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土曜日と日曜日の夜、睦美からメッセージが届いた。
休日返上でストーキングに勤しんだ睦美が目撃したのは、同じく休日返上でパパ活に勤しむ里中美優の姿であった。
土曜日に二人、日曜日に一人。金曜日の校長を合わせれば、三日連続で計四人のパパとホテルデートのお仕事。ラブホテルから出てきた場面を撮って、僕に送ってきたわけなのだが、悔しいことに僕が撮ったものよりも写りがよかった。むむむっ。『うまく撮れる自信ないから、お前らも来てくれよ』とは一体何だったのか。ふざけるなよ。
さて、僕が他の写真を所望したのは、パパ活写真で校長を脅すためである。脅すというと物騒な表現だが、つまりは保険である。
定年間近、外聞をやたらと気にする校長のことだ。三人の醜聞が校内にばらまかれれば、なんとかして揉み消そうとするはずだ。それを阻止し、三人を確実に退学させるための切り札がパパ活写真である。
これが風俗に入る写真ならば、ばらまかれても恥辱の極みで済むが、パパ活写真をばらまかれれば、校長も『退学処分』となるわけで。退職金は当然のごとく蒸発するだろうし、下手すれば未成年淫行で逮捕である。
なので、校長は僕に従わざるを得ないのだ。
準備はすべて整った――とかっこよく言いたいところだが、困ったことにまだ坂本の弱みを握れていない。三人同時に退学させなければならない、なんてルールは存在しないが、気持ち的には同時に退場していただくことが望ましい。
しかし、いつまでも坂本に張りつくわけにはいかない。終業式までは一か月強。長引くと、春休みに突入してしまう。期限を設けようじゃないか。タイムリミットは二月末日。三月になる前に坂本の弱みを見つける。無理だったら、そのときは――やっぱり、でっちあげるしかないよね。
そして、三週目が始まる。
◇
月曜日、火曜日、水曜日が過ぎ去り、木曜日の昼休みである。
尿意を催した僕はトイレに赴いた。現代日本には、連れションという大衆文化が存在するわけだが、此度は僕一人である。一人きりの放尿を楽しんでいると、がらりとドアが開き、女子のようなシルエットの男子が入ってきた。一瞬、女子生徒と錯覚した僕は、飛び上がり――すんでのところでキャンセル。飛び上がっていたら大惨事である。
「やあ、学前くん」
「やあやあ、君は選択科目の書道で一緒の一年三組の愛甲翼くんではないか」
やけに説明口調で僕は言った。一体、誰に説明してるんだろう?
小柄な女子くらい小柄で、かわいい女子くらいかわいい。『くん付け』ではなく『きゅん付け』したくなるくらいベリーキュート。僕の隣の小便器で用を足しているところから推測するに、彼はおそらく男なのだろう、多分。
「あのさ、ちょっと気になる話を小耳に挟んだんだけど……」
愛甲くんの放尿の音は、僕の放尿によってかき消された。
よって、愛甲くんが本当に用を足しているかどうか――それは不明瞭である。もしかしたら、彼は男装をした女の子なのかもしれない。ライトノベルではよくある設定なので、ありえなくもないはずだ。
「学前くんが前の学校で暴力事件を起こしたって、本当?」
「本当だと思う?」
試すように、僕はにやりと不敵に笑った。けっこう広まってるんだなあ、悪質なデマ。
「嘘だと思いたいんだけど、学前くんってほら、笑顔で人を殴り殺しそうな雰囲気あるじゃない」
いや、どんな雰囲気だよ。
「だから、あながちデマでもないんじゃないかって、ボク思ってるんだ」
「どうあがいてもデマだよ。悪質なデマゴギーだよ」
「そっか! やっぱり、デマだったんだ! ボク、信じてたよ! 学前くんは暴力事件を起こすような人間じゃないって、信じてたよっ!」
瞬時に矛盾する発言をのたまう愛甲くん。
人間がいかに矛盾に満ちた生物であるか、その実例と言えよう。
「あ、そういえば、あの話聞いた?」
「あの話?」
僕は手を洗いながら、愛甲くんの胸筋を一瞥した。僕の胸筋のほうがわずかに隆起しているような気がする。
「校長が不倫バレして、奥さんと修羅場ってるって話」
