15:
本日の授業について語るようなことは何もなく、気がつけば放課後である。
強いて言えば、ランチを一緒に食べないか、と座間さんを誘い断られたことが、ハイライトに載るか載らないかってくらいか。……なんのハイライトだ?
彼女が僕の誘いを断ったのは、僕たち(学前と秦野、ときどき睦美など)と一緒にランチと洒落込めば、悪目立ち間違いなしだからだろう。
座間さんは目立つことを嫌う。どこかの殺人鬼のように、植物の心のような生活に憧れを抱いているのだろう。世の中に目立ちたがり屋の人間が存在するように、その逆の人間もまた確かに存在するのだ。
さて、ここからが本番である。
下品な言い方をすれば、ここまでは――放課後までは前戯だったわけだ。
赤い布を前にした牛のように鼻息荒く、座間さんの席に向かうと、「あ、ちょっと待ってください」と言われてしまった。
「部活に顔を出してきてもいいですか?」
「もちろん、かまわないよ」僕に許可とる必要なんてないぜ。「文芸部だったよね?」
「はい。しばらくの間、部活を休ませてもらおうと思いまして、そのことを部長さんに伝えにいきたいんです」
「そっか。いってらっしゃい。昇降口で待ってるから」
「わかりました」
ここで声のトーンが落ちる。
「あの……対象が帰宅するようなら、私にかまわず尾行してください」
座間さんの真剣な口調に、僕は気圧される。
「う、うん……わかった」
座間さんが立ち去るのと入れ替わりで、にやついた睦美がやってくる。スケベの擬人化みたいな顔をしてやがるな。
「うっす」
「……なんだよ?」
「いやあ、座間とずいぶん仲良さげだなあ、と思いましてね。学前殿もなかなか隅に置けませんな」
「睦美ってさ、股間に脳がついてそうな顔してるよな」
「どんな顔だよ」
掃除当番の生徒たちが机と椅子のセットを持ち上げ後ろに下げていく。二人の男子生徒――ダブル鈴木が、ほうきをライトセーバーに見立ててスターウォーズごっこを始め、吉田さんにブチギレられていた。
こいつらアホだなあ、と思っていると、「学前、睦美――邪魔」と吉田さんに言われ、僕たちは追い出されるようにして廊下に出た。同じく廊下に出てきた秦野が、「じゃあね」と僕たちを含むクラスの下々に挨拶し、テニス部へと颯爽と旅立っていった。
僕と睦美は廊下の壁にもたれてお喋りする。
「にしても、お前ら急に仲良くなったな。さては告ったな? 座間に告ったな?」
「いや、告ってないって。まあ、でも、ここ数日でいろいろあったんだよ」
「聞かせろよ。そのいろいろってやつをよ」
睦美になら話してもいいだろう、なんだかんだ言っても友達なんだし。
そう思い口を開きかけた、そのとき――。
「でさー、そんときサトミがさー」
例の三人が教室から出てきた。僕は喉奥で出かかった言葉をキャンセルする。ほんの一瞬、佐伯がこちらを見たが、瞬時に興味を失ったのか視線を戻し、三人仲良く廊下を練り歩いていった。
一〇メートルほど距離があいたところで、僕は尾行を開始した。急に歩き出した僕を、二テンポくらい遅れて睦美が追いかけてくる。
「あ、おいっ! 帰るのか?」
「睦美。この後、空いてる?」
「あん? まあ、部活をサボりゃあ空くけど……ゲーセンにでも行くのか?」
「これから尾行するんだ。睦美もどう? 僕と一緒にレッツ・ストーキングしない?」
「尾行って、あいつらをか?」
睦美は顎をしゃくって、三人を指し示す。
「そう、三人を――正確に言うと、里中と坂本を尾行するんだ」
「なんだよ。佐伯はいいのか?」
「うん。佐伯の弱みはもう握ったから」
「弱みを握ったってなんだよ? つーか、弱み握ってどうするつもりなんだよ? まさか、あんなことやこんなことを――」
睦美が実に睦美らしいドスケベな妄想を繰り広げる中、僕は座間さんに『これより尾行を開始する』とメッセージを送った。こういう芝居がかった文体のほうが、喜びそうだと思ったからである。すぐに返信が届く――『了解であります。ご武運を』。はて、僕たちは一体、なんのロールプレイングをしてるんだ?
