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翌朝、僕は普段よりもいくらか遅い時間に登校した。言っておくけど、寝坊したわけじゃないんだからね――嘘です、普通に寝坊してしまったのです。
寝坊したのは自業自得であるが、胸に沸々とわきあがったこの理不尽な怒りを発散すべく、食後の紅茶を優雅に飲む姉貴に口撃をしかけた。
これが大きな過ちだった。
「姉貴、どうして起こしてくれなかったんだよ? おかげで遅刻してしまいそうだ」
「良樹、どうして私が起こさねばならないんだ? おかげで朝のひと時が台無しだ」
すうっと白い腕が伸びてきて、僕の首をがしりと掴む。そのまま引き寄せられ、笑顔の姉貴と見つめ合う。頭突きをしたい衝動に駆られたが、そんなことをすれば、僕はたちどころに死体に変えられてしまうだろう。
「ところで、昨夜はどこに出かけてたんだ? 帰りがずいぶん遅かったようだが」
「え? まあ、その……学校に、ねっ?」
「ほう。この私に隠し事をするとは、なんと生意気な弟か」
姉貴の細腕に力が入る。意外と握力あるな、こいつ。ここで気持ちよくなればマゾヒストの素質あり、だが――僕は普通に苦しくなった。うぐぐぐっ……。
「あの……マジで遅刻しそうなんで、腕はなしてくれませんかね?」
「そういえば」姉貴は言った。ガン無視である。「私が父上からもらい、お前に譲り渡した小箱、あれどうしたんだ?」
「ああ、あれね……いろいろあって、校長のもとに渡った」
「なんだ、没収されたのか?」
「没収されたってわけではないんだけど――」
「貴様、さては彼女とのアレコレに使ったな?」
姉貴にしては珍しく、ちょっと恥ずかしそうな声色である。心なしか顔が赤い。僕が弟でなければ、惚れていたかもしれない。ふう、危ないところだったぜ。しかし、これがラノベなら後々、僕と姉貴の間に血の繋がりがなかったことが発覚して――。
「僕に恋人はいないよ」
「『恋人は』ってことは」姉貴の握力が緩まる。「恋人ではない関係の女が――」
「深読みしすぎ」
寝間着から制服に着替えると、光速で歯磨きをして音速で顔を洗った。姉貴との会話がなければ、朝食にありつけたかもしれないのに。『ごめん。遅れるかも』と座間さんにメッセージを送っておく。親しき中にも礼儀あり、だ。僕と座間さんの親しさレベルっていかほどなんだろう?
努力の甲斐もむなしく、座間さんとの待ち合わせに遅刻した。この場合の努力というのは、自宅から駅までの道のりを猛ダッシュした、というだけである。僕は努力をすることの虚しさと儚さを痛感した。
「ごっめーん。まったー?」
キャラメルマキアート並みの甘ったるい声で、僕は話しかけた。ペコちゃんみたいに舌を出して、かわいさアピールも追加してみる。おそらく、客観的に見ればキモい。というか、主観的にもキモい。
座間さんと目が合うと、露骨に目を逸らされた。
「……待ちました。けっこう待ちました。お、お、お詫びにキスしてください」
「わかった。ちゅー」
唇を尖らせて座間さんの顔に迫ると、彼女は顔を真っ赤にさせて、
「じょじょじょじょ冗談ですっ! すみませんごめんなさい、ちょっと学前くんを困らせてみたかっただけなんです」
僕は唇を引っ込めた。もちろん、僕だって公衆の面前でキスするつもりはない。バカップルじゃあるまいし。でも、これが二人きりの密閉空間だったら――はたして、どうなっていただろうか。
「ま、まさか本当にキスしてくれようとするだなんて……」
気まずい、とは異なると思う――普段より緊張感を持って、詩頓高校までの道のりを歩む。座間さんは熱に浮かされているのか、うわごとばかりを呟いている。
ビラ配りのことは、クラスのみんなには当然サプライズである。知っているのは秦野と睦美だけ。二人とも、僕の犯罪まがい行為を否定したりはしなかった。しょせんは他人事だからか、『やったれやったれ!』的なノリだった。
犯行、露呈しないといいな……。我が校にはコナンくんも金田一くんもいないので、大丈夫であると信じたい。
学校に到着、校門を通り抜けた瞬間、いつもと違うのを肌で感じた。
校門にばらまいた写真はすべて回収されたようで、一枚も落ちていない。問題は誰が回収したかである。用務員や教師がすべて回収していたら、彼らの中でしか噂は流れないはずで。しかし、聞き耳を立ててみると、
「ねえねえ、聞いた?」「ん、なに?」「なんかさ、校内に写真がばらまかれてたんだって」「ふうん」「どんな写真?」「うちの学校の生徒がホテルから出てくる写真なんだとか」「なにそれ?」「誰がばらまいたんだろ?」「嫌がらせかなあ?」「興味ねえ」「朝練のときにリサが拾ったらしいから、後で見せてもらおうよ」
教室に近づくにつれて、噂の解像度は上がっていく。同時に、噂話の宿命か尾ひれがついて壮大かつ間違った情報も流布され、まさにカオスと化している。都市伝説や怪談なんかも、こうやって話が膨らんでいったんだろうなあ。
廊下を歩いていると、写真を手に入れた生徒の姿がちらほら見受けられた。なぜか自慢げに友達に見せびらかしている人もいる。どうやら、さほど回収されなかったようだ――いや、ばらまかれた枚数が多くて回収しきれなかったのか?