「ああ、あれね」
正確には、不倫じゃなくてパパ活なんだよな。
ただ、バレたきっかけはおそらく睦美お手製ブービートラップ。
僕と睦美と秦野の三人で校長の様子を確認しに行ったときのことを思い出す。意気消沈、悲壮感と絶望感が入り混じった表情を見て、僕たちは同情――はしなかったが、パパ活写真をプレゼントするのは、とりあえずやめておいた。心労で逝ってしまう恐れが、冗談ではなく本気であったからだ。
「なんだ。知ってるのかー」
「話は変わるけど」
僕は言った。校長に対する興味はもうない。
「愛甲くんのクラスに、勢原さんって子いるじゃない」
「いるねえ」
「どんな子?」
「いい子だよ」愛甲くんは答えた。「ほとんど喋ったことないから、よく知らないけど」
「だったら、いい子とか適当なこと言うなよ」
「もの静かな子なんだよ。だから、喋ったことほとんどないんだ。でもいい子だよ、多分」
トイレを出る。愛甲くんのことを知らないであろう男子が、すれ違いざまにぎょっとした顔を向けてきた。誤解しないでくれ。彼は男の子なんだ、多分。
「で、その勢原さんがどうかした?」
「お話してみたいから、呼んできてくれないかな」
「それはいいけど、君にはほら……えーと、なんとかさんって彼女がいるでしょ?」
「彼女は彼女じゃないよ」
ややこしい言い方だな、と我ながら思った。
「その座間さんについて、勢原さんとお話ししたいんだ」
「わかった。呼んできてあげるね」
愛甲くんはかわいらしくウィンクして、三組の教室に戻っていく。きゃあ、きゃわいい。あいつ、さては自分がかわいいって自覚あるな。セーターの袖とか、ちょっと萌え袖っぽくなってるし。
三組に知人はさほどいないので、僕はおとなしく廊下で待つことにした。
すぐに、一人の女子が音もなく忍び寄ってきた。座間さんと同じくらい小柄で色白の、ショートヘアの少女。デフォルトでジト目の子、初めて見たよ。
「……何?」
不機嫌なのかと思ったが、どうやら百倍希釈の極薄表情なだけのようだ。
「どうも。僕は一組の学前良樹です」
「知ってる。座間の友達」
「君も座間さんの友達、なんだよね?」
「そう、だと思う」
「勢原さん、右利き?」
「……え?」抑揚のなかった声に、揺らぎが生じた。「右利きだけど……それが?」
「奇遇だね、僕も右利きなんだ」
聞く必要性のまるでない質問をしてしまったな、と反省。
「実は座間さんのことで、話したいことっていうか頼みたいことっていうか――」
「手短に」
そう言われたので、天邪鬼な僕は手長猿並みに長く話そうと決意したのだった。
「ところで、勢原さんは座間さんとどこで知り合ったの? 部活? それとも――」
「選択科目の美術」勢原さんは食い気味に答えた。「部活は違う」
「二組の石田愛さんとも――あ、いや違うか。彼女とは体育の授業で知り合ったのか」
「石田も美術選択。デッサンをやるときに、私と石田と座間の三人でやった」
「じゃあ、石田さんとも友達?」
「かもしれない」勢原さんは首を傾げながら頷くという器用な仕草をする。「本題」
「うん、本題ね。ここではちょっと話しにくいから――」
「じゃあ、屋上行く。ごー」
勢原さんは大股で歩き出した。僕の普通股と同程度である。
アニメやマンガでは、学校の屋上で昼食を食べたり青春したりする描写が頻出するが、現実では大抵屋上は立ち入り禁止である。なので、屋上へと続く扉は固く閉ざされているはずなんだけど……なんかしらんけど普通に開いた。
人気のない屋上にて。
勢原さんと、かくかくしかじか会話をかわすと、貴重な昼休みがだいぶ少なくなっていた。そろそろ戻ろうか、うんそうだね、と僕が脳内で一人会話していると、扉の奥から人の気配を感じた――というか、階段を上がってくる音が普通に聞こえたのだ。
僕と勢原さんは顔を見合わせた。
一応、当校では屋上は立ち入り禁止となっている――つまりは、僕たちは校則違反を犯しているわけで、そのやましさからとりあえずは隠れることにした。