校門を出たあたりで、復讐計画について話した。興味があるんだかないんだかよくわからない表情で、睦美はしきりに頷いている。
「その計画、俺は賛同するぜ」
と、睦美は言った。
「目の上のたんこぶっていうか、あいつらがいなくなったほうが、クラスの雰囲気がよくなるのは間違いないからな。俺としても、あいつらが消えてくれたほうが嬉しいし……ああ、いや、告って振られたことを逆恨みしてるわけじゃないからな! 勘違いすんなよ!」
問い詰めたわけでもないのに、勝手に弁解する睦美。
そっか。そういや、睦美は三人全員に告白して、ただ振られるだけじゃなくて、人間性を否定され、なおかつ罵倒され、さらには無視されるようになった、とか言ってたもんな。そりゃあ、恨むよなあ。
「で、握った佐伯の弱みって何よ? イトセンと付き合ってるってやつか?」
「そう、その具体的な証拠だよ」
歩きながら、スマートフォンに保存された二人のラブホ写真を見せる。
ラブホテルに入っていく写真と、ラブホテルから出てくる写真――それぞれ厳選した一枚である。二人のスウィートラヴな表情、しっとりと濡れた髪、少しだけ皺のついた服。最近のスマホのカメラってすごい高画質なんだよな、と改めて思う。
睦美は目を見開き、食い入るように見つめている。
ちょっと――いや、だいぶキモい。
「な、なあ……」
野郎の荒い鼻息は、ただただ不快なだけである。
「これってよぉ、つまりよぉ」
興奮のあまり、睦美はラッパーみたいな口調になっている。
「佐伯と伊藤は肉体関係にあるってことだよな? つまり、日常的にセセセセセックスしてるってことだよな?」
「日常的かどうかは知らんけど、セックスはしてるだろうね」
「うわあ、まじかよ……許せねえな、イトセン」
モテない童貞の僻みにしか聞こえないのが、ひどく切なかった。
「生徒に手を出すようなドグサレ教師はクビにすべきだよな。そうだよな、学前!」
「睦美、うるさい。声のボリューム落とせ」
三人が振り返る気配を感じたので、睦美の首根っこを掴んで歩道橋の陰に隠れた。僕たちの後ろを歩いていた女子二人組が、忍者か変態を見るような目を向けてきた。前者であってほしいな。ニンニン。
歩道橋の階段の裏側から、顔だけ覗かせる。
尾行に気づく気配はなさそうだ。私、誰かに尾けられてるかも、なんてなかなか思わないもんな、普通。少なくとも、僕は思わない。
「変装アイテムとしてマスク持ってきたんだけど、どう? つける?」と僕。
「マスクしてる人あんまいないし、目立つんじゃないか?」と睦美。
というわけで。
僕たちは素顔をさらけ出したまま、尾行を続ける。
傍から見たら、探偵ごっこに興じている痛い二人組である。痛さ=青さであるならば、これもまた青春であると言えよう。一〇年後、高校時代、友達と探偵ごっこしたな、と若き日を思い出すかもしれない。
さて。
かつて全裸だった人類が衣服で肉体を隠すようになったように、今現在、素顔をさらしている我々もルッキズムの果てに、将来的に仮面で素顔を隠すようになるのではないか――と、社会派チックなことを考えていると、座間さんからメッセージが届いた。
『部長さんとお話ししました』『今、どこにいますか?』
睦美とともに尾行中であることを伝えると、『舞池駅で落ち合いましょう』と返信が来た。サムズアップスタンプを送っておいた。
舞池駅に到着すると、三人は駅舎ではなく、すぐ近くのスタバへと吸い込まれていった。『女子高生スタバ大好きの法則』を学会で発表してやろうか、と画策していると、睦美に肩を叩かれた。
「俺たちも入ろうぜ、スタバ」
「スタバかー……」僕は呟いた。「一昨日、行ったばかりなんだけどなあ」
「お前ってスタバ行く系のキャラだったっけ?」
なんすか、そのキャラ。「まあ、一人でスタバに行くことはほとんどないかもな」
「――ってことは、誰かと行ったのか?」
「うん。座間さんと」
「ええい、くそっ! 青春してやがるな、うらやましい! 俺も青春したいッッッ!」
地団駄を踏む睦美を横目に、僕は財布の中身を確認する。
うわっ……私のお金、少なすぎ……?
