1.春の桜並木と、40代の孤独の影
桜は満開だった。
風が吹くたび、花びらがスクーターの前を横切る。
まるで誰かが「まだ大丈夫だよ」と言ってくれているみたいに、優しい。
でも、胸の奥は重い。
佐伯真帆はハンドルを握りながら、
自分でも気づかないほど小さくため息をついた。
人並みにモテた、と思いたい。
実際、告白されたこともあった。
断ったことだってある。
あの頃は、まだ未来が広がっている気がしていた。
けれど、あれはもう遠い昔の話。
最近は、
会社でも、街でも、飲み会でも、
男の視線が自分を素通りしていくのが分かる。
「あ、もう私は“対象外”なんだな」
そんな現実を、
誰にも言えないまま飲み込んできた。
高望みなんてしていない。
ただ、普通に誰かと笑って、
普通に暮らして、
普通に歳を取りたかっただけ。
なのに気づけば、
周りは結婚して、子どもがいて、
家族の話をするのが当たり前になっていた。
真帆はスクーターを少しスピードアップさせる。
風が頬を撫でるけれど、
その冷たさが逆に胸に沁みる。
「私は、一体これからどうなるんだろう」
その言葉が、
桜の花びらのようにふわりと心に落ちる。
そして、
喉の奥まで出かかっている言葉を、
必死に飲み込む。
「こんなはずじゃなかった」
言ってしまったら、
何かが壊れてしまいそうで。
ひらひらと舞い散る桜の花びらの中を、
真帆は電動スクーターでゆっくりと走っていた。
春の匂い。
少し冷たい風。
遠くで子どもたちの笑い声。
その全部が、
「まだ大丈夫だよ」と言ってくれているようで、
真帆はほんの少しだけ、胸の痛みが和らぐ気がした。
けれど、次の瞬間。
風が変わった。
ざわり、と桜並木が揺れ、
花びらが一斉に舞い上がる。
まるで、
桜そのものが壁になって迫ってくるような――
そんな異様な光景。
「え……?」
言葉にならない声が喉に引っかかった瞬間、
その“桜の壁”は形を変えた。
車だった。
ブレーキ音も、クラクションもない。
ただ、静かに、しかし確実に迫ってくる質量。
あ、と思う暇もなく、
真帆の身体は宙に浮いた。
世界が反転する。
桜の花びらが逆さまに舞う。
空が近づき、地面が遠ざかる。
その一瞬だけ、
真帆は奇妙な感覚に包まれた。
――あれ、私、死ぬのかな。
でも、怖くはなかった。
むしろ、どこかで諦めに似た静けさがあった。
「こんなはずじゃなかった」
その言葉が、
桜の花びらと一緒にふわりと舞い上がる。
そして、
そこで記憶は途切れた。