塔屋にかかった梯子を上る。レディーファーストと行きたいところだが、勢原さんが先だとスカートの中が見えてしまう恐れがある。僕は別に勢原さんの下着を見てもかまわないのだけど、勢原さんは僕に下着を見られたくはないはずだ。よって、僕が先に上り、紳士的に手を差し伸べた。
勢原さんが上り終えるのと同時に、屋上のドアが開いた。現れたのは、二年の見知らぬ男子生徒だった。スマートフォンを手に、浮足立った様子で屋上を歩いている。尿意を必死に我慢する様子に似てるな、と僕は思った。
屋上のドアが今度は乱暴に開き、待ち人が現れた。
げっ、坂本じゃん。
坂本は手に持った小さなポーチから、ジッパー付きの小さなビニール袋を一つ取り出すと、幾枚かの英世と交換でその袋を渡した。透明の袋の中には、乾いた草のような謎の物体が入っている。写真か動画を撮りたかったが、音でバレるリスクを考えるとそれはできない。悔し涙を流しながら、二人の会話に耳を澄ませる。
「毎度あり」「そういや、山中も欲しがってたんだけど、もう在庫ないよな」「ないね」「今度いつ買うの?」「もう買った。予定では今日届く」「これ、ネットで買ってるんだよな?」「そだよ」「どうやって受け取んの?」「普通に自宅に届く」「え。売人に住所教えてんの? 怖くね?」「別に。教えたって大丈夫っしょ」「いやあ、俺は無理だわー」「ていうかさ、あんまいろんな奴にヤクのこと教えないでよ」「えー、なんで?」「バレたら、ウチ終わるし。それに、自分で使う分なくなっちゃうから」「……すまん」「じゃ、よろしく」
坂本が立ち去ってから一分ほど時間をおいて、二年の男子生徒も立ち去った。
存在感を消し、息を潜めていた僕たちは、梯子を下りた。
「それじゃ」
「いやいやいや、ちょっと待ってよ!」
「……何? 学前の頼みは聞く。了承した。以上」
「今、僕たちの目の前でとんでもない取引が行われていたよね?」
「私には関係ない。告発したいのなら、学前がすればいい。以上」
ドライな子である。彼女と座間さんが友達であるという事実が信じられない――いや、タイプが異なるからこそ、友達になるのだろうか。僕の友達もみんな、僕とはずいぶん異なるタイプの人間だし。座間さんも、秦野も、睦美も、その他の友達も――。
こうして、僕一人が屋上に取り残された。せっかくだからと、グラウンドという下界を見下ろして「人がゴミのようだ」とムスカ大佐ごっこをしていたら、授業開始のチャイムが鳴りだした。なんてこったい。
◇
放課後、僕は猛ダッシュで帰宅した。といっても、帰ったのは自宅ではなく坂本宅である。彼女の両親は共働きのようで、夕方に帰宅することはない。郵便受けを漁っている最中に鉢合わせしないように、座間さんには坂本の尾行とその経過報告をお願いした。そんな定期的に連絡しなくていいんだけど……ってくらいに、律儀に定期的にメッセージが送られてくる。僕とは違って、根が真面目なんだろうな。
周囲に人がいないことを確認すると、僕は坂本宅の郵便受けを開けた。チラシやハガキに紛れて、茶封筒が入っている。手に取ってみる。アマゾンのパクリロゴが印刷されていて、思わず笑ってしまった。
すぐ近く、住宅街の中にある小さな公園のベンチに座ると、封筒をゆっくりと丁寧に、破いてしまわないように開けた。中にはビニール袋に包まれた謎の草が入っていた。
「……なる、ほど」
何がなるほどなのか、自分でもよくわからない。証拠となる写真を一枚パシャリ。筆箱からスティックのりを取り出して、開け口にべっとりと塗って再び封をする。よく見ると、一度開封したのがわかるが、坂本はよく見ないで開けてくれるでしょ。だから、これで大丈夫、なはずだ。
念のため、ハンカチで指紋を拭き取って(拭き取れたかなあ?)、郵便受けに返却。それから、座間さんにミッションクリアを報告。
今度こそ、準備はすべて整った――と言いたいところだが、残念ながら坂本が薬物をキメている写真は撮れていない。そんな写真が撮れるとも思えないので、僕にできることと言えば、女子高生が薬物に手を染めているという嘆かわしい事実を、善意の市民として警察に通報することくらいだ。
でも、そのことをどうやって伝える?