「あのさ、睦美。スタバはやめて向かいのマックにしない?」
「マックも行ったばかりだろうが」
「今、あんまお金ないんだよ。お前が奢ってくれるんなら、スタバに行ってやってもかまわないんだけど」
「この俺が、どうして野郎なんざに奢らなきゃならねえんだよ――マック行くかあっ!」
というわけで。
マクドナルドの二階、窓際のカウンター席に並んで座る。
座席のすぐ目の前の窓から、通りを見下ろすことができ、監視にぴったりの場所である。僕はホットコーヒーをちびちびすすりながら、座間さんに電話をかける。
「もしもし、座間さん。今、駅前のマックの二階にいるから」
『わ、わわわ、わかりました。今、会いに行きますっ』
小説のタイトルっぽい台詞を言うと、電話が切れた。通話時間、九秒の短い電話であった。やっぱり、電話でもキョドるんだなあ。
聞き耳を立てながら、ビッグマックを頬張っている睦美は、ひまわりの種を口に詰めたハムスターのようであった。ハムスターは超絶かわいいが、ハムスターのような睦美は別にかわいくない。
「お前、座間と連絡先交換してたのか」
「うらやましいかい?」
「うらやましいっ、ような……そうでもないような」
「ああ、そうだ。すっかり忘れてたわ」
僕は例の小箱を周囲の客にバレないようこっそりと睦美に渡す。麻薬取引のようなスリリングがそこにはあった。
「……なんだよ、これ?」
「誕生日プレゼントさ。睦美大和くん、お誕生日おめでとう」パチパチパチパチ。
「俺の誕生日、八月三日なんだが?」
「半年遅れの誕生日プレゼントだよ。遠慮なんかせずに、躊躇なく受け取ってくれ」
「これ、どうしたんだよ? 俺にやるためにわざわざ買ったってわけじゃねえだろ?」
「親父からもらった姉貴が僕に押しつけたのを睦美にプレゼントしたわけだ」
「すまん。さっぱり理解できないんだが?」睦美は哲学者みたいに眉根を寄せる。「というか、学前って姉貴いるのかっ。俺に紹介してくれよ!」
「紹介するわけねえだろうが――」
「あっ。やっぱり、学前くんと睦美くんだっ!」
ああん、誰だよ、と上体を捻って振り向く僕と、慌てて小箱をカバンにしまう睦美。受け取ってくれたみたいで、僕ちゃん嬉しい。一〇年くらいかけて、大切に使ってくれよな。
そこに立っていたのは――誰だっけ?
同じクラスの生徒でないことは、はっきりとしているが(さすがに同じクラスの生徒だったらわかる……はず)、なんだか見覚えがあるような気がしないでもない。僕と睦美の共通の知り合いで、こんな子いたかなあ?
「あ、あなたは――二組の石田愛さん!」
思い出せない僕を思いやってか、睦美が所属とフルネームを教えてくれた。助かる。
石田愛。思い出したぞ。秦野に恋する女の子。ただし脈無し。秦野に告白して振られたらしいが、まだ諦めていない様子である。『あきらめたらそこで試合終了ですよ』って安西先生も言ってるし、諦めずに恋の炎を燃やし続ければ、そのうち秦野の気が変わって付き合えるかも――いや、それは無理か。
石田さんは友達二人とガールズトークしに来たようで、その二人は僕たちと接点がないからか、デザートを貪ることに集中している。
接点――といっても、僕との接点は希薄なものだし、睦美との接点もまた彼の口調のぎこちなさからして希薄なものに違いない。
では、なぜ僕たちに話しかけてきたのか?