早起きは三文の徳、とはちょっと違うが、朝早くに登校した人たちが、このプレミアフォトを手に入れたっぽいね。
「大変なことに、なってますね……」
座間さんは口に手を当てて、限りなく小さな声で囁いてくる。
「そうだね。でも、教室はもっと大変なことになってそうだ」
案の定、一年一組の前には人だかりができていた。
野次馬根性たくましいなあ、と僕は感心した。野次馬らしく、ヤジも飛び交っている。地獄のようなありさまである。その中で、担任の伊藤――ではなく、海老名先生がコバエどもを追い払おうとしていた。
「自分の教室に戻りなさい!」戻らない。「もうすぐ朝のホームルーム始まるぞ!」まだ数分の猶予がある。「はい、散った散った!」なかなか散らない。「ああっ、なんで私がこんなことしないといけねえんだよ!」
怒鳴り散らす海老名先生に見つからないように、泥棒のようにこそこそと低い姿勢で教室に入ろうとする僕。
「おい、学前」
――見つかってしまった!
「おはようございます、海老名先生。いやあ、今日も今日とて見目麗しゅう――」
首根っこを掴まれ、廊下の隅へと連行される。他の生徒に聞こえないような囁き声で、
「お前の仕業だろ」
「はて、なんのことやら」
ボディーランゲージ付きですっとぼけてみせるが、そんなのが通用する相手ではない。教室の前でおろおろ立ち往生する座間さんを一瞥すると、鋭い視線をこちらへ戻した。
「……座間のためか?」
「ええ、まあ」
僕が犯行を認めると、海老名先生は深いため息をこぼした。
「『やりすぎだ、馬鹿』と怒鳴ってやりたいところだが……悪いのは、座間をいじめた奴らだからな。怒るに怒れない」
「褒めてくださってもいいんですよ?」
「褒めるか、阿呆」
スラックスの尻ポケットから四つ折りのコピー用紙を取り出すと、海老名先生はそれを広げた。ちゃっかり手に入れてやがったな。
「『伊藤拓夢教諭と佐伯里奈の交際写真』『里中美優、パパ活の様子』――これ、本当なんだろうな」
「嘘だったらまずいでしょう」
「お前ならやりかねないからな、でっちあげ」
遺憾の意を表明したかったが、図星だったので、呻きと唸りを足して二で割った声しか出せなかった。ぐぬぬぅ……。
「聞きたいことはいろいろあるが、もうじき朝のホームルームが始まるからな――今、詰めるのはやめておいてやろう」
「じゃあ、こっちから聞いてもいいですか?」
「駄目だ」
「伊藤先生って今、どうしてます?」
「校長に詰められてる」
答えてくれた。校長、自分の悪事を棚に上げないでください。
「だから、今日のホームルームは私がやることになってしまった! ああ、なんてことだ!」
「今日だけじゃなくて、明日からも先生がやることになるのでは?」
「かもしれないな。生徒と交際してたんだから、まああいつはクビだろうしな」
クラスを受け持ちたくないのか、海老名先生は暗澹たる表情でため息をつく。それから、伊藤に対する怨嗟を垂れ流し始めた。イトセンのこと嫌いだったんだろうな、というのが見て取れた。教師の人間関係って、なんか聞きたくないよね。
つんつん、と背中を突かれた。座間さんだった。
先に教室に入ってくれてかまわないのに、律儀に待っていてくれたんだね――いや、一人で教室に入る覚悟がなかったのかな?
