不思議な鳴き声
――ミーン、ミーン。
――ジジジジジ……。
不思議な声で鳴くのは、だぁれ?
あなたはどこにいるの?
□ □
それまで「その鳴き声」が聞こえていたのかは、よくわからない。
けれども、何となく気になりはじめたら、どこかしらで鳴いているのが耳についた。
どこからだろう、と思い、白の皇帝がキョロキョロと見渡すと、その不思議な鳴き声は庭の奥、木々が茂っている方角からよく聞こえる。
それまで緑豊かな植物が飾られているテラスでハープを奏でていた白の皇帝は、ぴたりと手を止める。
「……?」
何だろう?
どこから聞こえるのだろう?
長く先の尖った耳を、ぴくっ、と動かし、空の色とも水の色ともとれる長い水色の髪と白い肌を持つハイエルフ族の少年は、もう一度あたりを見まわす。
――ミーン、ミーン。
――ジジジジジ……。
聞いたことはないが、これに近しいような鳴き声を白の皇帝は聞いたことがある。
たしか、これまでいた自分の世界の、自分が暮らしていた時代で。
妖精や精霊、神獣たちが暮らす静寂な自然の世界で。
見上げると満天の星と月明かりが美しい、夜の時間に聞こえていた鳴き声とは異なるが、けれどもどこか近しいような鳴き声。
――ミーン、ミーン。
――ジジジジジ……。
コオロギ……、いや、スズムシ、クサヒバリ……白の皇帝は知っているかぎりの虫の名前とその音色を思い浮かべるが、あれらはみな軽やかで淑やかで、静寂な夜にふさわしい鳴き声だ。いま聞こえる、どちらかというとにぎやかな声には当てはまらない。
けれども、どこか似ていると思えたのは、きっとそれらがおなじ「虫」という種族なのだろう。
とすると、いまも鳴いている声の主たちは草むらにいるのだろうか。
それにしては、どこか高い位置から聞こえるような気もする。
「――ねぇ、《地》神」
ふと沸いた好奇心に、白の皇帝はこの鳴き声を知っているだろう相手に声をかける。
いまほどまで目の前でハープを奏でていた白の皇帝に声をかけられ、「はい?」と若き青年は顔をあげる。
「いま聞こえる虫の声、あれは何ていう名前なの?」
問うと、青年は一瞬、何のことだろう、と小首をかしげるが、
「ほら、いまも外から聞こえるじゃない。ミーン、ミーンって」
今度は外に向けて指をさして見せると、ハイエルフ族特有の長く尖った耳ほどではないが、ヒトよりわずかに長く先端が尖った耳を持つ青年もかるく動かし、目を何度かまばたかせる。
「そうですね……、いままで気に留めていませんでしたが、たしかに多重によく聞こえますね」
年のころはヒトの感覚でいえば一八か、そこら。
簡単な被り着を肘あたりで腕まくりし、軽装なスラックスを履いた青年は、ふむ、と思いながら立ち上がる。すらりとした姿によく似あう端正な顔立ちに、黒曜に似た色の髪と、深紅色の瞳。
若き青年――世界を創世した最初の種族である竜族、その世界を支える五つの自然元素である《地》を司る「竜の五神」がひとり、《地》神はテラスの手すりにかるく腰を下ろし、ふむ、と考えるようすで聞こえる鳴き声の主を探り当てるようにして、彼は妙に真顔で答えた。
「虫、ですね」
「……」
――そういうと思ったけど……。
じつを言うと、白の皇帝は彼がもたらすだろう答えにあまり期待は抱いていなかった。
――いま、白の皇帝がいるこの世界は。
自分がいた世界の遥か太古……最初の種族である竜族が「神」としてまさに世界を創世中の世界創世期と呼ばれる時代で、本来であれば白の皇帝はこの時代には存在していない。
白の皇帝はハイエルフ族の少年で、見た目の年ごろは一三かそこらだが、妖精や精霊、神獣たちが集う世界を統治しているハイエルフ族の長であり、世界最高峰の存在でもある。