おおよそ想像はつく。僕と睦美が、秦野の友達だからだろう。僕たちと親しくなることで、秦野との距離をぐっと縮める作戦に違いない。しかし、それは無意味なように思える。秦野との距離が縮まったところで、きっと友達止まりだ。彼の恋人の座を射止めることは、石田さんには――いや、他の女性にもできまい。
あれだけ告白されても、彼女の一人もつくらないのだ。何か複雑な事情があるか、あるいは彼女という存在に興味がないか――そのどちらかだろう。
以上、秦野開成の恋愛事情に関する下世話な推測についてでした。
現実世界に戻ってくると、石田さんが「睦美くんって彼女とかいるの?」と尋ねていた。その質問自体はどうでもよく、最終的には『開成くんって実は彼女いたりするのかな? 気になっている人とかいるのかな?』に繋げたいのだろう。
「いやあ、いないっすよ。誰も付き合ってくれないんだよなあ、誰か付き合ってくれないかなあ……」
チラッチラッ。誰か友達紹介してくれませんか的な視線を送る睦美だったが、石田さんは目を合わせることすらせず、今度は僕に振った。
「学前くんは?」
「僕もいないよ、彼女なんて」
「いやあ、でも」睦美がいやらしく僕の肩を撫でてくる。「お前には座間がいるだろ?」
「え、座間さん? いやいや、座間さんとはそんな深い関係じゃないから。大体、親しくなったのだって、ここ最近のことだぜ?」
「でもな、座間は前々からお前のことをそういう目で見てたぞ」
「そういう目って何さ? 睦美みたいなスケベな目か?」
「ちげえよ」睦美、苦笑い。「『かっこいい! 白馬に乗った私の王子様!』って目だよ」
「どんな目だよ」
僕と睦美のしょうもない会話を、石田さんは心底どうでもよさそうな虚無的な顔で聞いている。こういう馬鹿な会話って、女子受けしないんだよねー。どういう会話が女性に受けるんだろう? やっぱり、難解で哲学的な会話とか? あなたはユング派ですかな? それともフロイト派ですかな? ユングやフロイトがどんな人か、僕全然知らないけど。
無駄な前置きを終わらせ、早く本題に入ろうと石田さんは口を開く。
「ところで、開成くんって――」
ガシャン、と大きな音がする。どうやら、誰かがトレイを落としたようだ。
とろいなあ、と目を遣ってみれば座間さんである。顔全体をゆでだこにした彼女は、落ちたトレイや床に散らばったフライドポテトの残骸ではなく、僕の顔に視線を固定したまま動かない。あー、今の会話聞かれたな。
トレイを落とした音は二階中に響き渡ったようで、普段あまり目立つことのない座間さんだったが、はからずもスポットライトを浴びることになった。そのことに遅れて気づいた座間さんは、赤を朱で塗り重ねたような顔で俯いた。
二階の掃除をしていた店員さんがやってきて「新しいポテトお持ちしましょうか?」と尋ねるも、座間さんの耳には届いていない。
座間さんのもとに向かうと、僕は店員さんに新しいポテトを頼み、彼女が持っていた掃除用具をお借りして、床に散らばって芸術作品と化したフライドポテトを片付けた。
「が、学前くん、あのっ……」ようやく口を開いた。「私、そのっ、えっと……」
フライドポテトの載ったトレイを店員さんが運んできた。礼を言って受け取ると、座間さんは僕の隣の席にトレイを置いた。
「私、学前くんのこと、スケベな目で見てませんっ!」
「うん、それは知ってる」
知りたいのは、僕のことを白馬の王子様と思っているかどうかである(秦野じゃなくて僕? にわかに信じがたいな)。だがしかし、それを本人に聞くのは無粋ってやつだろう。僕は空気が読める風流な男なのだ。
「あのさ、かなみんって学前くんのことどう思ってるの?」
石田さんは秦野のことを尋ねるのをやめて、そんな質問を座間さんに投げかけた。
というか、かなみんって……この二人、仲良いんだ。どういう繋がりなんだろう?
「え? どうって、そのー……」
「好きだったりするの?」
直球すぎんだろ。『好きじゃないです』ってはっきり言われたら、僕けっこう傷つくぜ?
答えに窮した座間さんに、石田さんはこんな質問をする。
「じゃあ、学前くんと開成くんだったら――どっちのほうが好き?」
「ど、どっちのほうが好き?」間が空いた。「ど、どっちも好きですよ、友達として」
「ふうん。友達なんだ、開成くんと」
「ああ、いや……友達だなんて言ったら、おこがましいですよね……えっと、知り合いというか、なんというか……」
「いいな、うらやましい」
石田さんはぽつりと呟いた。
「愛、シェイク溶けちゃうよー」「というか、もう溶けちゃってるよー」「愛、シェイク飲んじゃうよー」「というか、もう飲んじゃってるよー」と友達二人が、石田さんを呼んだ。「じゃね」と彼女は手を振ると、友達のもとへと戻っていった。秦野のこと、聞かなくてよかったのかな?