前世で料理人だった私
平々凡々な家庭に生まれ育った私は、容姿や学力など際だって秀でているところはなく、極めて人並みな人生を送っていた。
両親が共働きだったからか、小学生のときから家事はお手のもの。特に、料理の腕には自信があった。
料理が好きというよりは、夕食の準備をしたら両親が喜び、笑顔で食べてくれることが嬉しかったのかもしれない。
そんな私は料理学校を卒業し、下町の小さなレストランに就職した。
そこは家族との思い出のレストランで、温かい雰囲気とおいしい料理が自慢の店だった。
レストランに行けるのは、給料日や誕生日などの特別な日だけ。毎回、私は楽しみにしていた。
ふわふわ卵のオムライス、とろとろになるまで煮込んだ牛すじ入りのカレー、肉汁があふれるハンバーグなど。
レストランを訪れる人々は皆、笑顔だった。思わず微笑んでしまうくらい、どの料理も絶品だから。
私も、家族以外の人を笑顔にしたい。そんな志を胸に、料理人の道を歩み始めた。
思い出のレストランに就職できたのは、奇跡だろう。
料理人として始まった人生は、楽しいことばかりではなかった。
創業百年と歴史あるレストランは小規模ながら伝統があり、秘伝のレシピに従って仕込みから調理法まで行うという厳しい決まりが定められていた。
一年目は調理器具になんか触らせてもらえない。ひたすら皿洗いとサービス係としてお客さんに料理を運ぶ業務ばかり。
そこで私は、お客さんがどれほどの期待を持って、レストランにやって来ているのか目の当たりにする。
厨房に立てるようになったのは二年目から。その後、三年目、四年目と、どんどんできる工程が多くなった。
ほとんどの料理が作れるようになったのは、就職して十五年目くらい。
厨房の一角を任された十六年目に、衝撃的な事件が起きる。
総料理長であり、オーナーである人が、亡くなってしまった。
心筋梗塞だったらしい。オーナーは数十年、夜遅くまでソース作りをこなしてから朝方に帰り、数時間眠ったあと出勤するという生活を繰り返していた。
ソース作りはコックが代わる代わる行うよう意見もした。しかし「秘伝のソースは誰にも教えられない」と、意見をはね除けていたのだ。
オーナーから私に、一通の遺書が遺されていた。それは、秘伝のソースのレシピだった。誰にも教えることはできないと言っていたが、私には伝授してくれた。
暗に、店は任せたとメッセージを遺してくれているような気がして、胸が熱くなる。
そこから、オーナーの息子が経営を引き継ぐこととなった。
その頃の私は、独立もチラリと考えていたが、秘伝のソースは私しか作れなくなってしまったので退職もできず……。
新しいオーナーは経理部で働いていた、元会社員。料理のノウハウはからっきしだった。
ソースの意味、飾り付けの美しさなど、料理に必要な付加価値をわかっておらず、人件費や食材の原価をかけすぎだと指摘し、材料費の削減に従業員の解雇、契約農家の解除を勝手に決定してしまう。
こんな店ではやっていられないと、総料理長候補だった三十年選手のスーシェフが辞めたのは痛手だった。一気に、厨房のバランスは崩れてしまう。
これらは店の内事情で、お客さんはレストランの料理を楽しむために来店している。いつも通り笑顔で、おいしい料理を提供しなければならない。
一日十八時間ほど、ほぼ毎日フライパンを振り続けた私は――自分でも驚くほど、あっさり過労死した。