終わりよければ、すべてよし
背格好こそ、竜族のなかでも「竜の五神」のなかでも小柄な《地》神であったが、若き青年は大地主神。腕力は一族のなかでも随一だ。
なので、背面から倒れる《風》神を支えることに難はなく、片腕でひょいとその背を抱き止めて、もう片方の腕で素早く白の皇帝を《風》神からもぎ取った。そのまま静かに腰を落とし、白の皇帝を抱き支えたまま《風》神を地面に横たえる。
――まったく、《風》兄さまは……。
「《風》神にも困ったものです。肝心なときは、いつもこうなんですから」
《地》神は呆れて頭痛さえ覚えたが、付き合いが長いぶん、気を失ったこと自体にはさほどの動揺もしていない。
一方。あまりにも急なことだったので、白の皇帝は状況がつかめず、目を何度もまばたいてしまう。
「ふ……《風》神、どうしちゃったの? いきなり倒れるなんて」
心配になって覗きこむ顔は、完全に青ざめていた。
貧血、という言葉を知っていればそれなのだろうかと案じたが、白の皇帝は知らない。そもそも竜族は怪我を負うことはあっても病はない。白の皇帝はそれを学んでいる。
だから急な病気で倒れたという発想にはつながらないので、水色の瞳を揺らしながら倒れた《風》神と、それを見やっている《地》神を交互に見やる。
「《地》神……、《風》神、大丈夫かなぁ?」
「……」
まさか、白き少年が可愛いと賛辞した「虫」を極限まで嫌悪し、精神が限界を超えてしまった……などとは言えない。
さて、と《地》神は一拍、二拍、と呼吸をしながら、
「そのように案じなくても大丈夫ですよ。《風》神は耳がいい。なので、急に頭に止まった虫の鳴き声が大きく聞こえすぎて、それで目を回したのかもしれません」
などと、《地》神にしては適当な言い訳をさらりと口にしたが、
「そっか……。俺が手を離さなければ、虫は《風》神の頭に止まらなかったのに……。ごめんなさい」
不慮とはいえ、自分が虫を手離さなければ《風》神が鳴き声の大きさにおどろくようなことはなかった。そう思えてしまい、白の皇帝は悲しげに目もとを揺らす。どうやらこの例えはまずかったようだ。
ぽつりと謝った声に、《地》神は慌てた。
「そのようなことはございませんッ、白の皇帝は何も悪くはない」
「そうかな……」
「ええ」
――悪いのは、全部こいつですッ。
心中で断言し、《地》神は白の皇帝を慰める。
「それよりも虫……飛んでいってしまいましたね」
捕獲から解放されたことをほっと思うべきか、それとも苦労して手にした虫を逃がしてしまった白の皇帝を哀れに思うか。
どちらにも心情がかたむくようすで声をかけると、白の皇帝も「そういえば」と思い出したように頭上を見やり、周囲の木々から聞こえる鳴き声に耳を澄ませながらすこしだけ残念そうな息を吐く。
「――うん。女官のお姉さんたちに見せてあげたかったけど、でも、ずっと捕まったままじゃ虫もかわいそうだもんね。ちゃんと飛べたってことは、羽を傷めていなかったってことだよね。なら、それでいいや」
捕まえて手にすることも目的だったが、どのような形容なのか見分するのも目的だった。それはもう達成してしまったし、もともとすぐに解放つもりでもいた。
これはこれでいいや、と満足そうな表情を浮かべる白の皇帝に《地》神は微笑む。
「さすがは白の皇帝です。温かなご配慮、感謝します」
「えへへ。――でも、コツはつかんだから、あともう一回くらいは捕まえに遊びたいなぁ」
もちろん怪我をさせないように丁寧に捕獲するし、手に取って見分したらすぐ離すから、と自ら条件を付ける。
それは虫に対してというよりも、《地》神の心情に対しての配慮だった。
すぐに察した《地》神はあらためて感謝し、心優しきハイエルフ族の少年に浮かぶ愛情を確かめるように、そっと目を閉じる。
「そうですね。今度は――ピクニックも兼ねて歩きましょう」
「うん! 俺、苺好きだから、たくさん用意しようね」
「もちろん。たくさんの種類を揃えますよ」
「やったぁ!」
――今度、はもしかすると、明日、かもしれない。
いまの興味は先ほど手にした虫だが、つぎはべつの形容の虫に興味を持って探そうと意気込むかもしれない。いや、虫以外に「何か」かもしれない。
ほんとうにこの少年が持つ興味は、つぎからつぎへと増えて、変わり、尽きることがないのだ。
そばにいると、見ているこちらがはらはらと落ち着きもなくなってしまうが、
――でも……。
いつであろうとも永遠の忠誠と愛を誓った白の皇帝がそばにいてくれるのなら、と《地》神は思い、微笑んでしまう。
ただ。
そんな胸をくすぐられる時間も、足もとに横たわっている《風》神が目につくなり興ざめとなった。
「さて、と。――どうしてくれようか」
などと物騒にもつぶやいてしまったが、頬をかるく叩けば気がつくかもしれないが、目が覚めたらそれはそれでうるさいかもしれない。わずかに考えた末、《地》神はひょいと《風》神を担ぎ上げてしまう。
体格差はあるにしても、彼を担ぐくらいは造作もないことだった。
「わっ、力持ちだ」
白の皇帝はおもしろがってはしゃぐが、《地》神は苦笑するだけ。
「とりあえず、俺の居宮まで戻りますか。起きる、起きないは、彼の勝手です」
「《風》神、ちゃんと目を覚ますかな?」
「そこまでは面倒見きれません」
言って、《地》神は歩きはじめる。
白の皇帝もそれにつづいた。
頭上に広がる空の色は、夕暮れを迎えるにはまだ早かった。
周囲の木々からは、耳に馴染んでしまったとはいえ、虫たちの鳴き声が聞こえる。
この世界創世期の時代から想像もつかないほどの「久遠の明日」から突如として迷い込んでしまった、ハイエルフ族の少年。すでに多くの固有名詞を持つ世界から来た白の皇帝さえも知らなかった、あの虫。
後世にはどのような「物」にも事細かな固有名詞がつけられているという。
では、誰が最初にあの虫に固有名詞を与えるのだろうか。
――それはどういう名なのだろうか。
《地》神は、ふと、思う。
――ミーン、ミーン。
――ジジジジジ……。