ありのままに話せば、僕も罰せられるかもしれない。ベンチで脚を組んで頭を悩ませていると、ふと海老名先生のことを思い出した。そういや、あの人『私には警察官の友人がいる』とかほざいてたな。
よし、海老名先生経由で警察に密告だ。
翌朝、職員室に赴いた僕と座間さんは、海老名先生に諸々の事情を説明した。先生は僕たちの――というか、僕の――所業を咎めたりはしなかったが、座間さんに対し「いじめのこと、私には相談してほしかったな」と少し寂しげに言った。
「す、すみませんでした……」
「謝るな。別に非難してるわけじゃない」
それから、海老名先生は僕のほうを向き、
「警察の友人には、後で私から伝えておく。他に、私に話しておきたいことは?」
「いえ、とくには」
「……怪しいな」
海老名先生の眼光が、僕の顔に突き刺さる。
「お前、さては何かよからぬことを企んでるんじゃないだろうな? ええっ?」
「いえいえ、そんなまさか」僕は笑顔で否定する。「よからぬことなんて、何も――」
「ふん。まあいい」
海老名先生はそれ以上、追及してこなかった。
土日を挟んで、月曜日。
学校に向かうと、『一年一組の坂本果歩という生徒が逮捕されたらしい』という出所不明の噂が、校内を駆け巡っていた。
「なんで逮捕されたの?」「麻薬やってたんだって」「覚醒剤?」「大麻だって話だよ」「俺はコカインだって聞いたけど」「あれ? ヘロインじゃないの?」「ねえ、コカインとヘロインって何が違うの?」「逮捕された子、麻薬を校内で売りさばいてたんだって」「え? 自分で使ってたんじゃないの?」「売人もやってたんだとか」「じゃあ、これから何人か捕まるかもしれないねえ」「捕まったら、退学になるのかな?」「そりゃ、なるだろ。逮捕だぜ?」「高校生って逮捕されるんだ。俺も気をつけよ」「捕まった坂本とつるんでた奴らも、ヤクとかやってるんじゃねえの?」「つるんでた奴らって?」「佐伯と里中」「それは偏見だろ」「いや、偏見じゃないでしょ」「まあ、類は友を呼ぶっていうからね」「私、里中と同中だったけど、あいつ中学時代かなりヤンチャしてたんだよね。だから、里中はやってそう」「ヤンチャしてたといえば、佐伯も中学時代、何人か不登校にしてたなあ」「それ、ヤンチャとかじゃなくて、ただのいじめっこじゃん」……。
一年から三年まで、果ては教師まで――校内は坂本の話でもちきりだ。
さすがに緊急で全校集会が開かれるものと思っていたが、何事もなかったかのように朝のホームルームが始まった。イトセンは坂本について一切触れなかった。彼は自分が今、喉元に刃を突きつけられた状態であることに気づいていない。佐伯との写真がばらまかれたとき、覇気のない顔はどう歪むのだろう。
佐伯と里中は明らかに苛立った様子だった。その理由が、友達が捕まったからではなく、自分たちに疑いの目が向けられているからであることは明白だ。普段、表面上はそれなりに仲良くしている人たちも、彼女らに声をかけずにいる。爆発寸前の爆弾なんて、誰も触れたくないに決まっている。
二月二四日。
坂本果歩が一年一組からいなくなった。
このようにして、復讐の火蓋が切って落とされたのだった。