10.拍子抜けした啓介
小春の頭を撫でた瞬間、
真帆は自分でも驚くほど自然に“母親の顔”をしていた。
それは演技でも、義務でもなく、
ただ――可愛い子に頼まれたら断れない、
そんな40代独身女子の素朴な情だった。
そしてその柔らかい仕草は、
啓介の緊張を一瞬で溶かしてしまった。
啓介は、肩の力が抜けたように息を吐いた。
「……私はどうやら、勘違いしていたようだ」
その声は、安堵と、少しの照れが混ざっていた。
「君に子供のことを聞くと不機嫌になるからね。
てっきり子供嫌いなのかと思っていたよ」
真帆は一瞬、固まった。
……あ、やばい。
美穂の“設定”を知らないまま喋っちゃった。
美穂が子どもをどう思っていたのか、
小春をどう扱っていたのか、
啓介とどんな会話をしていたのか――
真帆は何も知らない。
なのに、
「親子も悪くないわね」
なんて軽く言ってしまった。
啓介の言葉が刺さる
「仕事の他にも好きなことがあったんだね」
その言葉は、
“美穂”という人物の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
仕事中心、子どもの話題は避ける、啓介とは政略結婚。
でも居心地は悪くなかった
ただ、心の奥は読めない女性だった
真帆は、胸の奥がひやりとした。
私は佐伯真帆。
美穂じゃない。
でも、今は美穂として生きている。
美穂がどういう人だったのか、
私は知らない。
なのに、私は“美穂としての言葉”を言ってしまった。
巻き戻せない言葉
「……あ、えっと……」
真帆は言い訳を探したが、
何も出てこなかった。
小春は嬉しそうに真帆の手を握り、
啓介は優しい目で二人を見ている。
この状況で
「私、美穂じゃないんです」
なんて言えるはずがない。
もう言ってしまった。
もう“母親になる”と言ってしまった。
巻き戻せない。
真帆は、
自分が“別の人生”に足を踏み入れてしまったことを、
ようやく実感し始めていた。
そして、静かに動き出す“美穂の影”
真帆が小春の手を握った瞬間、
左腕――LM-01A1の内部で、
微弱な電流が走った。
誰にも聞こえないほど小さな、
しかし確かな“起動の前兆”。
まるで、
「母親になるのか……興味深い」
とでも言うように。
そして、
その奥底で眠る“本来の持ち主”――
神代美穂の記憶の断片が、
わずかに揺れた。