「教室、入りましょう」
「うん」
おはよう、と元気よく教室に入れば、殺意マシマシの視線が向けられる。あえてそれには触れず、気づかない振りして自分の席にカバンを置く。
重く澱んだ、張り詰めた空気。その中で、普段通りのテンションをキープできている者は誰一人としていない。教室の中はひそやかで、教室の外は騒がしい。そのコントラストに、胃がきりきりと痛む。
「学前」
佐伯が声をかけてきた。思わず息を呑む。声質だけで、噴火直前なのがわかる。彼女は自分の痴態が写った写真を僕の前に突き出し、
「これ、あんたの仕業?」
「いいや、僕じゃないよ」
「だったら、誰がやったんだよっ!?」
畜生、勝手に噴火しやがった。
僕も噴火しそうになる。猫を被るつもりだったが、早くも面倒くさくなってきた。
「さあねえ。僕が知るわけないじゃないか」
「本当にあんたじゃないの?」
「違うって言ってるだろ。くどいな」
唐突な態度の豹変に、佐伯は一瞬面食らったようだった。
だが、すぐに立て直し、僕を責め立てる。
「はぁ? なんなの、その態度。あたしに喧嘩売ってんの? 売ってるよなぁ?」
「前にも言ったと思うけど、こっちから喧嘩を売ったりはしないよ――売られた喧嘩は買うけどさ」
僕は握りしめた右拳を振りかざした。もちろん、ポーズである。実際に殴ったりはしない。だが、効果はてきめんだった。佐伯は悲鳴をあげて、その場に尻もちをついた。ああ、やっぱり。僕が暴力事件を起こして転校してきたという根も葉もない噂を、こいつも信じてるんだな。
僕は床に落ちた写真を拾い上げると、
「ふうん、『伊藤拓夢教諭と佐伯里奈の交際写真』ねえ……これ、本当なの?」
佐伯は何も答えない。肯定も否定もしない。
黙ってこちらを睨みつける彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
静まり返った教室。クラス全員の視線が、僕と佐伯に向いている。座間さんと目が合うと、彼女は小さく頷いた。秦野は神妙な面持ちで見守っている。睦美はにやつきが隠せていない。そして、廊下から轟く海老名先生の裂帛の叫び。
ひっくひっく、と。
教室に小さな嗚咽が響く。里中が泣いているのだ。
教師との交際とパパ活――どう考えても、後者のほうがダメージは大きい。圧倒的に。
仮に退学処分が下されなくとも、里中はそのうち学校を辞めるはずだ。というか、この様子だと明日以降、彼女が学校に来ることはなさそうだ。
かわいそう、とは思わない。
因果応報、自業自得、といった四字熟語が頭に浮かぶ。
いじめを行わなければ、こんな目に遭わずに――復讐されずに済んだのだから。
「佐伯さんも里中さんも、この写真が偽物だとしたら、きちんと否定しておいたほうがいいと思うよ」
助言する振りをして、塩を塗りこんでみる。
ここで形だけでも否定しておけば、ほんの少しだけだが、状況がよくなった――かもしれない。しかし、二人とも変わらず黙秘を続ける。
黙秘が正解のケースだって、もちろん存在する。しかし、この場合、黙秘は肯定となるわけで、『佐伯の教師との交際』と『里中のパパ活』、そのどちらもが事実である、と認めたのと同義である。
チャイムが鳴ったことで、この話は打ち切られた。
イトセンの代理として、海老名先生がホームルームを取り仕切った。ただでさえ悪い目つきが、普段の三倍くらい膨れ上がっていて、気の弱そうな生徒だったら、一睨みで殺せそうである。
彼女は生徒相手に愚痴りたそうな様子だったが、佐伯と里中がいる手前、さすがに愚痴るわけにはいかなかったようで、たまったストレスからか、タバコを求めて左手が絶えず蠢いていた。
一年一組の空気は最悪だ。高度三千メートル級の息苦しさの中、最低でも今日一日を過ごさなければならない、そう考えるとほとんど絶望的な気分にさせられる。しかし、それは僕一人だけでなく、クラス全員が共有するわけで。
絶えず突き刺さる無言のプレッシャーに、佐伯と里中はどれだけ耐えられるのか。
見物である。