ興味深そうに見つめている。
啓介は額に手を当て、
深く息を吐いた。
「……小春、今は――」
「だって、お父様。
お母様、目を覚ましたんでしょう?」
小春は無邪気に言う。
その無邪気さが、真帆の胸を締めつけた。
私はこの子を知らない。
この子は私を“母”と呼ぶ。
でも“はじめまして”と言った。
矛盾が重なり、
頭の中で警報のように鳴り響く。
真帆の心の声
私は佐伯真帆。
40代独身。
子どもなんていない。
結婚もしていない。
なのに――
どうしてこの子は私を“お母様”と呼ぶの?
どうしてこの男は“夫”の顔をしているの?
どうして私は、知らない世界で目を覚ましたの?
啓介は小春の肩に手を置き、
真帆の方を見た。
その目は、
“妻を失った男”の目だった。
「……美穂。
君は事故の前から……小春の母親だったんだよ」
その言葉が、
真帆の世界を完全に崩壊させた。