――白の皇帝、とは。
その世界最高峰を冠する位でもあり、その玉座に座する少年の名前でもある。
ハイエルフ族はすべてが自然回帰したという竜族の末裔で、白の皇帝は歌や語りで継がれている竜族「竜の神さま」に強く傾倒し、もしかすると世界のどこかにいるかもしれない、と思ってひとりで冒険ごっこのつもりで旅をはじめたのだが、
――何の因果か。
気がついたら白の皇帝は、この世界創世期に迷い込んでしまっていた。
発見されたとき、白の皇帝は半死半生の行き倒れ状態にあったが、幸いにも拾われて、竜族でも最高峰の「神」と呼ばれる「竜の五神」、《空》、《水》、《風》、《火》、《地》を司る部族族長たちに見初められ、永遠の忠誠と愛を誓う彼らのもとで保護され、日々を過ごしている。
――その一席に座する《地》神は、大地主神。
大地、大陸を創成している大地の覇王とも呼ばれる青年で、地上にあるもので彼に分らぬ事柄はないのだが、如何せん、いまは世界創世期。細々とした固有名詞はまだついておらず、何事も大雑把にしか区切りがついていないので、すでに物事にはさまざまな固有名詞がある時代の白の皇帝にとっては解釈が難しいこともあって、その一例がいまだ。
ミーン、ミーンと鳴く虫の名前を尋ねたのに、《地》神にとって虫はすべて虫。
なので、虫、としか答えようがないのだ。
「えぇと、そうじゃなくて、虫なのはわかるよ。ただ、どういう虫で、どういう種類で、どういう名前なのかを知りたくて」
「そう言われましても……」
できることならどのような形状で、どうやって鳴き声を出しているのか、細かく尋ねたいところではあったが、これ以上尋ねたら《地》神はきっと混乱するだろう。
すでに、何度も求める知識に対しての認識の差で《地》神を困らせてしまっているので、白の皇帝はいつものように尋ねるだけ尋ねて、あとは自分で直截見に行ったほうが早いや、と思い、
「俺、見てくるね!」
と言って、テラスを飛び出してしまう。
「あ、白の皇帝ッ!」
それに慌てたのは《地》神だった。
白の皇帝は見た目こそ清楚で神秘的な少年なのだが、それに反して好奇心が強く、すぐに目移りをしてはそちらに足を向けてしまうのだ。
幸い、ふたりがいたテラスは庭先に面した地並びだったので、手すりを飛び越えたところで落下の危険はなかったものの、白の皇帝はそのまま素足で木々のほうへと駆け出している。
この周辺は《地》神の居宮なので、白の皇帝に害を及ぼす危険はないのだが、目を離すと何をしでかすのかわからないのが、あの白き少年だ。
彼の好奇心は危なっかしいので、ちょっと目を離しただけでこちらの気分が落ち着かなくなる。
「――すいません、すこし遊んできますので、湯浴みや食事の用意をして待っていてください」
《地》神は周囲に侍っていた女官たちにそれを告げる。
本来であれば、《地》神は《地》族族長でもあり、女官たちは族長に仕えるためだけに存在する雌なので、丁寧な言葉をかける必要もないのだが、これは《地》神自身の性格所以でもあるので仕方がない。
女官たちは自分たちの族長に対しても、彼が寵愛して止まない白き少年に対しても充分心得ているので、くすくすと笑いながら頭を深く下げて承知の意を伝える。
《地》神は履物をどうしようかと悩んだが、自ら創成した大地の上を歩くのに素足も悪くない、そう思ってスラックスの裾を動きやすいようにわずかに捲り上げ、白の皇帝とおなじようにテラスから直截庭に下りて、好奇心旺盛の少年の後を追うのだった。
庭先の緑の色は濃い。
空の色も清々しいほどの青で、日差しはまぶしかったが、美しくもあった。