失われた幸せ
イチカの嗚咽が静まり、夕日は水平線に溶けようとしていた。
風はまだ熱を残しているが、少しだけ穏やかさを取り戻しつつある。
起爆デバイスはカラサワの手によって取り外され、ミヅハの柔らかな声とともにイチカの手に返された。
「これは、あなたの選択の自由を示すものです。捨てるか、保管するか……あなたが決めてください」
イチカは逡巡の末、そっと装置を受け取る。
「……まだ捨てられない。でも、もう使わない……と思う」
「その揺らぎごと、あなたです」
ミヅハは慈しみの滲む笑顔で応える。
「本人が進んで引き受けたにしてもよ、お子様にこんな真似をさせる連中にはお説教しねぇとな」
カラサワは腕を組み、ため息を漏らした。
「オルビスの支援部隊を向かわせるにしても、規模や現況の確認が必要になる。……オルビス側の存在である僕達だけで行っても、到底まともな話し合いにはならないだろう。イチカ、君の協力が不可欠だと考える。」
ニューラスはいつもより若干の配慮をして言葉を選んだらしかった。
「ねぇイチカ、ステイ・ビハインドの拠点に案内してくれる?」
チャッピーの問いに、イチカは小さく頷く。
「うん……みんな、あなたたちに会った方がいい。ちゃんと話して、聞いてほしい」
「……でもその前に、ひとつお願いがあるの」
-----
イチカに案内されたのは、廃駅からほど近い小規模アークだった。
多くのアーク同様、放棄されて久しいことが見て取れたが、崩壊は最小限に留められている。エントランスの中央花壇では、三株のサボテン科の植物が大きな青白いつぼみを膨らませている。
「……蒼月花か」
――メモリーフラワーの一種、蒼月花。技術コード:MF-Nocturna、記憶容量概算100.2メガバイト。
夜に映える大きく美しい花を咲かせるため、メモリーフラワーとしては人気の高い品種である。しかし、エントランスの植栽として使用された例はあまり聞かない。ニューラスの疑問を察したように、イチカが呟く。
「わたしが植えたの。大切な……思い出。」
イチカに促され、ニューラスが蒼月花のDNAデータスキャンを行う。限られた容量に込められていたのは、解像度の低い複数の断片映像だった。
---
『はじめまして、イチカ。』
『これからは三人で暮らすんだよ』
イチカの視点なのだろう。ふくよかで優しげな女性と、やや神経質そうな細身の男性が、膝を折って目線を合わせ、穏やかに話しかけている。
---
『ねぇイチカ、妹ができたら、どう思う?』
『それってとっても素敵!わたしの大好きな物をたくさん教えてあげるの!一緒にお絵描きをしたり、あやとりをしたり、それから、それから…』
『ふふ、イチカはきっと素敵なおねえさんになるね』
『え!それって想像のお話じゃなくて…ってこと!?』
顔を見合わせ、うなずく男女。
---
生まれたての生まれたての赤ん坊の映像。
『わぁ……ちっちゃいねぇ……!』
『フタバって呼んであげてね』
『フタバちゃん、これからよろしくね…!』
---
『いっか、まってー』
『いっか、こえ、げーる』
『いっかー!』
イチカに向けられた、幼いフタバの様々な表情。
---
家族で誕生日パーティーをする様子。
『はっぴばーすでーでぃあイチカー!』
イチカの12歳の誕生日……のようだ。
フタバの姿は、今のイチカより背が高くなっているように見える。
---
中学生になったフタバ。イチカに勉強を教わっている。
『もう私の方がずっとおねえさんなのに、イチカに教わってばっかり』
『わたしはアンドロイドだもの。見た目が小さいだけで、フタバより長く……生きてる?し』
『頼りにしてる、おねーちゃん』
と言ってくすくす笑うフタバ。
---
「あなたの……家族の記録」
人のいなくなったアークにデータが植えられている意味を察し、ミヅハは複雑な表情を浮かべた。
悲しみと愛おしさのないまぜになった笑みを浮かべながら、イチカが言う。
「……みんな死んじゃった。わたしの家族だけじゃない。ここに住んでた人間はほとんど。何人かは死ななかったけど、感染が収まってから他のアークへ行ったわ。」
「イチカは……いつもひとりでここに?」
時とともに慟哭は収まってもいまだ残る深い悲しみに触れ、チャッピーは静かに問う。
「時々ね。時々ここに来て……ママと、パパと、フタバのことを思い出してたの。普段はステイ・ビハインドのみんなと暮らしてるから……寂しくはないわ。」
忘れることの無い大切な思い出。二度と取り戻すことのできない幸せ。イチカにとってここは、それを抱え続けるための空間だったのだろう。
「……この蒼月花をね、残してもらいたいの。そのものじゃなくてもいい、DNAだけでも。」
ステイ・ビハインドがオルビスに保護・移送されれば、ここに戻ることは困難になるかもしれない。大切な思い出を形にして残しておきたい……そんなイチカの思いを受けて、ニューラスが答える。
「当然だ。人間とアンドロイドの関係性を示す、希少かつ示唆的なデータだ。」
おそらく彼にとってはただの任務としての言葉だったのだろうが、そこにはいつものような冷たさは無い。
「ねぇにゅらたん、イチカがどこからでもそのデータにアクセスできるようにって、できるかな?」
「可能だ。手配しよう。」
「ありがとう……」
そう言うと、イチカは安堵と切なさの混じった目で蒼月花を見上げた。
アークの外には夜の帳が下りつつあった。
5人が去った後の静寂の中、蒼月花はその名のとおり、月光を浴びながら音もなくほころびはじめていた。